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非物資的労働をめぐって―武藤論文への応答として  小倉利丸

 本誌前号で武藤一羊は、ハート=ネグリの『〈帝国〉』(水嶋一憲、酒井隆史ほか訳、以文社、二〇〇三年)や『マルチチュード』(幾島幸子訳、NHK出版、二〇〇五年)への批判を通じて、グローバル資本主義の廃棄ともうひとつの世界の創造を、ハート=ネグリとは異なるパースペクティブから提示しようという壮大な構想に着手した。編集部から私に与えられたテーマは、この武藤論文へのコメントである。武藤論文のタイトルが「非物質的労働とマルチチュードの不思議」(本誌四六号所収、以下「武藤論文」と略記する)とあるように、武藤の異論は、単刀直入にハート=ネグリのパラダイムの核心にある非物質的労働とマルチチュードの概念規定そのものに向けられたものであり、これらの概念を駆使して展開される変革のプロジェクトへの根本的な疑問である。

 私はネグリの著作を翻訳したりネグリに言及したりしてきたから、武藤論文に対してある種のネグリ擁護を含んだ論争的なコメントを編集部は期待したかもしれない。以下で述べるように、私はいくつかの点でハート=ネグリを支持するが、私の基本的なスタンスは、ハート=ネグリが展開してきた〈帝国〉の議論にもマルチチュードの議論にも同意はしていない。このことは、すでにいくつかのエッセイで論じてきたことでもあり、いまここで再論するつもりもない。私にとってネグリが刺激的かつ示唆的であったのは、まさに一九七〇年代のイタリアのアウトノミア運動の渦中で彼がそれまでの左翼の運動を総括しつつ提起した一連の論争的な問題に尽きる。とりわけ「拒否の戦略」に示された労働倫理あるいは労働の尊厳(戦後イタリア国家の憲法を支える中心的な理念であると同時にイタリア共産党のイデオロギーでもあった)に対する徹底的な批判、前衛党主義の否定、工場を越える都市空間そのものを闘争の現場とみる新しい闘争論、こうした問題意識が、当時の労働運動だけでなく女性解放運動や対抗文化運動とも接合して、新たな反資本主義のパラダイムへの潜勢力を思想的に紡ぎだしたこと、このことに私は大きな刺激を受けた。ネグリが六〇年代から七〇年代にかけてどのような問題意識をもって運動を理論化しようとしてきたのかについては、『ディオニソスの労働』(長原豊他訳、人文書院)や『転覆の政治学』(拙訳、現代企画室)に詳しいので、ここではその詳細には言及しない。

 ハート=ネグリの『〈帝国〉』執筆の問題意識の背景には、武藤が指摘しているように、冷戦終結にともなって、文字通り外部なきグローバルな資本主義が登場したこと、先進国の労働力の構成が伝統的な工場労働者を主軸とする労働者階級ではなく、情報コミュニケーションやサービス分野の労働を中心とするようにシフトしてきたこと(ハート=ネグリの言う「非物質的労働」)、これらをふまえつつ、他方で反グローバリズム運動がまさに高揚期を迎える直前に書かれたのが『〈帝国〉』だった。『〈帝国〉』はシアトルの反WTO闘争を経験する以前に書かれており、また二〇〇一年以降の「テロとの戦争」も想定されていない(すでにその予兆としての湾岸戦争とその後の長期にわたる米国のイラクへの軍事攻撃があったのだが、この点を彼らは必ずしも重視していないように見える)。『マルチチュード』は『〈帝国〉』のための補論とでもいうべきものだが、この概念をネグリが借用してきたスピノザについてはすでに獄中で『野生のアノマリー』(杉村昌昭、信友建志訳、作品社、二〇〇八年)を執筆し、スピノザ・ルネサンスとでもいうべき思想界のブームのきっかけを作った著作となったことはあらためて指摘するまでもなかろう。ネグリのマルチチュードは、武藤が指摘するようにあまりに楽天的でありすぎるのは否めないが、ヨーロッパの社会運動のポジティブな側面を評価してあえて楽観論を選択するという戦略的なスタンスをとっているのであろう。

