Tue.

メルロー=ポンティが読みたいんだ。

 マルクスを読まなくちゃならないと思ってる。偉大な思想家なのはよくわかってる。なのになぜか僕が読みたいと思ってるのはぜんぜん別の本だったりするんだ。

 メルロー=ポンティの本が読みたい。

 思想はアクティブであるべきだ。マルクスのように世界の変革へとつき進む人、ニーチェのように生き方そのものが強烈なドラマとなってる人......。彼らの本を読むと、力が僕の体に入り込んでくるような気がする。
 それと比べると、いわゆる現象学者は地味な感じがする。何というか、大学の研究室でつくられた思想という印象が拭えない。フッサールしかり、ハイデガーしかりである。結局、彼らの人間としての存在よりも、学者のブランドの方がまさっているような気がするのだ。
 それにも関わらず、現象学の認識の襞の中に分け入ってゆくような繊細な言葉遣いに哲学を感じてきた。僕にとって哲学とは現象学の難しい言葉遣いだったんだ。とりわけメルロー=ポンティの本が好きだ。全く地味な人で、友人のサルトルがあれだけ華々しく活躍したのと対称的なほどだ。なのに僕は彼の書物に引き付けられる。「行動の構造」や「知覚の現象学」は通しで読んでないのにも関わらず、僕は何度も何度もポンティの文章を読みかじっているんだ。知覚や認識に関する難解な記述が続いているだけなのに、彼の一貫した思想が文章の中にいきいきと脈打っていて、まるでテキストが有機体のように思えてくるから不思議だ。
 徹底的にポンティの書物につきあってみるべきなんじゃないだろうか? ゆっくりできる時間があればなあ。彼の本を何冊かもって、タイのサムイ島の人気のないビーチで数週間を過ごせないものだろうか。いや、インドネシアのスマトラ島のトバ湖畔がいいかな。
 かつての流行思想、サルトルも、フーコーも、ドゥルーズ=ガタリもあまり読みたいと思わないのに、あんなに地味な人の本がなんで気になるんだろう。難解な言葉の羅列が、文学以上に文学的なのだ。何か大切なことを伝えたかったに違いないのだ。
 文化人類学者のレヴィ=ストロースは、メルロー=ポンティと一緒の学校で学んだ仲だというが、面白いものを見た。老レヴィ=ストロースのポートレイトの背後に彼の書斎だか、研究室だかが写っているんだけど、その中に小さい額に入ったポンティの写真が置いてあるのが写ってるんだ。何か大切な人の写真であるかのようにね。レヴィーストロースにとってメルローポンティは友人であるだけでなく、ポンティの思想そのものも構造主義者レヴィ=ストロースにとって宝物だったんじゃないだろうか? 地味に思えるメルロー=ポンティだが、じつはホンモノなんじゃないだろうか? そんなことをその写真を見て思ったんだ。
21:40 | 思想など | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
Tue.

仄暗い記憶の底から 1

 誰だって外国を一人旅するとなれば、一冊の本が書けるくらいの体験や思い出ができるものだ。今、僕は仕事が忙しくてホームページの更新もままならない。だから旅の思い出でも書いてみようかと思ったんだ。

 いちばん印象深いのは、初めて見知らぬ国へ足を踏み入れるときだろう。過去の体験の蓄積をどう寄せ集めたところで、全く新しい経験を予測することは不可能だ。全く未知の印象の連続に、何をどう判断していいのかもわからないまま、不安と緊張、そしてひそかな高揚をを感じつつその国に身をゆだねていくのだ。

 タイという国に関して僕は何も知らなかった。インドに行くための中継地点としてしか考えてなかったのだ。タイ人に興味もなかったし、何を食い、どんな言葉を話すのか......、まるでわからないままバンコクに降り立ったんだ。
 ドンムアン空港についたのは真夜中だったので、朝を待って空港の近くにある鉄道の駅へと向かった。山田長政の日本人町で有名なアユタヤまで切符を買って列車を待った。午前4時頃だったのでまだ真っ暗だった。早朝なのに空気が生暖かくて塩気を含んだようなネットリ感があった。蚊が飛び回っている。赤ん坊が刺されないようにとおばさんがパタパタと蚊を追い払っていた。近くに金ピカの仏教寺院があって、門のところで子猫がニャーニャーないている。猫は外国人の僕を受け入れてくれたような気がした。駅の近くにある屋台でお粥を作っていて、香ばしい匂いがする。そこに轟音を響かせながらディーゼル車に牽引されたバンコク行きの列車が到着して、ポワンプワンポンペン......というわけのわからない駅の構内アナウンスが流れ人が乗り降りする。
 アユタヤ方面に向かう下り列車は、まるで銀河鉄道999のような旧い列車だった。意外なほどスピードを出す列車の窓から気持ちのいい朝の風が吹き込んでくる。向かいに座っているタイ人のOLは靴を脱いで、木でできた座席に横座りして眠っていた。少し空が明るくなってくると、建物や森がシルエットで浮かび上がりはじめた。ヤシの木なんかも見える。僕は、ここは日本じゃない、全く別の風土へ、南国へやってきたのだ、とそのとき改めて感じたんだ。
21:40 | 記憶の底から | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
Tue.

