05.23.2005
センセー、やっぱり違うと思います! その1
458masayaさんに、内田樹氏のブログのエントリーについての私の「読み」がおかしい、という意見をもらっているので(『解釈について考える』『同−2』『同−3』)、それに答えたいと思います。『数学屋のメガネ』の秀さんからも同様のTBを受けているのですが、微妙にポイントが違うようなのでとりあえずは458masayaさんへの答えを先に示しておくことにします。が、秀さんへの答えにもなっていると思いますので、目を通していただけたら、と思います。
さて、読んでみてまず感じたことは、458masayaさんのおっしゃってることは、以前私にTBしてくれたsnusmumrikさんの考えとよく似ているということです。お二人とも内田氏の考えと私の考えは基本的にはそれほど離れていないんじゃないかと………どちらも競争の社会を批判するものである、と指摘しているように思います。snusmumrikさんのエントリーは短いものでしたから、具体的にどうして内田氏の考えが競争社会の批判になるのか、ちょっとわからなかったのですが、458masayaさんはその辺を詳細に書いてくれたので、なるほどそういうことか、と私も納得した次第です。で、内田氏と私の間に食い違いが生じてしまったのは、私の手ひどい誤読のせいだ、と458masayaさんは分析なさっているわけです。
しかしながらもう一度はっきり言わなくてはならないことは、内田氏の考えと私の考えは180度逆を向いている全く別の思考だということです。前にも言いましたが、一見似てるけど全く別物なのです。ですから、そのことを示すためにはもう一度『センセーそれはあんまりじゃございませんか』と同じことを繰り返して説明することになりますが、今度は458masayaさんの論に沿ってそれを行ってゆきましょう。
何度も書いて来たので詳しいことは省きますが、内田氏(山田昌弘氏)が現在の状況をリスク社会と捉えてることに対して私は特に異論はありません。気になるのはそのリスク社会が階層化を進行させ、社会不安を招きかねないという予測と、それに対して内田氏が考える「断念」の勧めであり、これを私は「競争」そのものを問題とせず、システムを温存するものであると解し、それとは逆に私は「競争を降りる」という方向性を示しました。
458masayaさんが指摘してくれたのは、そうではなく内田氏は決して「競争」や資本主義のシステムを維持温存しようとしてるのではなく、むしろそのようなシステムを批判し、ヒートアップした競争社会をやせ衰えさせようという意図のもとに発言しているのだ、ということかと思います。
具体的には学校教育の「学び」を降りるものを、私が勝手に「競争」を降りるものとして肯定的に理解していることをいさめ、「学び」を降りたものが「オレ様化」するメカニズムに注意を促しています。つまり消費資本主義によって自己肯定・自己満足的な「オレ様化」した子供が作りだされ、そのような自己を過大評価した子供たちを「あなたには無限の可能性があります」的なスローガンによってヒートアップした競争社会に送り込み収奪する、ということをまた資本主義社会は行っているのだ、と458masayaさんは内田氏の論旨を説明してくれました。
内田氏の「断念」の戦略はこのような過酷な競争社会をクールダウンさせるためになされるものだと、つまり資本主義を無条件に肯定するものなどではなく、資本主義の横暴を終息させるためのものなのだ、というのが458masayaさんがおっしゃりたいことだと私は理解しました。
なるほど内田氏の言葉はそのように理解すれば、私が行った「読み」がそうであったように、人の上に立ってなされる抑圧的な発言には聞こえてこないわけです。458masayaさんが引用した内田氏の言葉をそのまま載せてみましょう。
『私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。
「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。
そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。』
はは〜ん、なるほど。………この内田氏の言葉は、とても美しい、説得力のある言葉に聞こえるかもしれません。しかし私は正直ここに非常にイヤラシい、詐術のようなごまかしを感じます。おそらく内田氏自身の発言の意図は、資本主義の暴走を食い止め、私たちが人間らしく生きることのできる社会を構想する、というところにあるのかもしれません。(いや、そうでなければ困りものです。)しかしこの言い方では荒れ狂う資本主義を結局のところ追認する「働き」しかしないと思うのです。
願わくば、私の読み方を言いがかりとして理解しないでいただきたいと思います。確かに私は内田氏の言葉をその意図通りに読む「素直な」読みを行うつもりは毛頭ありません。なぜならある言葉を発言した人の意図通りに理解できているかどうかは厳密には検証不可能であり、そのような試みが大して意味あるものとは思えないからです。が、もちろん曲解するつもりもありません。むしろ私がここで行いたいのは、内田氏の言葉がこの社会の中でどのような意味合いを持つものとして機能するか、という「働き」を分析することです。内田氏がどのような意図を持って発言したにしろ、実際には全く違う意味合いで理解され、機能するだろう、ということを私は「読み」として実行したいと思います。