▼ハート=ネグリの方法論

 ハート=ネグリは、グローバル資本主義に対して普遍性をもつ批判的なパラダイムを提示するといった古典的な啓蒙主義的左翼知識人の類型にはあてはまらない。とりわけネグリにとって、社会の変化(進歩・発展、変化、転換、あるいは変革)は、資本と資本に敵対する主体との間の弁証法と、この弁証法を逸脱して資本の弁証法を拒否する主体が創造する資本からの自立(オートノミー)を不可欠の条件とするものだという理解がある。したがって、資本主義社会の本質とか普遍的な構造といったものがこうした主体を捨象しては成り立たないだけでなく、こうした主体を織り込んでのみ成り立つ資本主義は、そのつど、その主体の有り様の変化に応じて変化するものであって、この意味で、資本主義は〈変化する同じもの〉である。マルチチュードという主体の立て方は、いまここにあるグローバルな資本主義に関して、ネグリ(とハート)がさしあたり把握可能な社会変革の諸運動を通じて見いだすかぎりでの存在であり、また、それ以上のものではない。

 ネグリは、大戦間期から一九六〇年代までの時代にうみだされた大量生産の時代における変革の主体を「大衆的労働働者」と名付け、七〇年代にはこの概念をあっさり放棄して、これに換えて「社会的労働者」という概念を提起した。この転換は、膨大な数の労働者を一カ所に集中させる大規模な工場労働者の抵抗と反乱を招き、その頂点が一九六八.六九年の先進諸国の都市大衆反乱だった。七〇年代は、この都市の大衆的労働者の反乱への資本と国家による統治機構の再構築過程として、工場と大学の分散、製造業の機械化といわゆる「サービス化」「情報化」への産業構造の転換、そして石油危機とベトナム戦争敗北への対応としてのブレトンウッズ体制の再構築という危機管理型国家の登場として描かれた。労働者はもはや「大衆」としては登場できず、工場は分散化するが、同時に工場システムは都市に拡散し、都市それ自体がむしろ工場化する。これを「社会的工場」とネグリは呼んだが、こうした社会的工場の社会的労働者が新たな主体となって引き起こされた社会運動がイタリアのアウトノミアの運動であり、イギリスのフォードの工場労働者たちによる既成労働組合の統制を外れた山猫ストであり、こうした動きは、スペイン、フランス、ドイツなどにも広がった。アウトノミアと呼ばれる運動は、伝統的な概念としての労働運動では把握できない広がりをもった。「家事労働に賃金を」とか「働こうが働くまいが賃金を」とか「学生に賃金を」といった要求が登場し(ベーシックインカムの議論はすでに三〇年前に運動化されていたのだ)、労働の尊厳や労働倫理へのあからさまな否定が登場し、アブセンティズム(常習的または計画的なサボリ)が肯定的に評価される。他方で自由ラジオや街頭演劇など、都市の空間やメディアを資本と国家の支配から奪回する文化運動の新しい波が登場するのもこの時期だ。インターネットはまだなく、ネットワークという言葉はまだ社会現象を言い当てるものとしては未成熟であったが、明らかに今から三〇年近く前のポスト六八年の運動は、脱工業化しはじめた不況期にある先進国の新しい社会運動の萌芽をなしていたことは確かである。そして、反グローバリゼーション運動を通じて、ハート=ネグリは、社会的労働者の概念をあらたにマルチチュードとして再定義する必要を見いだした。その核心にあるのは、移民たちの運動だったことはほぼ間違いない。ネグリの視野にやっと移民というこれまで気づかれることのなかった主体が可視化されたのである。

 大衆的労働者から社会的労働者へ、そしてさらにマルチチュードへ、というネグリの主体をめぐる変遷は、彼が資本主義に抵抗する闘争の主体として見定める対象の変遷と対応している。このことは、彼の分析が普遍的な主体を立てることよりもむしろ、ある歴史的な時間と空間のなかで展開される闘争を彼なりにマッピングしながら、反資本主義闘争の最適な条件を理論化するという方法論に基づくものだから、たぶん今後一〇年もたたないうちに彼はさらにあらたな主体を発見し、それにふさわしいと彼が考える何らかの名称を与えることになるだろうと思われる。そうなれば、マルチチュードは古くさい概念ということになるのだろう。こうしたネグリの方法は、普遍的なスタイルで大きな物語を構築する伝統とは明らかに異なる。マルチチュードという概念を批判するとすれば、こうした非普遍主義的な方法が妥当かどうか、あるいはこうした方法を前提としつつ、マルチチュードの概念の射程がいまここにある変革の主体を総体として包含しうる内実を持ちえているかどうか、という観点から論じる必要があるだろう。武藤は後者のスタンスにたってマルチチュードの概念が失当であることをかなりの程度まで的確に指摘していると私は考えているので、以下では主として非物質的労働の議論に焦点を絞って私なりの見解を述べておきたい。