仄暗い記憶の底から 2

 僕が初めて訪れた外国は、韓国だった。ソウルオリンピック直前だったと思う。’85年プラザ合意のあと円高が進行し、バブルなんて言葉はまだなかったが、好景気が続いていた頃だった。たしか地上げなんてのが社会問題になっていた。そんな経済状況の影響なのか、大学生なんかも気軽に海外旅行に出かけるような時代になっていた。
 当時、僕はフリーターだったが、仕事先には大勢大学生がバイトに来ていたので、彼らと付き合いが深かった。何人かで韓国へ旅行に行くらしく、「地球の歩き方」を持って彼らは計画を立てていた。それを見たときから急に韓国旅行の夢が僕の中で現実的になった。
 実は僕は韓国に興味があった。岡本太郎の韓国の紀行文を読んで影響を受けていたこともある。また当時の韓国は民主化運動が盛り上がっていた頃で、連日のようにそのニュースが報道をにぎわせていた。何か激しいエネルギーを秘めた国、という印象だった。今の日本にないもの、今の自分に欠けたもの、韓国を訪れることでそんなものに出会えるような直感があった。
 大学生の友人たちは、旅行に一緒に誘ってくれたが、僕はそれを断った。友達と海外旅行をするということは、日本での日常を外国まで引きずって行くということだ。それじゃあ意味がない。少しでも多く外国人と接するために、訪れた国の中に埋没するために、少しでも日本の日常から離れるために、僕は一人旅でなければならないと思ったんだ。そうしてこそ新しい自分を発見できると思ったからだ。

 旅は日常からの脱出だ。通過儀礼のように、山ごもりの修行のように、旅するものは孤独と危険を背負って歩かなければならないのだ。非日常をめぐる航海から日常生活へ舞い戻ったとき、旅するものは日常を新たな視点からとらえることのできる力を手にするのだ。
 はたして僕の旅がそのようなものであっただろうか?
21:37 | 記憶の底から | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
Tue.

仄暗い記憶の底から 3

 僕を知ってる人は意外に思うかもしれないが、十代の終わりにずいぶんとコンピューターに凝ったことがあった。当時コンピューター・グラフィックスが急速に映像の世界に入り込んできていて、自分を表現する手段として、僕はCGに可能性を嗅ぎ付けたのだ。NASAのボイジャー計画の惑星間飛行のCGや、「トロン」なんていう映画を見て、こんなことができるんだ、なんて思っていた。
 そう、僕はあの頃、美術大学の浪人生であったにもかかわらず、コンピューターの力を借りて総合芸術を自分一人の手で作り出したいなどと考えていたのだ。しかし、CGの世界へどのようにアクセスしたらいいのか見当もつかなかった。
 とにかくコンピューターに関する理解を深めなければならない、そう思ってカバンの中にデッサンの道具とともに「マイコン入門』なんて本を忍ばせたり、学校をフケて秋葉原をほっつき歩いたりしていたものだ。ちょうどパーソナルコンピュータという言葉が世間に広がりはじめた頃で、秋葉原にもパソコンの販売に大きなスペースを使う店が増えていった。パソコンを自由に使わせくれる店があって、僕は本を持ち込んでBASICのコマンドを打ち込んでパソコンを動かしていた。
 予備校がひけたあとバイトをしていたが、絵の具代やカンバス代に消えてしまって、とにかく金がなくてパソコンなど買えなかった。当時はNECのPC- 8001、シャープのMZシリーズなどが売れ筋だった。アメリカのパソコンはアップルとコモドールという会社のものが有名だった。今、僕はMacを使ってるけど、あの頃のアップルコンピュータなんて高くて手を出せるようなものじゃなかった。8ビットの今ではオモチャのようなパソコンが30万円以上したんだよね。
 本当にあの頃僕はパソコンが欲しかった。でもいつの間にか急速にコンピュータやCGに対する興味が失せてしまった。僕の芸術に対する考えがひっくり返って、僕は新しい芸術の地平に踊り出そうとしていたのだ。それ以来映像メディアに関心が持てなくなって、自らの身体、メディアとしての身体に注目するようになったんだ。(これに関してはいつかちゃんと書こうと思っている。)
 80年代前半、僕にとっては精神的に辛い時期だった。ひとつ間違えればヤバい世界にのめり込んで行ってしまったかもしれない。二年前にこのiMacを買った時、秋葉原をブラブラしてた頃の憂鬱な気持ちがふとよみがえったんだ。
21:36 | 記憶の底から | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
Tue.

