04.30.2005
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1
私はここしばらく、内田樹氏のブログのエントリーにある言葉(および内田氏が引用している山田昌弘氏の言葉)にケチをつけてきた。というのもお二人の言葉は私にはどうにも後ろ向きの言葉としてしか読み取れないからだ。それに皆さんどうも内田先生の言葉を素直に読みすぎているように思うのだ。言葉を言葉通り受け取ってどうする? インチキを見抜くにはもっとネチっこく攻めなきゃだめだ。そんなわけで、しつこくもまた内田氏の言葉にからんでみようと思うのだが、今回はちょっと視点を変えてみたいと思う。
「リスク社会」という言い方で(新自由主義とかニューエコノミーと言われる)現行システムを分析することにとりあえず異論はない。いろんな人が同じような分析をしてるし、自分の実感としてもわかるような気がする。問題はその先で、お二人の提言はこの非情なシステムの角を削り、もう少しソフトなものにして、国民をうまくシステムに軟着陸させるための手当をしなければいけない、というものだ。そうしないと社会の階層化が進み、社会的弱者が増加し、システムに悪い影響を与えかねない(不良債権化する)というのである。
私がこの議論を読んで感じたのは、一言でいってしまえば「外部への視線の欠如」ということだ。そしてそのことはおおまかに2つの議論上の不備につながっているように思う。ひとつは、現行システムの無条件な肯定……と、もうひとつは、システムの周辺や外部(すなわち他者)の一方的な危険視……である。明らかにこれは「外部への視線の欠如」というひとつの事態の表裏二つの面を表している。
これまでも語ってきたことだからここでは詳しく述べないが、内田氏は「リスク社会」到来の原因としての「競争」原理については一切問題にしない。内田氏の説明では「文句を言っても始まらない。「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。」ということで、「リスク社会」到来は私たちの自業自得なのである。
明らかに「リスク社会」は、競争原理を利用することで労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために、資本によって構想されたものだと思うのだが、内田氏はそのような資本主義社会のあり方にまで遡って考えることはせず、「リスク社会」を必然的で自明のものと見なすとともに、問題の原因を私たちの自分勝手な振る舞いへとずらし、お説教をかましてくれるのである。曰く……人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること……と。
競争によって破壊されてきた「中間的共同体」が、過酷な「リスク社会」において再構築されたところで機能しそうにないってことはともかく、内田氏にとって現行システムは手当を施してまでして維持されなければならないものだということは確かだ。そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい、って考えそうなものだが、そういう発想にはいたらない(ないしはそういう議論をあえて避けている?)ようである。とにかく内田氏にとってこの「競争」社会は自明で肯定されるべきものなのだ。
したがってその「競争」社会のルールや価値観も自明視されている………
「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(………)
いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(………)
結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。」
………どうなるんですか? 先生………。それはそんなにひどいことなんでしょうか……?
山田氏のこういった言葉から読み取れるのは、「夢」が理想の職業の実現………ある人間がシステムの中で果たす固定的な役割に就くこと、ないしはその職業による収入の問題としてしか語られていないことだ。ようするに人間の成功というものをシステム内部での(おもに収入の比較によってつくられた)その序列によってのみ判断しているということだ。
そのような一面的な視点から人間の価値を判断できるのは、内田、山田、両氏が「競争」社会のルールに則って(競争社会のルールを内面化、自明化して)いるからにほかならない。
しかも人間の成功とか価値を、他者との比較においてのみ(内面的なものは一切問題にされていない)考えていて、それだけをもとに階層化による暗澹たる未来の予測に結びつけてしまっているのだ。つまり客観的になされているように見えるこれらの暗い未来の分析は、実のところまったく一面的な視点から専断的になされていると考えるべきである。そしてその専断はさらに山田氏のいわゆる「希望の格差」なんていう心理的な問題の方向にずらされ、「不良債権化した若者が危険だ」という不安をあおる議論に引き継がれる。
このような専断的な議論は「外部への視線の欠如」によって引き起こされている。「競争」のシステムからはずれた多様な価値のあり方はまるで問題にされていない。それが典型的に現れているのは、社会的弱者となった若者の危険視、においてである。
山田さんは、あと20年後に確実に不良債権化する「元若者」たち(社会的能力もなく、家族もなく、年金受給資格もなく、保険にも入っていないような中年老年の男女)の生活保護のための財政支出と、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいいと提案している。
内田氏は、構造改革や経済の自由化を進め「リスク社会」という非情な「競争」社会をつくりあげた結果生じてくるだろう事態に対して、そのような政策をとることで「リスク社会」をつくり出してきた資本の戦略を責めることを避け、不良債権化するだろう「元若者」たちのほうを迷惑者扱いするような口調で責めている。リアル・ファイトの闘技場で精一杯努力しなければ、いずれこのようなつけが回ってくるのだ、と言いたげである。おまけに、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいい、といった具合にシステムの下層や周辺にいるものを、社会を動揺させかねない不安要因として危険視するのだ。あくまでもシステムは絶対であり、維持されねばならない。つまりここでもシステムの外部へ向かう視線は遮断されている。そしてシステム上のゲームで敗者になる者のルサンチマンはなんとかしなければならないと、労働者の蜂起を怖れるブルジョワジーのごとく危機感を抱くのである。