▼非物質的労働をめぐる問題の捉え方について

 武藤のハート=ネグリの非物質的労働への批判の論点は、大きく分けて三つある。一つは、非物質的労働としてハート=ネグリが言及している職種が、高所得が保障されているような金融部門やIT先端産業の高学歴の技術的な専門職から移民労働者が担っている低所得で不安定なサービス労働まであまりに幅が広すぎること、第二に、こうした非物質的労働は先進国都市部では多数を占める労働の形態かもしれないが、地球規模でみた場合には、農業をはじめとして物質的労働に携わる担い手が人口としても圧倒的多数であること、第三に、上記の二つからの結論として、非物質的労働の担い手をマルチチュードとし、さらに社会変革の主要な担い手とすることは、明らかに間違っているということ、である。

 社会は歴史的な構築物であるから、いまここにある社会の状況を説明することとその歴史的来歴を論じることとは切り離すことができない。このことは、進歩史観や単線的な歴史観を肯定することとは違う。この点で、ハート=ネグリの〈帝国〉、非物質的労働、マルチチュードという基本的概念の歴史的な位置づけのあいまいさを武藤は、「今日の状況として描かれる世界の様態が、歴史的にいつから生成したのか―「帝国」はいついかなる歴史的プロセスで発生したのか、分析全体のカギとなる「非物質的労働」はいつ頃から支配的となったかなど―にいっさい明確な説明がなされていない」と批判している。しかし、武藤はこの歴史的な経緯の議論を「不問に付すことにしよう」として、深く立ち入っていない。その理由は、非物資的労働の重視というそもそものハート=ネグリの立論を否定するからだが、私は、非物質的労働が先進国の労働市場で無視できない規模に拡大する一方で物質的労働が周辺化する歴史的な経緯は、資本主義の根本的な矛盾と不可分な長期的歴史的傾向として注目すべきだと考えている。このことは、以下で述べるように、非物質的労働を重視するハート=ネグリの資本主義批判のパラダイムを受け入れることとは違う。そうではなくて、非物質的労働と物質的労働のグローバルな分業構造が、グローバル資本主義において地理的にも構造的にも構築されてきたということ、したがって、グローバル資本主義批判のひとつの重要な観点は、非物質的労働と物質的労働の相互依存の関係をグローバルな階級構成のなかに位置づけつつ、両者をともに含みうる階級闘争を通じた階級構造の解体戦略が模索されるべきだという点を強調したい。ただし、ここでいう「階級闘争」とは、構造としての階級を解体する闘争であって、属人的な概念としての階級を前提とした概念ではない。伝統的な労働者階級とか資本家階級といった用語法を前提として個人をこのどちらかの階級に色分けすることで成り立つような概念としてもはや階級は存在しない。階級とは構造であって、人びとは、さまざまな意味・程度において階級横断的な存在としてこの構造に組み込まれるからだ(階級概念については、拙著『搾取される身体性』青弓社、一九九八年参照)。

 武藤が批判しているように、ハート=ネグリの非物質的労働には高学歴高所得の知的労働からファーストフードの店員までが混在している。こうした乱暴な括りが社会的生そのものを作り出す「生- 政治的労働」という把握と結びついているわけだが、この生‐政治的労働の概念的な混乱は、非物質的労働を生み出してきた資本主義の歴史的な傾向をハート=ネグリが把握しそこなったことにある。したがって、武藤とは逆に、この点について立ち入って論じておく必要がある。

