05.18.2004
仄暗い記憶の底から 12 赤坂憲雄『排除の現象学』を読んだ頃
確か22才の頃だったと思う。本屋で立ち読みをしていた僕は、偶然、別冊宝島の「精神病を知る本」という本を手にした。パラパラと中身を読んで、面白そうなので買って帰った。表題から想像されるのとは違って、この本の内容は精神病の解説などではなく、僕たちが今現在生きている近代市民社会は、いわゆる「狂気」を病気と見なして社会から排除することによって成立している、という驚くべき論であった。近代以前の社会では、「狂気」ともっと親密な関わりを持ち、共同体の中に受け入れられていたが、その狂気を「病気」として精神病院の壁の中に閉じ込めることによって、今日の理性的な近代市民社会の空間が成り立っているというのだ。
前衛芸術に興味を抱き、また登校拒否の経験者を友人に持ったために反制度的な問題意識を植え付けられていた僕は、近代社会への違和感を皮膚感覚として抱き始めていたこともあって、この近代社会の成立における狂気の排除、という現象に大きな関心を持った。
この本の要になる書き手の名前は、赤坂憲雄という人だった。この名前を頭に入れて東京の大型書店を探していると、赤坂憲雄著『排除の現象学』という本が見つかった。さっそく買って読んでみると、これがまた驚くべき本であった。
異人論の観点から僕たちの日常を読み解くというのがこの本のテーマだ。ある共同体の秩序の成立には、ある暴力的な排除が存在するという、いわゆる第三項排除論によって様々な社会問題………いじめ、浮浪者、新興宗教などをめぐる事件を分析している。
文化人類学や民俗学、そして中世史などの研究から析出された分析装置を用いながら、鮮やかにそして繊細にかつするどく事件を斬ってゆく手並みには感心するばかりであった。
「精神病を知る本」においてもそうであったが、明らかにここには近代社会に対する批判的な視線があった。
ある共同体の秩序は、その共同体内部のある要素を排除するという根源的な暴力によって形成される。それは近代のみならず、古代や中世の、また未開の社会にも共通するメカニズムである。文化人類学に触れたことのある人なら、秩序/混沌、中心/周縁、日常/非日常、光/闇、意識/無意識、といった二項対立のキーワードを聞いたことがあるだろう。異人(ストレンジャー)とは、この二分された秩序と混沌の境界にあって、ある共同体の周縁に排除された要素のことなのである。そして異人は、共同体の秩序の形成のため常に再生産されているのだ。そのため異人は反秩序的な、忌避されるべき、闇のオーラをまとった不安や恐れを抱かせる存在になった。しかしそれら異人たちは時には神聖な存在でもあり、硬直した共同体の日常性を活性化する役割をも担うものでもあったのだ。たとえば中世の社会において、そのような異人的存在として、旅芸人、巡礼者、シャーマンなどがいた。不具者や、おそらく狂気も、かつては忌避され恐れられるとともに神聖な存在として共同体の中で独特な位置を占めていたのだ。
しかし近代社会は、このような両義的な存在であった異人との関係性を失ってしまった。狂気も単なる病気として、精神病院の壁の中に閉じ込められ、僕らは非日常の闇と出会うチャンネルを失いつつある。無味無臭の均質的空間を志向する僕たちの近代社会の硬直した日常性の病理、赤坂憲雄は、それを『排除の現象学』で描き出そうとしていたのだ。
だが、この本の出版の後の赤坂は、自身の言う「考古学」、すなわち民俗学や中世史の研究の方向へと向かった。特に民俗学者、柳田國男の『遠野物語』の研究のため遠野に通いつめ、現在では東北にある大学の先生になって「東北学」なるものを構想しているという話だ。
人の進む道にとやかく言う権利はないかもしれない。が、「排除の現象学」を書いていた頃にあった近代性へのクリティカルな視線が、今現在の彼の仕事の中からすっかり鳴りを潜めてしまっているのは確かだ。間違いなく近代への秘めたる憤りが、赤坂にあれらの書物を書かせたに違いないのだ。もっともフィールドワークによって、近代化以前の民俗の生き生きとした世界観を拾い上げるだけでもそれは反近代的な行為であるかもしれない。しかしそれだけでは失われゆくものへのノスタルジーでしかないと思う。
確かに赤坂憲雄の近代社会の分析は鋭く、そしてとてつもなく繊細だった。しかし彼の言葉の線の細さが気になってもいた。考えてみれば、分析に終始していた彼のディスクールの中には、赤坂自身の生き方を語った言葉はなかったように思う。結局のところ彼は観察者でしかなかったのだろうか。しかしながら世界を眺める視線はそれだけですでにその人の生き方に直結しているはずだ。したがって、これだけ深く近代社会を分析し、批判する眼を持っていた彼が語るべきだったのは、「私自身が、近代市民社会における異人(ストレンジャー)となり、硬直化した日常を活性化させなければならない。」という言葉ではなかったろうか。その言葉が発せられなかったということは、赤坂憲雄が研究者であり、学者であるということではあっても、一つの精神、一つの存在ではなかったということなのではないだろうか。
いや、もちろん僕ははっきりわかっているのだ。それは僕自身のマニュフェストなのだということを。ようするに赤坂憲雄という人の書き上げた書物の中に、僕は僕自身の未来を読み込んでいた,ということだ。
