09.02.2004
この人を見よ
ニーチェの本は10代の頃から読んではいた。しかしさっぱりわからなかった、というのが正直なところだ。突然再びニーチェが僕の視野に飛び込んできたのは30歳も過ぎた頃だった。どういうわけなのか、小倉利丸の『搾取される身体性』という本を読み、感銘を受けていたとき直感的に僕はニーチェを読みうる、と思ったのだ。小倉利丸の本自体はマルクスの新解釈とでもいったものだったが、おそらくその反システム的な思考がニーチェ的だと直感したのかもしれない。
東南アジアに旅に出た。そのときニーチェの本、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』を持って行った。バスの移動中に、プーケットの海岸で、ペナンの安宿で、そしてトバ湖畔で、僕はニーチェを読み続けた。とても面白かったのだ。繰り返し読み、海の水の中に落としてしまった文庫本はヘロヘロになってしまった。
バンコクにある紀伊国屋書店でニーチェの本を探した。『ツァラトゥストラはこう語った』と『この人を見よ』が売っていた。日本で買うより2倍もする値段で買い、読み続けた。なんだか旅そのものよりニーチェを読んでいたことしか今では記憶に残っていない。
ニーチェ論はいつか書きたいと思っている。それはきっとだいぶ先のことだろう。今はその準備がない………。とにかくたっぷりと暇な時間があったあの旅行中に読んだニーチェ、とりわけ『この人を見よ』が印象に残っている。『この人を見よ』はニーチェの破天荒な自伝だ。「なぜ私はかくも賢明なのか」とか「なぜ私は良い本を書くのか」といった自己賛美ともとれる内容のこの本の中には、しかし明らかなニーチェの天才がわずかな狂気とともに疾走している。実際この本を書いた直後、ニーチェは発狂してしまい、もう元の聡明な精神が戻ることはなかった。
世界の歴史はソクラテス、プラトンの時代以降、デカダンの言説に汚されてきた。キリスト教の教義はその最たるものである。その後、哲学をふくめめ人の口に上ったのはデカダンの精神による奴隷道徳であった。ニーチェは歴史上初めてこの道徳の限界を破って、善悪の彼岸に立った。ニーチェは自分自身を世界史の転換点とすら考えていた。
この誇大妄想チックなニーチェの自己賛美は、やはり賛美にあたいするものだと思う。ニーチェの思想はそれだけ巨大なものなのだ。自己賛美とそれを冷静に客観的に眺め楽しんでいるかのようなニーチェ………間違いなくそこにはニーチェのクリアな知性がある。だが、この本が終わりに近づくにつれて、文章は異様な勢いと爽快感に満ちてくる。なにかの臨界点に近づきつつあるように………。油絵を描くときに使うテレピン油のような爽快感だ。狂気がドラマチックにニーチェの天才を攻略しようとしているかのように見える。
まさに爆発的な書物。天才と狂気が微妙なバランスをとって綱渡りをしているような書物である。
ところで、ニーチェを読んだあとの僕は、やはり異様な上昇気流に乗せられたような気になった。自分は高いところにいる。今まで疑惑にとらわれながら歩んできた反システム的な自分の生き方。それをニーチェは徹底的に肯定してくれたのだ。世の中、全てが下のものに見えた。
しかし、そんな上昇気流もいつかは収まる。一時、僕の中で台風のように荒れ狂ったニーチェはどこか着地点を探しはじめていた。人間、空を飛び回っているだけでは、太陽には到達できないのだ。むしろ地面に這いつくばって、泥の中を転げ回って生きることが必要なんだと思う。逆説的ではあるが、太陽を見つけるには闇の中に入り込まなければならないのだ。今、僕は自分を日常の現実に縛り付けようとしているのだと思う。仕事や結婚、子育てなどは、僕を地面に縛り付ける足かせなのだ。
東南アジアに旅に出た。そのときニーチェの本、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』を持って行った。バスの移動中に、プーケットの海岸で、ペナンの安宿で、そしてトバ湖畔で、僕はニーチェを読み続けた。とても面白かったのだ。繰り返し読み、海の水の中に落としてしまった文庫本はヘロヘロになってしまった。
バンコクにある紀伊国屋書店でニーチェの本を探した。『ツァラトゥストラはこう語った』と『この人を見よ』が売っていた。日本で買うより2倍もする値段で買い、読み続けた。なんだか旅そのものよりニーチェを読んでいたことしか今では記憶に残っていない。
ニーチェ論はいつか書きたいと思っている。それはきっとだいぶ先のことだろう。今はその準備がない………。とにかくたっぷりと暇な時間があったあの旅行中に読んだニーチェ、とりわけ『この人を見よ』が印象に残っている。『この人を見よ』はニーチェの破天荒な自伝だ。「なぜ私はかくも賢明なのか」とか「なぜ私は良い本を書くのか」といった自己賛美ともとれる内容のこの本の中には、しかし明らかなニーチェの天才がわずかな狂気とともに疾走している。実際この本を書いた直後、ニーチェは発狂してしまい、もう元の聡明な精神が戻ることはなかった。
世界の歴史はソクラテス、プラトンの時代以降、デカダンの言説に汚されてきた。キリスト教の教義はその最たるものである。その後、哲学をふくめめ人の口に上ったのはデカダンの精神による奴隷道徳であった。ニーチェは歴史上初めてこの道徳の限界を破って、善悪の彼岸に立った。ニーチェは自分自身を世界史の転換点とすら考えていた。
この誇大妄想チックなニーチェの自己賛美は、やはり賛美にあたいするものだと思う。ニーチェの思想はそれだけ巨大なものなのだ。自己賛美とそれを冷静に客観的に眺め楽しんでいるかのようなニーチェ………間違いなくそこにはニーチェのクリアな知性がある。だが、この本が終わりに近づくにつれて、文章は異様な勢いと爽快感に満ちてくる。なにかの臨界点に近づきつつあるように………。油絵を描くときに使うテレピン油のような爽快感だ。狂気がドラマチックにニーチェの天才を攻略しようとしているかのように見える。
まさに爆発的な書物。天才と狂気が微妙なバランスをとって綱渡りをしているような書物である。
ところで、ニーチェを読んだあとの僕は、やはり異様な上昇気流に乗せられたような気になった。自分は高いところにいる。今まで疑惑にとらわれながら歩んできた反システム的な自分の生き方。それをニーチェは徹底的に肯定してくれたのだ。世の中、全てが下のものに見えた。
しかし、そんな上昇気流もいつかは収まる。一時、僕の中で台風のように荒れ狂ったニーチェはどこか着地点を探しはじめていた。人間、空を飛び回っているだけでは、太陽には到達できないのだ。むしろ地面に這いつくばって、泥の中を転げ回って生きることが必要なんだと思う。逆説的ではあるが、太陽を見つけるには闇の中に入り込まなければならないのだ。今、僕は自分を日常の現実に縛り付けようとしているのだと思う。仕事や結婚、子育てなどは、僕を地面に縛り付ける足かせなのだ。
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