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誤読ではないともう一度考える

「もう一度誤読について考える」 by 数学屋のメガネ

 秀さんという方から、私の「希望格差社会」というエントリーに対してトラックバックをいただきました。このエントリーを書いてけっこうたくさんの人にトラックバックを飛ばしたのですが、誰も相手にしてくれなかったので(涙)、このように率直な意見をいただけたことは、とてもありがたく思います。
 読んでみると、私のエントリーへの批判ではなく、誤読であることの指摘とのことなのですが、ウ〜ン………そうかなあ? というのが私の感想です。いや、私の読み方が唯一の正解だなんていう気はさらさらないのですが、秀さんの読み方もちょっとあやしいなあ、と思いました。

 「希望格差社会」(祭りの戦士さん)を読んでみると、これは内田さんが意図していないことを深読みして論じているのではないかなと僕は感じた。論理そのものに反対しているのではないのだ。内田さんの主張が、このエントリーで語られているようなものなら、ここの批判はある意味では当たっているだろうと思う。しかし、内田さん自身は、ここで語られているようなことを全く言っていないとしたら、これは内田さんへの批判としては当たっていないのではないかと思う。まさに内田さんの文章の誤読ではないかと思うのだ。

 ………ということですが、なるほど確かに私は内田さんの意図を越えて文章を深読みし、詮索的に語ってはいます。が、それは内田さんの論理がどうもおかしいように私には思われ、その結果として内田さんの文章はこのようにしか読めないのではないか? と思ったので、その疑問をぶつけているのが私の深読みした文章なのです。………だからちょっと秀さんの議論はなんだか変だな、と思えるのです。
 まず秀さんは、いくつか私の文章をあげてそれが誤読であることを示しています。で、内田さんを擁護する形で、秀さん自身の言葉で結論的に、内田さんの真意はこうなのだ、と示してくれています。たとえば………

 これは、空想的な夢を抱くような状況から、だんだんと現実を正しく認識するように働きかけ、空想的な夢が実現不可能だと悟ったら、それをあきらめることも必要だということを知らせるという、内田さんが語る論理を誤読したために出てきた結論のように見える。

 たとえ、プロの有名選手になれなくても、数学者になれなくても、自分は今の社会の中で、自分なりの役割を引き受けて価値ある存在として生きていけるとも思っている。そういう断念を積み重ねる教育システムの必要性を内田さんは語っているのだと思う。

 「過大な期待を諦めさせる」というのは、子供が抱く空想的な夢を、だんだんと現実を考慮に入れた大人の夢に変えていくことを意味するのだと、僕は読んでいた。それは、若者の可能性を無視した、社会の安定性のために若者を犠牲にするというような視点でのものではないと思う。


 ………といった具合です。でもちょっと勘違いされているのは、私がケチをつけたいのは、まさにここで秀さんがソフトに語り直してくれた内田さんの論理なのです。つまり私が批判したいのは「子供が抱く空想的な夢を、だんだんと現実を考慮に入れた大人の夢に変えていくこと」が教育の役割であると語っている内田さんであり、またそのような教育は「社会の安定性のために若者を犠牲にする」ことではないのか? と私は疑問をもっているのだ、ということです。………ではどうしてそう考えたかを説明してみましょう。

 内田さんの議論をおおざっぱに言うと、「リスク社会」が到来し、われわれは自己責任のもと、リスクの受け皿もないまま激しい競争にさらされている。その結果、階層分化がおこり、弱者となった若者が増える。そのような若者は危険だから、いまのうちに手を打たねばならない。で、中間的共同体の再構築が必要だ………ということだと思います。
 なんでそんな「リスク社会」になってしまったんだろう? 内田さんの説明を聞くとこうです。

 文句を言っても始まらない。
「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。
「夫らしく妻らしくなんて役割演技はたくさんだ」「親の介護なんかしたくない」「子どもの面倒なんかみたくない」「隣の家とのつきあいなんて鬱陶しい」「会社の同僚の顔なんか終業後に見たくない」「オレはやりたいようにやる」「あたしの人生なんだからほっといてよ」…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。
誰を恨んでも始まらない。


 ………というわけで、自分たちのせいらしいのです。でも本当にそうなんでしょうか? たとえば、秀さんはご自身のエントリーでこう述べてらっしゃいます。

 「リスク社会」は、極端な競争社会ももたらすようだ。この競争が、また人情を失わせる要因になっているのではないかと僕は思えて仕方がない。敗者に対する同情心が失われてしまうのではないだろうか。

 まったくその通り、としか言いようがないと思います。ようするに「競争」が、人間をバラバラに分断しているのです。切磋琢磨、なんて競争を美化した言葉もありますが、基本的には他者を蹴落とし、自分は上に這い上がる、というのが競争であって、それが人間の横のつながり(内田さんの言ってる中間的共同体もその一つでしょうが)を切り裂いてきた当のものだと思うのです。(足を引っ張ったり、抜け駆けしたり、っての競争意識の中で起こるものです。)
 つまり「リスク社会」というのは、個人を競争させることで、最大のパフォーマンス(労働)を引き出そうとする産業(資本制)社会の要請によってつくられたシステムなのです。したがって「リスク社会」に生じる危機をなんとかしようとするときにまず問題にしなければならないのは、「競争」であり、「競争」のよって立つ一元的な価値観(勝ち組/負け組)であり、そのような「競争」を強いるシステムそのもののあり方、だと思うのですが、内田さんの議論ではそのへんのことはまったく触れられていないのです。つまり、「競争社会」そのものに対して内田さんは何の疑問も持っていないのようなのです。そのうえ、「リスク社会」なんてものが到来したのは、私たちの自業自得だとまでおっしゃっている。