唐突ではあるが結論として言っておこう。硬直した僕らの近代空間(コスモス)に、闇の持つ混沌(カオス)としたエネルギーを導き入れ、日常生活を活性化すること。これが現代の異人たる「祭り」の精神の持ち主の仕事なのだ。つまり、僕が若い頃から掲げていた課題、アバンギャルド芸術の乗り越えとは、僕自身が現代社会の中での異人(ストレンジャー)でなければならない、ということの謂なのだ、ということである。赤坂憲雄の『排除の現象学』を読んで受けた衝撃は、あの本の中に自分自身の未来の姿を発見した驚きだったのだ、と今では思う。
前衛芸術に興味を抱き、また登校拒否の経験者を友人に持ったために反制度的な問題意識を植え付けられていた僕は、近代社会への違和感を皮膚感覚として抱き始めていたこともあって、この近代社会の成立における狂気の排除、という現象に大きな関心を持った。
この本の要になる書き手の名前は、赤坂憲雄という人だった。この名前を頭に入れて東京の大型書店を探していると、赤坂憲雄著『排除の現象学』という本が見つかった。さっそく買って読んでみると、これがまた驚くべき本であった。
異人論の観点から僕たちの日常を読み解くというのがこの本のテーマだ。ある共同体の秩序の成立には、ある暴力的な排除が存在するという、いわゆる第三項排除論によって様々な社会問題………いじめ、浮浪者、新興宗教などをめぐる事件を分析している。
文化人類学や民俗学、そして中世史などの研究から析出された分析装置を用いながら、鮮やかにそして繊細にかつするどく事件を斬ってゆく手並みには感心するばかりであった。
「精神病を知る本」においてもそうであったが、明らかにここには近代社会に対する批判的な視線があった。
ある共同体の秩序は、その共同体内部のある要素を排除するという根源的な暴力によって形成される。それは近代のみならず、古代や中世の、また未開の社会にも共通するメカニズムである。文化人類学に触れたことのある人なら、秩序/混沌、中心/周縁、日常/非日常、光/闇、意識/無意識、といった二項対立のキーワードを聞いたことがあるだろう。異人(ストレンジャー)とは、この二分された秩序と混沌の境界にあって、ある共同体の周縁に排除された要素のことなのである。そして異人は、共同体の秩序の形成のため常に再生産されているのだ。そのため異人は反秩序的な、忌避されるべき、闇のオーラをまとった不安や恐れを抱かせる存在になった。しかしそれら異人たちは時には神聖な存在でもあり、硬直した共同体の日常性を活性化する役割をも担うものでもあったのだ。たとえば中世の社会において、そのような異人的存在として、旅芸人、巡礼者、シャーマンなどがいた。不具者や、おそらく狂気も、かつては忌避され恐れられるとともに神聖な存在として共同体の中で独特な位置を占めていたのだ。
しかし近代社会は、このような両義的な存在であった異人との関係性を失ってしまった。狂気も単なる病気として、精神病院の壁の中に閉じ込められ、僕らは非日常の闇と出会うチャンネルを失いつつある。無味無臭の均質的空間を志向する僕たちの近代社会の硬直した日常性の病理、赤坂憲雄は、それを『排除の現象学』で描き出そうとしていたのだ。
だが、この本の出版の後の赤坂は、自身の言う「考古学」、すなわち民俗学や中世史の研究の方向へと向かった。特に民俗学者、柳田國男の『遠野物語』の研究のため遠野に通いつめ、現在では東北にある大学の先生になって「東北学」なるものを構想しているという話だ。
人の進む道にとやかく言う権利はないかもしれない。が、「排除の現象学」を書いていた頃にあった近代性へのクリティカルな視線が、今現在の彼の仕事の中からすっかり鳴りを潜めてしまっているのは確かだ。間違いなく近代への秘めたる憤りが、赤坂にあれらの書物を書かせたに違いないのだ。もっともフィールドワークによって、近代化以前の民俗の生き生きとした世界観を拾い上げるだけでもそれは反近代的な行為であるかもしれない。しかしそれだけでは失われゆくものへのノスタルジーでしかないと思う。
確かに赤坂憲雄の近代社会の分析は鋭く、そしてとてつもなく繊細だった。しかし彼の言葉の線の細さが気になってもいた。考えてみれば、分析に終始していた彼のディスクールの中には、赤坂自身の生き方を語った言葉はなかったように思う。結局のところ彼は観察者でしかなかったのだろうか。しかしながら世界を眺める視線はそれだけですでにその人の生き方に直結しているはずだ。したがって、これだけ深く近代社会を分析し、批判する眼を持っていた彼が語るべきだったのは、「私自身が、近代市民社会における異人(ストレンジャー)となり、硬直化した日常を活性化させなければならない。」という言葉ではなかったろうか。その言葉が発せられなかったということは、赤坂憲雄が研究者であり、学者であるということではあっても、一つの精神、一つの存在ではなかったということなのではないだろうか。
いや、もちろん僕ははっきりわかっているのだ。それは僕自身のマニュフェストなのだということを。ようするに赤坂憲雄という人の書き上げた書物の中に、僕は僕自身の未来を読み込んでいた,ということだ。
唐突ではあるが結論として言っておこう。硬直した僕らの近代空間(コスモス)に、闇の持つ混沌(カオス)としたエネルギーを導き入れ、日常生活を活性化すること。これが現代の異人たる「祭り」の精神の持ち主の仕事なのだ。つまり、僕が若い頃から掲げていた課題、アバンギャルド芸術の乗り越えとは、僕自身が現代社会の中での異人(ストレンジャー)でなければならない、ということの謂なのだ、ということである。赤坂憲雄の『排除の現象学』を読んで受けた衝撃は、あの本の中に自分自身の未来の姿を発見した驚きだったのだ、と今では思う。
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