おそらく現実にニートとか引きこもりの人たちが凶悪犯罪を起こしているのを見て、不安を感じているという面はあるのだろう。まあ、いつの時代のどんな社会でも、システムの周辺部にいる人たちほど犯罪に近い………これは間違いないことだ。
だが、内田氏や山田氏から見てシステムの下層や周縁にいる人々を一概に自暴自棄に陥りがちな人と見なしたりできるんだろうか? 実際にはどんなポジションにいる人でも様々な価値のベクトルを抱えて生きている。経済的に厳しい生活を強いられているにもかかわらず、けっこう楽しくポジティブにやってる人もいるだろうし、かなり上層にいる人が、さらに上にいる人に憧れ、心を焦がすようなルサンチマンを抱いてるなんてこともあるかもしれない。
ようするにルサンチマンなんてことが問題になるのは、「競争」のよって立つ価値観を内面化しているかどうかによるわけだろう。 逆に、お二人のように経済的弱者の一方的な危険視ができるってこと自体、「競争」による序列、「勝ち組/負け組」という価値観、への信仰告白になっているってだけの話なんじゃないだろうか? お二人にとって負けはやはり負けでしかないから、負け組はルサンチマンを抱き、自暴自棄になるにちがいないと考えてしまうのではないのか?
むしろ、社会的弱者が危険だ、って言うのは、お二人が負け組扱いしている人たちを、お二人自身が不審に思っている、信用できない、軽蔑している、ってことの謂でしかないんじゃないだろうか。たとえば「高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに「できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。」なんて言葉を読むと(また深読みだとか詮索だとかって言われそうだが)、「何やってるんだか。刹那的な快楽に身を任せてるから「できちゃった婚」なんかになるんだ。避妊ぐらいしろよ。利口な奴はそのへんぬかりなくやってるぜ。お前らみたいのがいるから社会に危機が訪れかねないんだ。」っていう渋い顔をした内田、山田、両氏の副音声が聞こえてくるようなのだ。
というのも、内田氏はこの経済的弱者(すなわちシステムの周縁や外部にいる人たち)への不信感の根深さを、オルテガの大衆論につなげることで大々的に表明なさっているからだ。(つづく)
以下参考サイト
引き続き、柄にもなく労働を語る

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「リスク社会」という言い方で(新自由主義とかニューエコノミーと言われる)現行システムを分析することにとりあえず異論はない。いろんな人が同じような分析をしてるし、自分の実感としてもわかるような気がする。問題はその先で、お二人の提言はこの非情なシステムの角を削り、もう少しソフトなものにして、国民をうまくシステムに軟着陸させるための手当をしなければいけない、というものだ。そうしないと社会の階層化が進み、社会的弱者が増加し、システムに悪い影響を与えかねない(不良債権化する)というのである。
私がこの議論を読んで感じたのは、一言でいってしまえば「外部への視線の欠如」ということだ。そしてそのことはおおまかに2つの議論上の不備につながっているように思う。ひとつは、現行システムの無条件な肯定……と、もうひとつは、システムの周辺や外部(すなわち他者)の一方的な危険視……である。明らかにこれは「外部への視線の欠如」というひとつの事態の表裏二つの面を表している。
これまでも語ってきたことだからここでは詳しく述べないが、内田氏は「リスク社会」到来の原因としての「競争」原理については一切問題にしない。内田氏の説明では「文句を言っても始まらない。「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。」ということで、「リスク社会」到来は私たちの自業自得なのである。
明らかに「リスク社会」は、競争原理を利用することで労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために、資本によって構想されたものだと思うのだが、内田氏はそのような資本主義社会のあり方にまで遡って考えることはせず、「リスク社会」を必然的で自明のものと見なすとともに、問題の原因を私たちの自分勝手な振る舞いへとずらし、お説教をかましてくれるのである。曰く……人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること……と。
競争によって破壊されてきた「中間的共同体」が、過酷な「リスク社会」において再構築されたところで機能しそうにないってことはともかく、内田氏にとって現行システムは手当を施してまでして維持されなければならないものだということは確かだ。そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい、って考えそうなものだが、そういう発想にはいたらない(ないしはそういう議論をあえて避けている?)ようである。とにかく内田氏にとってこの「競争」社会は自明で肯定されるべきものなのだ。
したがってその「競争」社会のルールや価値観も自明視されている………
「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(………)
いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(………)
結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。」
………どうなるんですか? 先生………。それはそんなにひどいことなんでしょうか……?
