03.01.2005
センチメンタルな東京コーヒー
常野雄次郎さんの『登校拒否解放の(不)可能性』という記事を読んで、興奮するとともに、少しセンチメンタルな気分になった。
記事に対して、いろいろ批判のコメントやトラックバックなんかがくっついているけど、僕にとっては常野さんの議論は明快であり、また納得し共感できるものだった。
登校拒否児の排除・抑圧は、学校を肯定する人が、自らをマジョリティとしてアイデンティファイするためになされている、という排除のメカニズムの分析。
そして奥地さんによる「フリースクール」の試みは、システムを強化、肯定するものに結果的になっているという指摘………すなわち、登校拒否というものが、実は学校制社会=資本主義社会システムの拒否であるにもかかわらず、奥地さんのしていることは、学校制社会の規範の逸脱が保持しているシステムにとって危険な一面を切り捨てることによって、浄化され無害になった不登校者の像を捏造していることである、という分析………。
さらに、社会的異物=モンスターをめぐる3つの物語………これらの議論は読んでいて面白くて夜中なのに目が冴えてしまったほどだ。この間、僕がのっけたこのエントリーと較べてもらえれば、常野さんの感性が僕のそれとけっして遠いものでないことはわかっていただけると思う。
それと「奥地圭子さん」という名前を見つけて、僕の心はちょっとセンチメンタルに20年前にタイムスリップしてしまった(笑)。当時僕は(この言葉が世に出るか出ないかの頃だと思うが)フリーアルバイターだったが、そこでいっしょに働いてた友達に登校拒否経験者がいた。なぜ僕を誘ってくれたのかわからないが、「ニューフェイズ」という名の「登校拒否を考える会」をやってるので参加しないか、と言われた。
彼らはかつて国立国府台病院精神科の渡辺位さんという先生のもとを訪れていた登校拒否児だった。この渡辺先生という人は、登校拒否は病気ではなく、歪んだ教育の押し付けに対する健康的な反応である、という主張をしていて、本を書いたり講演をしたりしておられた。
その先生を訪ねた登校拒否児たちのコミュニティみたいなものがあったらしくて、けっこう個性の強い連中が集まっていたようだ。まだティーンエイジャーの子供たちなのに、面白い主張をもっていて、たとえばマルクスと登校拒否を絡めて論じてるような子もいた。彼らの書いたものを読んで、もう成人していた僕はうなってしまった。
そんなコミュニティの分派みたいなものだったんだろうか、「ニューフェイズ」を主催している子に僕は誘われたのだった。まあ、会と言っても数人しかメンバーもいなくて、二つほどあった運営方針、「登校拒否というものを一般の人にも理解してもらうこと」そして「登校拒否をしている子に居場所を提供すること」は、ほとんど機能していなかった。隔週ぐらいで会合をもって手書きの会報を作ったり、一緒に遊びに行ったりしていた。(当時の僕らがどんなことを考えていたのか、僕の書いたマニュフェストみたいなものを載せておきます。)
そんなわけで、活動的にはほとんど無力なものだったけど、問題はとりあえず何かのアクションを起こすことであり、一見つまらないディテールを積み重ねることだったと思うし、あの会のことは今、それはそれで楽しい思い出になっている。
彼らの話を聞いていたとき「奥地さん」という女性の名前がよく出ていた。もう僕もほとんど忘れかけていたことだった。結局、意見が噛み合なくなって「ニューフェイズ」自体は空中分解してしまったが、今から思えば若々しいというより幼かったあの頃の雰囲気がちょっぴり懐かしい………。
もう本当に会わなくなってしまったし、彼らどこでどうしてるんだろうと思う。その渡辺先生のコミュニティに一人、劇団に所属している女の子がいて、その後その子を主人公にした「登校拒否」をテーマにしたドラマの公演が行われることになった。僕はテレビのニュースでその子の公演が話題になってるのを偶然見た。練習風景とか、応援する家族とかが映し出されていた。お定まりの、家族のコメント……「今思えば、登校拒否してた頃って、一体なんだったのかしら……」というのを僕はぼんやり見ていた。僕の勝手な感想かもしれないけど、あの女の子の舞台の練習の姿もインタビューに答える顔も、全然楽しそうではなかった。正直、なんか利用されちゃってるなあ、と思った。きっと、常野さんの言っているハッピーエンド付きの物語のウソ臭さ、というのはこういうことだと思う。
確かに言えることは、不登校という事態に含まれる問題は、学校に行くとか行かないとかいう問題だけなのではなく、成人してからも、何度でも直面する問題なのだ。つまり常野さんのいうところの学校制社会=資本主義社会のシステムに対する拒否/反抗こそが、登校拒否の本質であるからだ。したがって、登校拒否解放運動というものは、資本の支配の戦略に対する対抗の運動だと言い換えることができる。
常野さんは『登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。』といっている。これは、登校拒否とは資本主義社会のシステムにとってあきらかにイレギュラーな要素(異物)である、ということであり、このイレギュラーを徹底的に肯定すること………これこそが登校拒否の解放につながる、と言うことだと思う。
さらにいえば、イレギュラー(異物=モンスター)を肯定することは、肯定する人をも(資本の側からすれば)「異物=モンスター」として認識させてしまうことになる。したがって、僕らは自ら「異物=モンスター」への道を歩まなければならないことは必至であり、その責務を引き受けるだけでなく、それを楽しむことができてこそ、真の開放の道が開けるというものだと僕は思っている。