仄暗い記憶の底から 4

 ピマーイのクメール遺跡を見物し終えた僕は鉄道に乗ってメコン川ぞいの町へ向かっていた。列車はガラガラで、貸し切り列車みたいで気持ち良かった。駅に停車すると僕の車両に誰か人が乗ってくる気配がした。ああ、これで貸し切り状態も終わりか、と窓の外を眺めながら思った。ところがその人はガラガラの車内であるにもかかわらず僕の斜向いに腰を下ろした。しかも視線を感じる。うっとおしいやつじゃなければいいけど......。知らんぷりしてるわけにもいかないので僕は車内に顔を向けた。
 意外なことにそこには十六、七歳の少女が座っていた。なにかタイ語をしゃべって、こちらを見ながら微笑んでいた。初めてのタイだ、言葉なんかわかるはずはない。彼女も言葉が通じないとわかるとタメ息をついたが、パっと僕の向い側の席に移って、さらに何か言い続けていた。
 小麦色の肌、ショートカットの黒髪、大きな瞳、どこにでもいそうなタイの娘だ。その娘がニコニコしながら何か話しかけてきている、瞳は好奇心でいっぱいだ。少し挑戦的な、それでいて優しい瞳だった。二十七年間の貧弱な女性経験しかない僕の人生で、いままでこんな瞳で女の子に見つめられたことが一度でもあっただろうか。
 同じ駅から乗ってきた少年たちが、全く言葉の通じない彼女のことをせせら笑っていた。少女はちらっとそいつらを見たが、すぐこちらに視線を戻して何事もなかったかのように微笑んで、しゃべり続けた。物怖じしない、それでいて水の流れのように自然で無邪気な情感にふれて、僕の中に驚きと喜びがジワジワと広がってゆくのを感じた。何度も洗って色落ちしたTシャツを着ていた。小さな胸のふくらみの上にはLOVEと言う文字がプリントしてあったのを今でも覚えている。
 一体どうやって会話したのだったろうか。どうやらコラートにある友達の家に遊びに行って、今は自宅に帰るところらしい。奥さんはいるの?とか、カメラで一緒に写真を撮ってとかいっていた。カメラを持っていなかったのが残念だ。唯一彼女が知っている日本語は「サクラ」だった。しきりにサクラ、サクラと口にしていた。
 住所の交換を済ませると、彼女の降りる駅に着いたらしく列車を降りて行った。僕の席の窓の下に悲しそうな顔をして立っていた。僕は何かあげるものはないか思案を巡らせた。そうだ、日本のコインがある。100円玉、10円玉、1円玉......、彼女にとっては外国のコインだろう。100円玉の裏表をしげしげと眺めていたので僕は「サクラ、サクラ」と言っておいた。たしか100円玉に刻んであるのはボタンの花だと思ったが......、まあいいや。少女はパッと笑顔になって、100円玉をかざしながら何かタイ語でいっていた。
 あとは列車が発車して大きく手を振ってお別れ、という月並みなストーリーだった。たったそれだけのことさ。でも、あの時きっと僕の中のタイ人に対する構えというか緊張感のようなものが溶けだしたに違いない。あの小川のせせらぎのようにサラサラとした無邪気で自然な感情に、そしてあの少女の笑顔にどこかでまたあえるのじゃないだろうか? そんな秘かな期待が、僕をその後何度もアジアへの旅に誘ったに違いないのだ。

さて、この少女のガール度は? 93ガール.........高得点!
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