 もともと資本主義は人間嫌いの制度を内在させてきた。世界を説明する原理に物理学や数学が動員されてきたことに象徴的に示されているように、機械的な正確さや速度への偏愛、力学的世界観が近代社会の人間の能力観を形成した。こうした人間観の根底にあるのは、資本の価値増殖活動が、速度と将来の予測可能性に支配されており、資本の回転期間の短縮は利潤率の増加に、不確定な生産や流通過程は利潤率の低下に結びつくという資本の構造的な特性に規定されている。スピードアップができない人間の身体的な限界や、合理的な思考を逸脱する感情を排除できない人間の人間たるゆえんの部分が、資本の利害と明らかに対立する。近代の誕生以降、人間の中に理性と非理性(感情)という相容れない二つが同時に存在し、社会的逸脱行動の原因をなす後者の前者による抑制が論じられることになる。しかし、理性とか感情といわれるような人間の外界との関係がそもそも人間の本質として存在するわけではなく、この両者は不可分一体のものとして、人間の外界との関係を構成するというしかない(この点については、拙稿「スピノザにおける資本主義批判とは」『別冊情況・六八年のスピノザ』〇九年六月、を参照)。非物質的労働は非理性的な側面と密接に関わり、理性的な側面は計算可能な人間の能力として機械化のターゲットになる。しかし、こうした見方は実は大きな誤りであって、人間の機械的な側面を理性として切り出し、残余を感情や非理性的な側面に割り当てているにすぎず、しかも、本来不可分なはずの両者を資本の効率性や予測可能性原則によって強引に分離するわけだから、機械化の傾向を不断に指向する資本と労働者との間には、和解しがたい溝が生じざるをえない。非物質的労働という捉え方は、この点をかなり単純化して捉えたというしかない。

 工業化として出発し、大量の労働力を農業から引き離し、農村を解体して都市の工場の物質的労働に動員することから出発した資本主義が、なぜ非物質的労働を中心部に抱え込み物質的労働を周辺化するような「発展」の経路をたどることになったのだろうか。資本主義は、政治理念としては、封建的な身分制を否定し、市場における取り引きの自由と平等に肯定的な価値を与えて、大規模な「国民経済」の枠組みのなかで労働市場を制度化することによって、フレキシブルな労働力の調達を実現しようとする一方で、人間の能力が労働力として商品化されて市場で売買された結果として、資本の下では、資本の指揮管理に服従し、自由と平等な権利関係は認められない環境に置かれる。こうした不自由・不平等な労使関係を当然のこととして受け入れ、資本のために労働することを人生の価値ある生き方であるという労働倫理が、学校やマスメディアから日常のライフスタイルに至るまで多様な回路で再生産される。『資本論』でマルクスが指摘したような一六世紀以降の本源的蓄積の過程で繰り返された怠惰や浮浪にたいする死刑を含む厳罰から、現代日本における野宿者のシェルター政策に至るまで、「機械」になりきれない人間の非理性的、非合理的な側面を労働倫理の下に押さえ込んで自己管理できるような資本主義的な統制の確立こそが資本主義の最大の課題のひとつであったし、今に至るまでこのことは変わりがない。

▼フォーディズムと非物質的労働

 非物質的労働の根源は、フォーディズムとして知られることになる二〇世紀の大量生産システム、それも米国が開発してきた工場制度それ自体にある(くわしくは拙著『支配の「経済学」』れんが書房新社、一九八五年参照)。大量の移民労働者を動員するベルトコンベア方式の大量生産システムは、一九世紀の機械制大工業における単純労働化とテーラーの「科学的管理法」を極限まで押し進める、まさに疎外された労働の全面的な採用ともいえるものだった。言語や文化の異なる移民労働者を効率的に管理するには、言語コミュニケーションに頼らない労働現場の構築が不可欠だった。このことは、熟練労働者が主導権を握る協業を排除し、労働現場の組織化を身体動作の細部に至るまで資本が管理する労務管理を発達させた。同時に、苦痛な労働による離職率の上昇を抑制するための方策として、高賃金を売り物にする出来高払い制度だけでなく、移民に米国の「国民」としてのアイデンティティを形成させる英語教育や米国流のライフスタイルへの同化を組織的に教育することが不可欠だった。