トラックバック [登校拒否]登校拒否解放の(不)可能性 荒井賢さんのコメント (元)登校拒否系
記事に対して、いろいろ批判のコメントやトラックバックなんかがくっついているけど、僕にとっては常野さんの議論は明快であり、また納得し共感できるものだった。
登校拒否児の排除・抑圧は、学校を肯定する人が、自らをマジョリティとしてアイデンティファイするためになされている、という排除のメカニズムの分析。
そして奥地さんによる「フリースクール」の試みは、システムを強化、肯定するものに結果的になっているという指摘………すなわち、登校拒否というものが、実は学校制社会=資本主義社会システムの拒否であるにもかかわらず、奥地さんのしていることは、学校制社会の規範の逸脱が保持しているシステムにとって危険な一面を切り捨てることによって、浄化され無害になった不登校者の像を捏造していることである、という分析………。
さらに、社会的異物=モンスターをめぐる3つの物語………これらの議論は読んでいて面白くて夜中なのに目が冴えてしまったほどだ。この間、僕がのっけたこのエントリーと較べてもらえれば、常野さんの感性が僕のそれとけっして遠いものでないことはわかっていただけると思う。
それと「奥地圭子さん」という名前を見つけて、僕の心はちょっとセンチメンタルに20年前にタイムスリップしてしまった(笑)。当時僕は(この言葉が世に出るか出ないかの頃だと思うが)フリーアルバイターだったが、そこでいっしょに働いてた友達に登校拒否経験者がいた。なぜ僕を誘ってくれたのかわからないが、「ニューフェイズ」という名の「登校拒否を考える会」をやってるので参加しないか、と言われた。
彼らはかつて国立国府台病院精神科の渡辺位さんという先生のもとを訪れていた登校拒否児だった。この渡辺先生という人は、登校拒否は病気ではなく、歪んだ教育の押し付けに対する健康的な反応である、という主張をしていて、本を書いたり講演をしたりしておられた。
その先生を訪ねた登校拒否児たちのコミュニティみたいなものがあったらしくて、けっこう個性の強い連中が集まっていたようだ。まだティーンエイジャーの子供たちなのに、面白い主張をもっていて、たとえばマルクスと登校拒否を絡めて論じてるような子もいた。彼らの書いたものを読んで、もう成人していた僕はうなってしまった。
そんなコミュニティの分派みたいなものだったんだろうか、「ニューフェイズ」を主催している子に僕は誘われたのだった。まあ、会と言っても数人しかメンバーもいなくて、二つほどあった運営方針、「登校拒否というものを一般の人にも理解してもらうこと」そして「登校拒否をしている子に居場所を提供すること」は、ほとんど機能していなかった。隔週ぐらいで会合をもって手書きの会報を作ったり、一緒に遊びに行ったりしていた。(当時の僕らがどんなことを考えていたのか、僕の書いたマニュフェストみたいなものを載せておきます。)
そんなわけで、活動的にはほとんど無力なものだったけど、問題はとりあえず何かのアクションを起こすことであり、一見つまらないディテールを積み重ねることだったと思うし、あの会のことは今、それはそれで楽しい思い出になっている。
彼らの話を聞いていたとき「奥地さん」という女性の名前がよく出ていた。もう僕もほとんど忘れかけていたことだった。結局、意見が噛み合なくなって「ニューフェイズ」自体は空中分解してしまったが、今から思えば若々しいというより幼かったあの頃の雰囲気がちょっぴり懐かしい………。
もう本当に会わなくなってしまったし、彼らどこでどうしてるんだろうと思う。その渡辺先生のコミュニティに一人、劇団に所属している女の子がいて、その後その子を主人公にした「登校拒否」をテーマにしたドラマの公演が行われることになった。僕はテレビのニュースでその子の公演が話題になってるのを偶然見た。練習風景とか、応援する家族とかが映し出されていた。お定まりの、家族のコメント……「今思えば、登校拒否してた頃って、一体なんだったのかしら……」というのを僕はぼんやり見ていた。僕の勝手な感想かもしれないけど、あの女の子の舞台の練習の姿もインタビューに答える顔も、全然楽しそうではなかった。正直、なんか利用されちゃってるなあ、と思った。きっと、常野さんの言っているハッピーエンド付きの物語のウソ臭さ、というのはこういうことだと思う。
確かに言えることは、不登校という事態に含まれる問題は、学校に行くとか行かないとかいう問題だけなのではなく、成人してからも、何度でも直面する問題なのだ。つまり常野さんのいうところの学校制社会=資本主義社会のシステムに対する拒否/反抗こそが、登校拒否の本質であるからだ。したがって、登校拒否解放運動というものは、資本の支配の戦略に対する対抗の運動だと言い換えることができる。
常野さんは『登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。』といっている。これは、登校拒否とは資本主義社会のシステムにとってあきらかにイレギュラーな要素(異物)である、ということであり、このイレギュラーを徹底的に肯定すること………これこそが登校拒否の解放につながる、と言うことだと思う。
さらにいえば、イレギュラー(異物=モンスター)を肯定することは、肯定する人をも(資本の側からすれば)「異物=モンスター」として認識させてしまうことになる。したがって、僕らは自ら「異物=モンスター」への道を歩まなければならないことは必至であり、その責務を引き受けるだけでなく、それを楽しむことができてこそ、真の開放の道が開けるというものだと僕は思っている。
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