06.30.2002
世界が私のカンバスだ!
私はかつて絵描きを名乗っていたことがあります。3年ほどのキャリアの終わりに銀座でささやかな作品展を開きました。しかし結局はその作品展が最初で最後の作品発表になりました。というのも、自分の芸術に関する観念が成熟するにつれて、作品を作らず、日常生活の中に芸術を解消するという方向をとっていくことになったからです。
絵画や映像、あるいは詩や文学作品にしても、結局のところフィクションに過ぎない。カンバスの上にどれほど美しい世界をくりひろげたとしても、また、いくら心ときめく冒険の物語を作りあげたとしても、それは作品の中での話に過ぎません。作品の枠を越えて、生活そのものを芸術で満たしてしまいたい。そんな気持ちが私の中で大きくなっていったのでした。
だがしかし、なぜそのような作品世界を人は作ろうとするのでしょう?おそらくは、自分自身そのような心ときめく生を、美しい生を求めているからではないでしょうか。当然でしょう。自分自身の欲望を、理想を実現してゆくことが生きることだとすれば。
もちろん作品によって自己を表現して、新しい生の局面を切り開いてゆくということは可能でしょう。私も、文学、美術など芸術表現の媒体(メディア)とは、そのように自らの生を充実させる手段であると考えていました。しかしすでにダダイストたちは、それら芸術表現の制度を破壊し尽くし、身体こそが人間の根源的な表現のメディアあるということを発見していました。芸術とは「行為」であると、つまり芸術とは生きることそのものだというのです。
彼らの弟子である私は、さらに問題意識を先に進めなければなりません。身体という根源的な表現のメディアの発見を浮き立たせるためには、文学、美術、演劇、映像といった二次的な表現のメディアの使用には、ストイックにならなければなりません。そして、日常の生活の中にこそ欲望の、理想の実現のドラマがなければならないと思ったのです。それが、芸術を日常生活の中に解消すると言うことの意味であり、私が作品を作らなくなった理由です。
今現在、私は芸術作品というものをいっさい作っていません。もちろん詩を書くことも、絵を描くこともありません。しかしながら、もし身体が根源的な表現のメディアであるとすれば、それは「私の生そのものが詩である。」と言いかえることができるのではないでしょうか?
また逆に、私自身が表現の主体でもあることを考えれば、「世界」、身体の対極の概念である世界そのものを、表現のメディアとしてとらえかえすこともできるのではないでしょうか? とすれば、「世界が私のカンバスだ。」と言えるのではないでしょうか? すなわち、生とは、世界というカンバスに描かれた詩であり、それはまた芸術そのものなのです。
絵画や映像、あるいは詩や文学作品にしても、結局のところフィクションに過ぎない。カンバスの上にどれほど美しい世界をくりひろげたとしても、また、いくら心ときめく冒険の物語を作りあげたとしても、それは作品の中での話に過ぎません。作品の枠を越えて、生活そのものを芸術で満たしてしまいたい。そんな気持ちが私の中で大きくなっていったのでした。
だがしかし、なぜそのような作品世界を人は作ろうとするのでしょう?おそらくは、自分自身そのような心ときめく生を、美しい生を求めているからではないでしょうか。当然でしょう。自分自身の欲望を、理想を実現してゆくことが生きることだとすれば。
もちろん作品によって自己を表現して、新しい生の局面を切り開いてゆくということは可能でしょう。私も、文学、美術など芸術表現の媒体(メディア)とは、そのように自らの生を充実させる手段であると考えていました。しかしすでにダダイストたちは、それら芸術表現の制度を破壊し尽くし、身体こそが人間の根源的な表現のメディアあるということを発見していました。芸術とは「行為」であると、つまり芸術とは生きることそのものだというのです。
彼らの弟子である私は、さらに問題意識を先に進めなければなりません。身体という根源的な表現のメディアの発見を浮き立たせるためには、文学、美術、演劇、映像といった二次的な表現のメディアの使用には、ストイックにならなければなりません。そして、日常の生活の中にこそ欲望の、理想の実現のドラマがなければならないと思ったのです。それが、芸術を日常生活の中に解消すると言うことの意味であり、私が作品を作らなくなった理由です。
今現在、私は芸術作品というものをいっさい作っていません。もちろん詩を書くことも、絵を描くこともありません。しかしながら、もし身体が根源的な表現のメディアであるとすれば、それは「私の生そのものが詩である。」と言いかえることができるのではないでしょうか?
また逆に、私自身が表現の主体でもあることを考えれば、「世界」、身体の対極の概念である世界そのものを、表現のメディアとしてとらえかえすこともできるのではないでしょうか? とすれば、「世界が私のカンバスだ。」と言えるのではないでしょうか? すなわち、生とは、世界というカンバスに描かれた詩であり、それはまた芸術そのものなのです。
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