山田氏のこういった言葉から読み取れるのは、「夢」が理想の職業の実現………ある人間がシステムの中で果たす固定的な役割に就くこと、ないしはその職業による収入の問題としてしか語られていないことだ。ようするに人間の成功というものをシステム内部での(おもに収入の比較によってつくられた)その序列によってのみ判断しているということだ。
そのような一面的な視点から人間の価値を判断できるのは、内田、山田、両氏が「競争」社会のルールに則って(競争社会のルールを内面化、自明化して)いるからにほかならない。
しかも人間の成功とか価値を、他者との比較においてのみ(内面的なものは一切問題にされていない)考えていて、それだけをもとに階層化による暗澹たる未来の予測に結びつけてしまっているのだ。つまり客観的になされているように見えるこれらの暗い未来の分析は、実のところまったく一面的な視点から専断的になされていると考えるべきである。そしてその専断はさらに山田氏のいわゆる「希望の格差」なんていう心理的な問題の方向にずらされ、「不良債権化した若者が危険だ」という不安をあおる議論に引き継がれる。
このような専断的な議論は「外部への視線の欠如」によって引き起こされている。「競争」のシステムからはずれた多様な価値のあり方はまるで問題にされていない。それが典型的に現れているのは、社会的弱者となった若者の危険視、においてである。
山田さんは、あと20年後に確実に不良債権化する「元若者」たち(社会的能力もなく、家族もなく、年金受給資格もなく、保険にも入っていないような中年老年の男女)の生活保護のための財政支出と、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいいと提案している。
内田氏は、構造改革や経済の自由化を進め「リスク社会」という非情な「競争」社会をつくりあげた結果生じてくるだろう事態に対して、そのような政策をとることで「リスク社会」をつくり出してきた資本の戦略を責めることを避け、不良債権化するだろう「元若者」たちのほうを迷惑者扱いするような口調で責めている。リアル・ファイトの闘技場で精一杯努力しなければ、いずれこのようなつけが回ってくるのだ、と言いたげである。おまけに、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいい、といった具合にシステムの下層や周辺にいるものを、社会を動揺させかねない不安要因として危険視するのだ。あくまでもシステムは絶対であり、維持されねばならない。つまりここでもシステムの外部へ向かう視線は遮断されている。そしてシステム上のゲームで敗者になる者のルサンチマンはなんとかしなければならないと、労働者の蜂起を怖れるブルジョワジーのごとく危機感を抱くのである。
おそらく現実にニートとか引きこもりの人たちが凶悪犯罪を起こしているのを見て、不安を感じているという面はあるのだろう。まあ、いつの時代のどんな社会でも、システムの周辺部にいる人たちほど犯罪に近い………これは間違いないことだ。
だが、内田氏や山田氏から見てシステムの下層や周縁にいる人々を一概に自暴自棄に陥りがちな人と見なしたりできるんだろうか? 実際にはどんなポジションにいる人でも様々な価値のベクトルを抱えて生きている。経済的に厳しい生活を強いられているにもかかわらず、けっこう楽しくポジティブにやってる人もいるだろうし、かなり上層にいる人が、さらに上にいる人に憧れ、心を焦がすようなルサンチマンを抱いてるなんてこともあるかもしれない。
ようするにルサンチマンなんてことが問題になるのは、「競争」のよって立つ価値観を内面化しているかどうかによるわけだろう。 逆に、お二人のように経済的弱者の一方的な危険視ができるってこと自体、「競争」による序列、「勝ち組/負け組」という価値観、への信仰告白になっているってだけの話なんじゃないだろうか? お二人にとって負けはやはり負けでしかないから、負け組はルサンチマンを抱き、自暴自棄になるにちがいないと考えてしまうのではないのか?
むしろ、社会的弱者が危険だ、って言うのは、お二人が負け組扱いしている人たちを、お二人自身が不審に思っている、信用できない、軽蔑している、ってことの謂でしかないんじゃないだろうか。たとえば「高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに「できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。」なんて言葉を読むと(また深読みだとか詮索だとかって言われそうだが)、「何やってるんだか。刹那的な快楽に身を任せてるから「できちゃった婚」なんかになるんだ。避妊ぐらいしろよ。利口な奴はそのへんぬかりなくやってるぜ。お前らみたいのがいるから社会に危機が訪れかねないんだ。」っていう渋い顔をした内田、山田、両氏の副音声が聞こえてくるようなのだ。
というのも、内田氏はこの経済的弱者(すなわちシステムの周縁や外部にいる人たち)への不信感の根深さを、オルテガの大衆論につなげることで大々的に表明なさっているからだ。(つづく)
以下参考サイト
引き続き、柄にもなく労働を語る

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