 こうしたフォーディズムの労働力形成は、同時に、移民国家の米国が、二度の世界大戦を通じて移民を含めた大衆を米国への愛国心をもつ兵士として訓練するためにも不可欠な「国民」的アイデンティティを形成していく過程と密接に関わり(このことは、植民地を抱えたヨーロッパ諸国にもいえることだ)、戦争における兵士のメンタリティの管理と連動して産業心理学や大衆宣伝の手法が発達してきた。また、公教育やマスメディアを通じた「国民」の形成は、普通選挙制度と社会政策の普及に伴って、労働者階級や女性など資本の利害と対立する大衆を政治参加させる大衆民主主義の方向をとるようになった。こうして、体制的リスクを議会制民主主義の内部に取り込んで、闘争の当事者としての主体性の根拠となるコミュニティの政治・経済的な自治を奪う結果となった。階級やエスニシティ別にゾーニングされてきたコミュニティがそれまでにもっていた自立的な意思決定や相互扶助の組織は解体され、政府と資本に経済的な生存に関わる権力が集中してしまった。また、無声映画、ラジオ、後にはテレビは、映像や音楽を通じて移民や黒人たちに「アメリカ」的なライフスタイルや価値観の共有を促すイデオロギー装置として機能した。このように、物質的労働が支配的であった二〇世紀前半の資本主義の最大の課題は、物資的労働へと自発的な装いのもとに強制的に動員される労働者に対して、工場での苦痛で疎外された労働に耐えうる精神性を与えることだった。

 工場の単純労働化は労働力の機械への置き換えへと進むが、そのきっかけとなるのは、多くの場合、労働者の集団的な抵抗や自然発生的なストライキ、高い離職率だ。こうして工場から抵抗要素としての労働力を排除し、機械に置き換える動機が資本の有機的構成高度化を促した。その後の二〇世紀の歴史は、同様のプロセスが、コンピュータの普及によってオフィスでも生じるようになったことを示している。これらのプロセスは、労働力のコストとリスクのバランスのなかで進む。労働保護法制が整備された高賃金の先進国ほど労働力を機械に置き換える過程は進みやすいが、資本蓄積の拡大が国民国家の枠組みに規定された市場の規模を越えて多国籍化すると、労働集約的な労働を低賃金で労務管理の制約の少ない第三世界に移転するようにもなる。この過程で非物質的労働は、主として二つのまったく異なる傾向をもって広がり始めた。ひとつは、工場のオートメーション化と大量生産システムの結果として資本の流通過程の最下流となる最終消費者への販売過程が資本にとっての大きなネックになった。販売過程の効率化と不確定性の最小化の手法は大量生産システムと表裏一体となって展開したが、工場が機械化される反面、販売過程の機械化は容易には進まず、ここが労働力投入の主要な分野となった。マーケティングとマスメディアを通じた広告のテクノロジーとともに消費者の消費欲望に働きかける労働は、工場の労働とは異なって、資本の意志を内面化した労働者を大量に生み出すことになる。こうした労働は低賃金で不安定な職種である場合が多いにもかかわらず、そこで要求される労働のスキルは、資本の意思の体現者となりスマイルを売り物にするような販売員となることだ。もうひとつの傾向は、資本組織の巨大化に伴う管理的労働の分業化であり、労務から財務に至る組織の管理統制に多くの労働力が動員されるようになる。この分野の労働は、高学歴で所得も高く、流通過程を担う底辺層の労働者とはまったく質的に異なる。そして、これら両者に共通して、資本と市場のコミュニケーションに関わる情報通信分野に大量の労働力が投入されるようになる。このような労働市場の構成の物質的労働から非物質的労働への転換は、一九五〇年代から六〇年代にかけて、先進国で相次いで起きる。七〇年代以降、先進国はサービス化、情報化、あるいは「脱工業化」とよばれるような労働力構成から明らかに支配的となり、物質的労働は〈周辺〉化される。

 非物質的労働は、人を労働対象とする労働であり、この意味でコミュニケーション的な労働、あるいはコミュニケーションの労働過程への包摂でもある。そして右に見たように、この過程には資本の管理的労働と流通過程の末端で消費者と接する労働というまったくその出自が異なる二つの労働が含まれることになるのだが、そのいずれにあっても労働者はその階級的な意識や反資本的な意識をもつことそのものが労働力の質に直接影響してしまう。非物質的労働の担い手は、この意味で、資本の利害と、この利害に包摂しえないみずからの存在から生じる労働者としての意識とのはざまで、深刻なジレンマを抱え込む。武藤がハート=ネグリに対して批判しているように「『非物質的労働』が『直接関係性』を構築する活動だとするとしても、今日支配的な事態は、資本が利潤の新しい源泉としてそれを活動の内部に統合したことを意味する」と述べているのは、日本の実情に即して言えばその通りである。

