Sun.

イレギュラー

 この時期になるとよくあるニュースだが、受験のためにに特急列車に乗ったものの、学校のある駅には止まらない列車だとすでに列車が出発してしまった後になって気がついた、という受験生のニュースをラジオで聞いた。受験生は車掌に相談し、車掌は乗客に断りを入れた上で、目的地の学校のある駅に特別に列車を止めて受験生をそこで降ろした。
 まあ、とりあえず鉄道会社側の粋な計らいによって受験生はめでたく試験を受けることができた、ということだった。鉄道会社は「今回は特別なのであって、こういうリクエストにはそうそう答えるわけにはいかないよ。」という意味のコメントをよせていた。
 あたりまえのことなんだろうが、公共交通機関は時刻表通りに運行しなければならない。よほど緊急の事態が起こらないかぎり、たった一人の乗客の都合のために他の乗客に迷惑をかけるわけにはいかない。他の乗客だって時刻表通りに交通機関が運行することを期待して列車なりバスなりを利用するわけだ。10分間、列車が遅れたために大きなビジネスチャンスが消滅してしまった、なんてこともあるかもしれない。仕事で利用する人じゃなくても………たとえば休日を利用した旅行なんかでも、限られた休日が交通機関の遅延によって台無しになってしまったらショックだろう。

 交通機関が遅滞なく円滑に運行されねばならないわけは、遅滞による時間のロスを避けるためだ、と言える。ここには効率性を重視する産業社会のタイトな要請があるのだ。交通の遅滞によって物流や人の移動が円滑になされなければ、生産活動に支障を来すことになる。効率的に生産を増やし、最大限の利潤を得るためには、生産のリズムを狂わすイレギュラーな要素は極力避けねばならない。
 僕らは資本の奏でる生産のリズムの中に生きている。考えてみれば、交通機関を利用する乗客たちに時刻表通りの運行を期待させているのは、ビジネス客にしろ旅行客にしろ仕事(労働)の都合なのだ。労働中であろうと余暇を過ごしていようと、そのスケジュールを規定しているのは資本による生産のリズムだ。僕らの日常は生産のリズムに仕切られている。10分や20分の運行の遅れが大きな意味を持つのは、それが生産のリズムを狂わせるからなのだ。冷静になって考えれば、80年の人生の中で、交通機関の少々の遅れに何の意味があるのかとも思うが、生産のリズムは僕たちの体の奥深くまで浸透しているため、僕たち自身イレギュラーな事態に苛立ってしまうのだ。
 ギュウギュウ詰めの満員電車で通勤の途中で電車が止まってしまう………人身事故とのアナウンスが流れる。どうだろう、ほとんどの人は心の中で舌打ちし、遅刻の理由を会社や顧客にいちいち報告しなければならなくなった状況に苛立つんじゃないだろうか。僕だってそうだが、そのとき電車に飛び込んだ人の死の理由なんてことは頭の片隅にものぼらないと思う。そのとき僕らは生産のリズムにのまれているのだ。
 はっきり言って、生産のリズムを狂わせるイレギュラーな要素は、それが自殺者であろうと何であろうと資本主義のシステムにとっては「悪」であり「犯罪行為」である。だからこそ試験に遅れそうな受験生のために緊急停車するという、人間臭く粋な計らいにも一言お咎めの言葉も添えられるわけなのだ。

 たとえばタイの鉄道とか長距離バスなんて平気で1時間ぐらい遅れて運行しているが、タイ人は皆そんなもんだろうと思ってるようだ。それにバスが遅れるのは運転手の都合だったりする。運転手の親族がバンコクに出かけるのだが、「準備に手間取ってるんだ。30分ほどバスの出発を遅らしてくれ。」と親族に頼まれたら、彼ら、公共交通機関であるにもかかわらず出発を30分遅らせるだろう。(僕の想像だけどね。)資本のリズムの支配する公共性なんてものより、コネクションが優先されるのだ。(まあ、それもどうかと思うのだが。)
 タイの経済学者だったか、「日本経済は私たちにはまるでスーパーマンのように見える。」なんてことを言っていたのを読んだことがある。太平洋戦争の敗戦、戦後のオイルショックなど、何度も危機に見舞われながらも、その度に不死鳥のようによみがえってくる日本経済………。それがタイ人には驚異なんだそうだが、実は僕ら日本人はそれ相応のものをタイ人以上に経済の発展のために捧げているということなのだ。常日頃から僕らは労働中であろうとなかろうと、かなり無理して生産のリズムに自分自身をシンクロさせているのだ。その肉体化し、内面化した努力が日本経済のパフォーマンスを影で支えているわけなのだ。