 それに対しての内田さんのとる戦略というのは、「中間的共同体の再構築」ということでした。しかし「競争」が破壊してきたそのような共同体を再構築したって、結局また壊れてしまうんじゃないでしょうか? つまり、内田さんの提言は根本的な解決になり得ないのではないかと思うのです。抜本的な解決を目指すのであれば、「競争社会」の是非をまず問うべきでしょう。
 で、この「中間的共同体の再構築」というのは具体的にどんな働きをするかと言えば、このあまりに非情な「リスク社会」の不備を手当てし補完すること(「断念」の教育システムもそのような働きをしている。)、すなわち「競争社会」の安定的な維持のためのもなのだとしか思えません。
 内田さん(実際には山田昌弘さんなのですが)によると、競争に敗れた敗者、社会的弱者となった若者、システムを降りてしまうもの、などが「リスク社会」では短期的に増える傾向にある(若者の不良債権化だと内田さんは言ってる)、ルサンチマンを抱く彼らの増加を放っておいては危険だ、何とか早めに手を打たなければならない、とおっしゃっています。さらに他のエントリー(『階層化=大衆社会の到来』『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』)では、そのような社会的弱者=下層階級は勝ち誇る自己肯定をする「大衆」なんてものに直結されています。あげくの果てに彼らはファシズムにつながりかねない危険な存在にされてしまっている。………どうして一方的にシステムの下層にいるものや、システムを逸脱するものを危険視してしまえるのかわからないのですが、内田さんは彼らに怯えているらしいのです。この危機感は一体なんでしょう? 御本人は「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」なんてホスピタリティあふれる美しい言葉を語ってはいますが、本当は、内田さんはシステムに乗っかった人しか信じられないのではないかと思ってしまうのです。
 とにかくこのような論の展開をみていると、この「競争」のシステムは維持しなければならない、階層分化を進展させないためにも、若者には過大な夢を捨てさせて、そこそこのポジションで生きることを受け入れさせなければならない、と言っているようにしか私には聞こえません。だから教育とは、システムを安定的に維持するための後ろ向きな介入だと内田さんは考えてる、なんても言いたくなってしまうのです。というのも……最後までひっかかるのです。「なんでこの人は「競争」のシステムそのものを問題視してくれないんだろう?」ってことが………。

 私が内田さんの立場であれば論理の道筋として、まずそのように非情な「リスク社会」をつくり出してきた「競争」を問題視するところから始め、一元的な「勝ち/負け」の価値観に疑問を抱かせ、システムからこぼれ落ちる部分を正視し、そこに(「不良債権」だとか「大衆」なんかではなく)別の価値を発見させてゆくこと、そして押し付けられた一元的な価値観と闘う知恵を授けることを「教育」と呼びたい。「あきらめさせる」とか「断念」なんて言葉、どうあっても聞きたくありません。どんな立派な心意気から言われたのだとしても、後ろ向きな、抑圧的な言葉にしか聞こえないのです。

 確かに、秀さんのおっしゃってるように、内田さん自身は私がいままで述べてきたようなことを考えて発言なさったわけではないと思います。おそらくは世の中を憂い、若者を気の毒に感じ、なんとかしたいというところからなされた発言だったのでしょう(少なくともそのつもりなのだと思います)。ですが、内田さん自身の意図や思惑を越えて、内田さんの語った言説は、その分析や論理の甘さ故に、システムによって都合のいい利用のされ方をしてしまうようなシロモノになってしまっているように私は感じました。そして、そのことへの批判を含めて私はあえて挑発的なエントリーを書きました。
 もし、内田さんの意図していないことを深読みすることが、誤読であるとするなら、私のしたことは誤読のそしりをまぬがれることはできないのかもしれませんが、私が行いたかったのは、内田さんの言葉が現実にシステムの中では、私が述べてきたように後ろ向きで、抑圧的な働きをしかねないのだ、いやそのようにしか機能し得ないだろう、ということを指摘することであり、そのような事態に一矢報いておくことです。もちろんこのような私の内田解釈に対して疑問や批判があるだろうとは思います。しかし、けっしてそのような議論の手続きそのものは不当なものではなく、たんなる深読み(つまり言いがかり?)などではない、と私は思っています。つまりこのような読み方も「あり」ではないかと思うのです。というか、他人の意見を批判するときって、その人の意図していること以上の深読みでもってするのがごく普通のやり方のように思いますが。たぶん秀さん自身、他人の論理を批判するときには同じような深読みをやってるんじゃないですか? ついでに言えば、他人の誤読を指摘するということは、他人の「読み」を自分の「読み」に取って代えることでしかないわけで、そういう意味ではやはり「批判」でしかないな、と思います。

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