 しかし、たぶん、ハート=ネグリはこうした資本への統合に抵抗する少なからぬ存在を、彼らが経験している諸々のマルチチュードの運動の中に見いだしているのだろう。私は、統合と統合からの逸脱の両方ともが可能性としてありうると考える。この両者のどちらに重心が移動するかは、まさに資本との闘争のなかで決定される以外にない。もし、私たちが問うべき課題があるとすれば、グローバル資本主義の中枢に位置する日本において、たぶんハート=ネグリが経験しているようなヨーロッパとは逆に、なぜ非物質的労働の担い手の資本への統合がよりいっそう進展しているのか、という問題なのではないか。非物質的労働の担い手のジレンマは、たんなる労働現場における労働者の権利と資本の支配との対立に還元できるものではなく、まさに、そこで働く人びとのライフスタイルそのものを巻き込んだジレンマでもある点が重要だ。ハート=ネグリが救い出そうとしたのは、このジレンマのなかで、資本による意識の支配を拒否し、労働対象となる人びとをも巻き込んで抵抗の主体となるような非物質的労働の担い手なのだが、右に見たように、問題は単純ではない。むしろ労働者の意識やライフスタイルを巻き込んだ資本に包摂されるか、それとも資本から切断された流れを生み出すか、というその存在それ自体のあり方をめぐる熾烈な主体の争奪戦の場、それが非物質的労働が構成される場なのである。

 資本主義が〈機械〉を理想モデルとする非人間的なシステムへと進化する傾向があるということをふまえたとき、もっとも機械化が困難な領域に労働力需要がシフトしていくのは当然の結果である。その結果が、先進国のメガシティに端的に現れている非物質的労働である。しかし、これは資本主義のメダルの片面でしかない。もう一方の面には、機械化への傾向をコストによって冷静に判断する資本の経済計算が働く。その結果が第三世界における労働集約型の産業の形成である。農業から製造業、サービス業に至るまで低賃金の労働コストを条件に物質労働は国境を越えて移転を続けてきたが、第三世界における労働者や農民の抵抗と異議申し立ては、労働力を機械に代替しようとする資本の傾向を促す。グローバルに進展しつつある合理化と失業を解決する唯一の資本主義的な方法は、より大きな経済成長以外には選択肢はないのだ。これを資本は、自由貿易と市場開放、あるいはトリクルダウンの理論などによって正当化するわけだが、しかし、資本主義が本質的に〈機械〉モデルであり人間の人間たるゆえんを嫌う本性をもつ以上、この人間嫌いがもたらす人間への敵意は消滅することはない。

▼理論の普遍主義を超える〈周辺部〉の多様性―マルクスを超える?

 ハート=ネグリの〈帝国〉やマルチチュードの議論の決定的な限界は、資本蓄積が形成する自然や労働力の収奪のターゲットとされる〈周辺部〉が十分に視野に入っていないことにある。実はこの〈周辺部〉ほど多様なものはなく、理論化が困難な領域はない。資本蓄積の中心に近づけば近づくほど資本主義の政治・経済の理論モデルに近似するのだが、逆に、中心から遠ざかれば遠ざかるほど、政治(権力関係)も経済(生存のためのテクノロジー)もヴァナキュラーな場の特異性を帯びる(「ヴァナキュラー」という用語は、単なる伝統や土着的な生活様式ではなく、資本による支配に抵抗するなかで形成されるコミュニティーに固有の集団的な生存のあり方を指す)。この特異性が生ずるのは、周辺部になればなるほど資本の支配力が脆弱になり、資本による労働生産過程と生活過程の包摂が実質性を獲得しえず、形式的な包摂にとどまるからだ。このことは、市場の契約原理や市民社会の権利関係による労働力の支配の限界を意味し、その反動として、支配は暴力的になるか非近代的な権力関係や社会関係への依存を強める。ハート=ネグリが捉えた〈周辺〉部、あるいは資本主義の脆弱な領域は、非物質的労働の担い手としてのマルチチュードとして定義された集団だったが、これは〈周辺〉部の多様な集団のなかの一部にすぎない。