 しかしながら、生産のリズムに従属した生というものほど味気ないものはないだろう。受験生の例もそうだが、人間臭いこと、おもしろいこと、というのは結局のところイレギュラーなことなんじゃないだろうか。本当の意味で僕らが人間的に豊かだ、と感じるためにはイレギュラーな要素は必要不可欠なものなのではないか。確かに僕らは生きるために働くし、資本のリズムにも合わせるわけだ。しかしそれだけがすべてになったとき、僕らは生き延びているのに過ぎないではないか。
 シュルレアリスムという芸術運動はオートマティズムという技法を用いて、作品制作や生活そのものを驚異に満ちたものにしよう、という運動だった。自動性、偶然性によって生産的理性を揺さぶり、日常生活にイレギュラーな要素をぶち込もうとしていた。彼らはイレギュラーな要素を「痙攣的」という言葉で表現していた。彼らの活動はスキャンダラスなものとなったが、それはイレギュラーにこだわる彼らの活動の当然な結果であり、意図するところでもあっただろう。
 もうほとんど過去の芸術運動になってしまったかのようなシュルレアリスムではあるが、僕は非常に重要な運動であったと考えている。作品制作という芸術の枠組みを越えて、日常生活への介入という今日的な課題が明確に現われはじめているからだ。おそらく彼らの限界は作品をつくるという目的を捨てきれなかったことにあったのだと思う。
 戦後に登場したシチュアシオニストたちはシュルレアリスムの批判的な乗り越えである。出発点において彼らは作品の制作を拒否し、「状況の構築」という新しい命題を提示する。これが意味するのは資本主義社会の生産のリズムに対してイレギュラーな介入をおこなうということだ。彼らは「日常生活をワクワクするものにしたい」と主張する。………もう彼らの試みの意味は明らかだろう。(シチュアシオニストの存在はあまりにもマイナーであるため、僕はその重要性を何度でも強調したいのだ。今、はやし氏のブログでドゥボールの『スペクタクルの社会』の読解がおこなわれている。興味ある方は一読をお勧めします。)

 生産のリズムを狂わせるイレギュラーな要素は、資本主義のシステムにとっては「悪」であり「犯罪行為」である、と上で述べたが、シチュアシオニスト的な試みは資本の側からするとまさに「悪」であり「犯罪」の臭いのするダーティな印象を持つものにならざるを得ない。さらに資本の奏でる生産のリズムにシンクロしているとき、すべての人にとってイレギュラーなアクションは「悪」なのだ。
 したがって、もし僕たちがイレギュラーな非生産的な価値を追求し出したとすれば、僕らは犯罪者的な、キナ臭いオーラをまといはじめるに違いない。そして生産のリズムにシンクロするすべての人たちと闘わなければならないという厳しい道がまっているわけだ。
 生産のリズムにシンクロするとき人は意識せずとも「産業戦士」と化している。逆にイレギュラーな非生産的な価値を追求するとき、その人は「祭りの戦士」となるのだ。「祭りの戦士」はいつも「日常生活をワクワクするものにしたい」と考えているエピキュリアンである。しかも問題にしているのは自分のちっぽけな快楽などではなく、大げさに言えば世界の歓喜とでもいったものなのだ。しかし現実に彼が歩く道は世界との闘いという、いばらの道だったりする。それが「祭りの戦士」のつらいところでもあり、面白いところでもあるのだが………。

 ふと考えてみるのだが、列車に飛び込み自殺を図る人たち………彼らが何を考えてダイブしたのかは知る由もないのだが、ひょっとすると交通機関の円滑な運行という生産のリズムに、自らの命をかけてイレギュラーな要素をぶち込もうとしたのではないだろうか。ニヒリスティックな決断には違いないが、自分の命でもって資本主義帝国に一矢報いてやろうとしたのではないか、なんて想像してみたくなる。「祭りの戦士」の孤独な玉砕………。
 そんな自殺者の心の動きなどはどこ吹く風で、月曜日の朝、人身事故でストップした電車の中の産業戦士たちは、やれやれまたかよ、なんて思いながら携帯電話で会社や顧客に「すいません。今電車の中なんですが………」なんて連絡を入れるのだ。
23:47 | 思想など | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
Sun.

リグリアの太陽



自分が革命的であるとは考えていない。
革命的である人とは、戦う人だ。
私は戦いを好まない。
ただ、私は何一つ壊すことなく、すべての人々のために出口を見いだしたいと思うのだ。
誰一人として、本当に誰一人も、傷つけることのない発展を創りだしたいのだ。
すでに存在しているものを土台として、伝統をより立派なものに徐々に変えていくのだ。

フンデルトワッサー
03:31 | フンデルトワッサー | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