Sun.

安全と効率は対立しない のか?

 この歳になって自動車教習所に通った。無事卒業とあいなったわけだが、ずっとひっかかっていたことがある。主に学科教習で執拗なまでに繰り返されて言われることが二つあって、それは………いかに安全な運転が大事であるか、そして交通事故によって引き起こされる悲劇は避けなければならない……つまり人間の命がいかに大切かということと、もう一つは交通の円滑性、ということについてである。これは単純にいうと「安全と効率」の問題である。
 バカなこと言うようだが、なんでそんなに命が大切なら、命を限りなく危険にさらす高速運転が可能な道路なんかを作るのだろう? なんでそんな恐ろしい自動車なんか走らせてるんだろう? って教習を受けながらボンヤリ考えていた。高速になるといかに視野が狭まってしまうか、いかに停止距離が長くなってしまうか………慎重に運転しなければ大変なことになるぞ! と脅しをかけられ続けるのだが、じゃあいいよ、車なんて運転するものか!………ってわけにもいかないだろうなあ現実問題として。私自身も危険へ通じるはずの免許を高い教習料を払って取ろうとしてるわけだし。

 交通機関の整備は経済成長のためには欠くことのできない条件だ。高速かつ円滑に物流が行われなければならない。人や物資の移動が滞ることは生産性の低下につながる。したがって交通の円滑性(効率)は資本主義社会の至上命令だ、といえる。
 高速な移動は危険である。「どこでもドア」でもできない限り基本的にはそうだろう。しかし効率性の追求は私たちに素早い移動を要求してくる。ということは安全と効率は対立するものなのだ………と僕は考えていた。命は大切だ、なんて言ってるけど資本主義社会にとっては本当は人の命より大事なものがあるのだ。そのために人を危険にさらしてもかまわない、大事な価値が………。それはもちろん利潤(もうけ)の追求である。

 JR西日本の脱線事故のニュースを新聞で読んでいると、猪瀬直樹氏のコラムがあって、タイトルには『尼崎脱線事故 効率と安全 対立しない』(読売新聞 5月5日 朝刊)と書いてあるではないか。あれっ? と思って新聞に掲載されている猪瀬氏のなんだか怖い正面写真ににらまれながらこのコラムを読んでみた。

 

………JR福知山線の快速電車脱線事故が起きると、効率を追求するあまり安全が軽視されている、という見方が主流になり始める。JRと私鉄の乗客争奪戦が惨事を招いた、と原因を競争のせいにする。(中略)………効率の追求と安全を対立させる議論は極めて観念的なのだ。効率と安全は、顧客の利益という面でも、現場で働く者にとっても、両立するからである。



 え? じゃあ、私は観念的だったのか………(笑)。猪瀬氏は道路公団の民営化推進委員として活躍しているようだから、その立場上、今回の事故が民営化によって引き起こされたわけではない、つまり国鉄の分割民営化による私鉄との競争激化=過剰な効率の追求が事故の原因ではない、ということを主張せざるを得ないようだ。しかし明らかに対立してるように思える「安全と効率」の問題を猪瀬氏はどんな魔法で解消してくれるんだろう?
 要約すると、猪瀬氏によればここには2つの誤解があって、事故の多発の原因は民営化そのものにではなく、民営化の仕組みが間違っていたせいだ、ということ、また、過密ダイヤは決して日本だけでの問題ではなく世界中の都市鉄道の宿命なのだ、ということ、これを主張する。

 

事故の背景に過密ダイヤがあるのは事実だが、もう一歩、踏み込んで考察しなければいけない。我われ自身の姿、日本人の長所と欠点が見えてくれば処方箋は見つかる。
 職人的なものづくりでは日本が世界一である。大田区の町工場然り。あまり知られていないが、列車のダイヤ編成も完璧すぎるぐらいに精密で他国の追随を許さない。(中略)………外国人は、効率と安全が高度に両立する姿を目の当たりにして驚嘆する。



 どうやら猪瀬氏は「安全と効率」の対立の解消に日本的な職人芸をもってしようとしているようだ。電車の運転士のオーバーランとそれに続く無理な回復運転について、猪瀬氏は運転士が職人失格の烙印を押されることを恐れてのことだと解釈する。結論的に事故の責任の所在はこう説明される。

 

23歳で職人としては経験不足の未熟な運転士を、なぜ通勤・通学の時間帯に配置したか。責任は、民営化されたのに未だにお役所的お座なりの人事管理システムしかつくれなかったJR 官僚にある。



 まだ民営化が不完全で、国鉄時代のお役所的な体質を引きずっているところに今回の脱線事故の大きな原因があるのだ、と猪瀬氏は言うのだ。民営化が徹底されればこのような事故は減るはずだ、これが民営化推進委員としての立場からの猪瀬氏の主張である。