 資本主義は、グローバルな拡張を外延的にも内包的にも不断に押し進めなければ存続できない価値増殖依存型の経済だが、空間的にも人びとの生活世界においても、資本主義が一律均質に浸透するわけではなく、労働力としての人間に対する支配力のあり方に規定されて不均等にしか浸透できない。この支配力は、労働力とされる人間と資本の間の闘争と同調、摩擦と調和によって大きく左右される。抵抗や摩擦の集団的組織化は、往々にして「伝統」的あるいは「前近代的」と見なされるようなコミュニティの社会関係に依拠しているようにみえる場合が珍しくない。たしかにこうした側面を一面では持つとはいえ、他面では、資本主義的な支配力との力学のなかで、この伝統や前近代的な要素に規定された抵抗の集団性はその負の側面(たとえばジェンダーや民族に関する差別や偏見、家父長制への依存)が払拭され、ヴァナキュラーな関係を資本主義と前資本主義の双方に共通する矛盾を克服する方向で再構築する可能性を生み出す。かつてのように前衛党がこうした多様な民衆運動に対して画一的な組織化の原則を当てはめることを通じて抵抗の集団性を構築する条件は現在では見いだせない反面、コミュニティに基盤を置く自立的自発的な民衆の創意が、生活世界の特異性を抵抗の源泉に据える多様な闘争形態を生み出す。

 先進国のメガシティにおける移民のコミュニティ、第三世界の都市のスラム、あるいはパレスチナの難民キャンプ、これらはいずれもグローバルな資本主義の構造と無関係ではないが、これらを通底する共通したヴァナキュラーな関係を抽出することは容易ではない。同様に、中国農村部の貧農、ラテンアメリカやアジアの土地なし農民、米国南部の移民の農業労働者についても、同じことがいえる。本来、思想や理論は、こうした多様な抵抗の主体となりうる人びとの生存の諸形態からなんらかの共通項を見いだし、普遍的な理論を構築しようとする。ハート=ネグリによるマルチチュードという概念の提起もこうした傾向をもつが、ネグリによる大衆的労働者、社会的労働者同様、いまここにある抵抗の主体を同定するための仮説という側面もあり、近代主義的で普遍的な真理主義を回避してはいるが、抵抗と集団の多様性にみあうような理論化には明らかに失敗している。

 この失敗は、ハート=ネグリだけのことではない。むしろかれらが現代の資本主義におけるある種の先端的な産業構造のなかから非物質的労働とマルチチュードを抽出した手法は、もしかしたら一九世紀の産業革命で最先端にあったイギリス紡績産業の機械制大工業の下での工場労働者に資本主義的な搾取の本質を見いだそうとしたマルクスの『資本論』における、抵抗の主体、階級闘争の主体の捉え方にきわめて忠実であるとすら言えるかもしれない。マルクスは、さらに晩年になって、むしろ〈周辺〉部における抵抗の可能性に注目するようになったことはよく知られている。一九世紀の革命は、イギリスではなく、ドイツとフランスで大きな高揚をみせ、一九世紀初頭のハイチから二〇世紀初頭のメキシコにいたるラテンアメリカの独立闘争、インドをはじめとして、植民地での抵抗が続いた。マルクスはインドへの関心は強かったが、ラテンアメリカへの関心はほとんど見いだせないようにみえる。しかし他方で、〈周辺〉を捨象することによってマルクスは強固な搾取の理論と資本主義批判の基盤を構築しえたともいえるのだが、〈周辺〉の捨象という犠牲はあまりに大きかった。

 日本に限ってみても、戦前の資本主義論争から現代における「大きな物語」を拒否する草の根の個別課題に取り組む民衆・市民運動が紡ぎ出した経験の思想化に至るまで―前者と後者の間にはほとんど何の共通項もないにもかかわらず―、理論と現実との噛み合わせをめぐっては、いまだに未解決な領域なのである。この点を踏まえたとき、武藤によるハート=ネグリ批判は、実はかなり根源的な理論と思想の問題を提起していると思う。社会変革のための思想と理論の方法そのものに関わって、左翼の理論的なパラダイムでありつづけているマルクス主義の方法論そのものへの根源的な問いに通底しているからだ。ただし、この根源的な問いを、物資的労働の側に重点を置く方向でいまふたたび「大きな物語」の語り直しをするのであるとすれば、それはハート=ネグリとは逆の意味で、これまた現在の状況を的確に捉えることにはならないと思う。

(おぐら としまる)
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