04.05.2005
何かが違う!
内田樹 『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』
有名な大学の先生の一文だ。何度か読んでみたんだけど、どうも奇妙な文章に思えてしまう。内田さんの趣旨は、不当に誤解されているオルテガの考え方を評価しなおそうということだと思うんだけど、僕はオルテガを読んだことはないし、内田さんがオルテガに託して語ろうとしていることについては、とりあえず何も言わないでおくにしても………オルテガを持ち上げるために出してきたニーチェの貴族主義の解釈は、通俗的だし首を傾げたくなるようなシロモノだ。
内田さんはここで、ニーチェの言うところの「貴族」の自己肯定とオルテガの言う「大衆」の自己肯定をイコールで結んでいる。で、自己肯定ゆえに「外部」を必要としない、というニーチェの自己価値化の手続きが、いつのまにか「外部」に関心がないという傲慢な大衆のあり方、つまり自己満足や自己閉塞と混同されている。
たとえ「大衆」の特徴を述べるために自己肯定という言葉を使っているにしろ、ニーチェが言うところの自己肯定という言葉の意味とは全然別物のはずである。
それに、ニーチェの言う「貴族」は、「貴族」であるために(「距離のパトス」をかき立ててもらうために)「劣等者」という名の「他者」を必要とした、ということなんだけど、そのような「他者」を立てることで、自分の存在を肯定するというリアクション的な手続きは、むしろニーチェの言うところの「奴隷」側の価値評価なんじゃなかったっけ?
むしろ、自己肯定、自己価値化、という「貴族」的な価値評価というのは、そういった「劣等者」という名の「他者」を必要としないからこそ、自己価値化だったはずだ。また、
そして、
と内田さんは述べている。確かにこの辺りがニーチェの怪しいところではあると思う。ニーチェが、「貴族」という言い方で、現実的に『「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求』し、『ニーチェが貴族の復権をむなしく』説き、その条件を人種的な問題に還元してしまったとすれば、彼は限りなく気違いに近い人と言われても仕方がない。実際そうとられても仕方がないようなことも言っているし、ニーチェ自身混乱もしていたのかもしれない。しかし………
と、内田さんはオルテガを擁護しているが、この言葉はそのままニーチェの思想にも適用していいんじゃないだろうか? 「貴族」とか「奴隷」とかいう言い方は、レトリックとして読まないと、ニーチェの思想の真の射程……貴族的な自己価値化という観念のもつ射程……は見えてこないように思う。(このへんは僕も裏付けをとるべきかな?)
それに、はじめに内田さんが述べていたニーチェの言うところの超人道徳の特徴………
………ここで言う貴族性は、とても「外部」に無関心な自己満足的なものには思えない。このように生きる人はむしろ、オルテガの言う「エリート主義」同様、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という自己犠牲的な生き方をしているように思えるのだが。
さて、うまく言いたいことが言えたのか自分でも疑問ではあるが、ようするに、僕がこの内田さんの文を読んで、まずパッと感じたのは、オルテガが不当な理解をされているのを告発するのに、ニーチェの不当な理解をもってしているのではないか、ということだ。
有名な大学の先生の一文だ。何度か読んでみたんだけど、どうも奇妙な文章に思えてしまう。内田さんの趣旨は、不当に誤解されているオルテガの考え方を評価しなおそうということだと思うんだけど、僕はオルテガを読んだことはないし、内田さんがオルテガに託して語ろうとしていることについては、とりあえず何も言わないでおくにしても………オルテガを持ち上げるために出してきたニーチェの貴族主義の解釈は、通俗的だし首を傾げたくなるようなシロモノだ。
「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。
自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、オルテガの「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないからだ。
内田さんはここで、ニーチェの言うところの「貴族」の自己肯定とオルテガの言う「大衆」の自己肯定をイコールで結んでいる。で、自己肯定ゆえに「外部」を必要としない、というニーチェの自己価値化の手続きが、いつのまにか「外部」に関心がないという傲慢な大衆のあり方、つまり自己満足や自己閉塞と混同されている。
たとえ「大衆」の特徴を述べるために自己肯定という言葉を使っているにしろ、ニーチェが言うところの自己肯定という言葉の意味とは全然別物のはずである。
それに、ニーチェの言う「貴族」は、「貴族」であるために(「距離のパトス」をかき立ててもらうために)「劣等者」という名の「他者」を必要とした、ということなんだけど、そのような「他者」を立てることで、自分の存在を肯定するというリアクション的な手続きは、むしろニーチェの言うところの「奴隷」側の価値評価なんじゃなかったっけ?
むしろ、自己肯定、自己価値化、という「貴族」的な価値評価というのは、そういった「劣等者」という名の「他者」を必要としないからこそ、自己価値化だったはずだ。また、
ニーチェとオルテガの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとる。
ニーチェが貴族の復権をむなしく説いてから………
そして、
ニーチェ的貴族の条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。
と内田さんは述べている。確かにこの辺りがニーチェの怪しいところではあると思う。ニーチェが、「貴族」という言い方で、現実的に『「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求』し、『ニーチェが貴族の復権をむなしく』説き、その条件を人種的な問題に還元してしまったとすれば、彼は限りなく気違いに近い人と言われても仕方がない。実際そうとられても仕方がないようなことも言っているし、ニーチェ自身混乱もしていたのかもしれない。しかし………
当時の左翼知識人たちは、オルテガが社会を「大衆」と「貴族」を二分して、少数派の「貴族」に未来を託すという、まったく歴史的階級状況を無視した政治的提言をなした反動的思想家とみなして、その主張を一笑に付した。
ただ、彼らは一つ重大なことを見落としをしている。
それはオルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んだのは、人間の「集団」のことではない、ということである。
オルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んでいるのは、一人の人間の中に存在する複数の「ファクター」のことである。
と、内田さんはオルテガを擁護しているが、この言葉はそのままニーチェの思想にも適用していいんじゃないだろうか? 「貴族」とか「奴隷」とかいう言い方は、レトリックとして読まないと、ニーチェの思想の真の射程……貴族的な自己価値化という観念のもつ射程……は見えてこないように思う。(このへんは僕も裏付けをとるべきかな?)
それに、はじめに内田さんが述べていたニーチェの言うところの超人道徳の特徴………
ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。
いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige)として観念したことである。
………ここで言う貴族性は、とても「外部」に無関心な自己満足的なものには思えない。このように生きる人はむしろ、オルテガの言う「エリート主義」同様、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という自己犠牲的な生き方をしているように思えるのだが。
さて、うまく言いたいことが言えたのか自分でも疑問ではあるが、ようするに、僕がこの内田さんの文を読んで、まずパッと感じたのは、オルテガが不当な理解をされているのを告発するのに、ニーチェの不当な理解をもってしているのではないか、ということだ。
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