 私が国鉄時代の負の遺産云々よりも一労働者として気になるのは、そのようなシステムの問題より現場で働く者の方だ。結局、猪瀬氏はここで「安全と効率」の対立はアクロバティックな職人芸によって乗り越えろ!……としか言ってないんじゃないかと思うのだ。職人的な運転技術、職人的な運行管理、職人的に適切な人員の配置…………つまり現場の労働者の努力によって「安全と効率」の対立を解消するという方策が猪瀬氏の魔法の正体なのだ。つまりはこれ、もっと気合いを入れて働けば「安全と効率」は両立できますよ、ってことですよね。猪瀬氏は一種の労働倫理、日本的な精神性によって問題を解決するように迫っている。顧客のニーズ、安全、そして利益を上げるという企業の目的という異なる要求をを一挙に解決するためには、やはりどこかにしわ寄せが来ざるを得ない。つまり労働現場に………である。
 いや、交通機関の運転手に手を抜いてお気楽に運転されては困る。そりゃそうだ。そりゃそうなのだが、人の命のかかった「安全」を考えたときその決定的な部分を現場の人間の職人的なスキルだけに頼らざるを得ないのではあまりにもリスキーではないか? どんな職人だって人間なんだからミスもする………そのような職務における緊張感の中に常に職員を追い込むことでしか達成できない「安全と効率」の両立ってことに一体意味があるのだろうか。
 つまりそのような外国人もビックリの職人芸に頼らざるを得ないということは、やはり「安全と効率」は対立しているということではないのだろうか。どちらかといえば観念的だと非難されるべきはむしろ猪瀬氏の議論だ。いや観念的というよりほとんど詐術に近い議論のようにも思える。スピードというものはどうしたって危険なのだ。本当に安全を考えたら高速の移動は避けなければならない。………いやそれは現実的に無理であることはわかっている。が、問題なのは、そのような危険にほかならないスピード(効率性)を私たちに要求してくるものがある、ということだ。

 なるほど交通機関にスピードを要求するのは顧客である。顧客のニーズがあるからこそ交通機関はスピードアップを図るのだ。じゃあ、利用者が交通機関に危険な運行を押し付けているのだろうか。
 鉄道の利用者のほとんどは通勤客であり、彼らはみな会社の就業時間に従って動いている。定められた出勤時間を守らなければならない。それだけではなくわずかな休日やプライベートな時間も効率的に利用しなければならない。そのためには交通機関に遅延があってはすべて台無しになってしまう。
 そう考えれば交通機関の円滑な運行を求めているのは、会社の都合であり、生産の都合であり、産業社会そのもの都合である。はじめにも述べた通り生産性の向上、そして利潤の増大のためには人や物資の移動が滞ることは許されないのである。産業社会(資本)のリズムが私たちの生活を律し、効率を要請してくるのである。
 利用者に事故の可能性を常に抱えている高速度の交通機関に乗車することを迫り、運転士に職人的なスキルと絶えざる緊張感によって「安全と効率」の対立を解消せよと要求するのは、常に利潤、経済成長を求めて運動し続ける「資本」なのである。

 そう考えてゆくと今回のような悲劇的な事故は(あたりまえだが)すべての交通機関が可能性として持たざるを得ないものだ、と言える。実は、「資本」が保持し続ける「効率性」への意志が私たちを危険(スピード)へと追いつめ、現場の職員が職人芸によってかろうじて決定的な事故に陥るのを回避し続けている、というのが交通機関の労働現場で行われていることではないだろうか? つまり交通機関での労働に従事する人たちの仕事の中身は、「安全な運転」であるというより、「危険の回避」なのである。その職人芸がふとした気のゆるみから綻んだとき事故は起こるべくして起こるのだ。

 猪瀬氏によれば民営化がもっと徹底されればこのような事故は減るはずだ、ということのようだが、国有化だろうと民営化だろうと「資本」が背後から「効率性」を迫ってくる限り交通機関は事故への高いリスクを負い続けると思う。むしろ民営化を推進することにより「資本」は「競争」の原理を明確に交通機関の労働現場の中にも貫徹させようとしてきたわけだろう。おそらくは今後も職員一人一人を競争関係におくことで、運行に必要な高度な集中力や職人的なスキルを引き出そうという方向に進んでゆくことは間違いないと思う。職員たちは今回事故を起こした運転士のように、背後から運転ミスは許されないぞ、ミスをすれば給料や将来の出世に響くぞ、という「脅し」をかけられて運転席に座るのだ。また誰か無理な回復運転をする人だって出かねないのだ。

 アクシデントというものはなくならない。生は常に危険と隣り合わせだ。しかし経済成長の名の下に余計なリスクを背負わされている私たちの現実についてよく考えるべきだ。交通機関の職員に職人的な作業の緊張を強い、毎日死亡事故の可能性のある乗り物に乗って通勤せざるを得ない私たちの現実を………。果たしてそのようなリスクを背負ってまで経済成長は追求しなければならないものなのか? そのようなリスクを背負ってゆかないと私たちは生活してゆけないのだろうか………?
 こうした問いは悲劇的な事故の後の混乱の中で攪乱され見えなくなってしまう。JRの経営陣を、またボウリングや宴会を開いていた職員たちを吊るし上げ、はては度を過ぎた取材をするマスコミ自身が吊るし上げられしてるうちに、悲劇的な事故の黒幕である「資本」の姿はどこかにかき消されてしまい、遺族のやり場のない悲しみと怒りのみが宙をさまようのだ。

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