とりあえず458masayaさんがいままで指摘してくれたことを、私が納得したということを前提にして話を進めましょう。そのうえで、内田氏の「断念」の戦略が本当に「資本主義の暴走」をくいとめる「働き」をするのであれば、私は内田氏の言葉にケチをつけることはできないことになります。
「夢を捨てるな」というのが資本主義の要請であり、逆に内田氏のそれに対抗する戦略は「あきらめろ」ということでした。以前にも分析しましたが、「あきらめる」ということは「あきらめなければならないもの」に対して、つまり「夢」に対して価値を感じている、ということです。同様に「分をわきまえる」ということを考えてみると、これは別の何かに対して「分をわきまえる」ということ、すなわちより優れたものに対して「分をわきまえる」ということです。
つまり、内田さんの言葉は、あくまでも資本主義が人を競争させるために作り上げた業績主義的な序列における人間の優劣を前提にして言われていることがわかると思います。あくまでも優れた地位の人間は存在し、その人たちに対して自分は「分をわきまえる」のであり、そのような優れた地位への上昇は「夢」であるのだが、それは「あきらめる」必要がある、ということです。要するに「競争」の前提はこういう言い方をしている限り消滅していない、ということです。暴走する資本主義、「リスク社会」の前提である「競争」とヒエラルキーは温存されたままなのです。
はたして本当に「自己の可能性を過大評価した」人間が「無限の可能性」という「危険なイデオロギー」に乗っかっているから競争がヒートアップしているのか、また彼らが身の程を知れば本当に「資本主義の夢の国」は痩せ細るのか、個人的には疑問ではありますが、まあいい。とにかくここで内田さんが考えている「断念」の戦略とは、たぶん危険なまでにヒートアップするエンジンを低速な回転へとシフトダウンするように、「資本主義の暴走」をシフトダウンさせることだと言っていいでしょう。回転を低速に保つことでエンジンそのものが焼け付いてしまうのを避けようということです。………つまりエンジンそのものは温存、維持されているのです。
さらに、内田氏は過大な「夢」を「断念」する者に、「かけがえのない」という言い方で、人間の職業への一体化を迫っているように見えます。『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つこと』………何か歯の浮くような美しい言葉ですが、これは「夢」を「あきらめた」結果の虚無感を、社会的役割への責務によって埋め合わせようとする言葉ではないでしょうか。
「断念」である以上、本当はやりたくない職業なんだけど、それになんとか意味を持たせたいから「かけがえのない」だとか「選び」なんて美しい言葉でフォローしなければならないのです。私は若い頃から職業で人間を判断することは許されないと思って来た口なので、社会的役割への特化を美化するこのような言葉にはむしろ不快なものを感じてしまいます。
しかもこのように社会的役割に邁進することで、「断念」した人たちは「断念」を迫って来た社会を支える役目を引き受けるのです。つまり上で語ったシフトダウンした資本主義のエンジンを支え続けるわけです。………「ネジにするのか? 俺を!」(by 星野鉄郎………古いかな?)
458masayaさんはこうおっしゃっていました。『「現行システム」以外にひとまず私たちの社会はありません。『根っこから切り崩して』しまったら、私たちの社会はどうなるのでしょうか? 私たちにできるのは、せいぜい現行システムを住みやすい方向に変えていくことではないでしょうか?』
このような社会システムの改良や修正は、結局のところ現行システムの是認です。基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない。つまり「外部」への視線がないということです。
競争社会そのものは温存されたままなのですから、危険な状態にヒートアップする可能性も温存されたままです。低速回転を維持し続けなければ焼け付く可能性のある危ういシステムを成員の大多数に「あきらめ」を迫り続けることでしか維持できないってことになります。
私が内田氏の議論を聞いてげんなりしてしまうのは、全く別の可能性、つまり「外部」への視線が遮断されたままで話を進めてしまっているからです。私は『そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい』と言いました。が、この根っこから切り崩す、ということは(たぶん458masayaさんはそう疑念を抱いているようですが)たとえば革命を起こしたりして社会を混乱させるというようなことではありません。そうではなく、それはまさに「外部」の視点を導入するということです。そのことをこれから説明しましょう。

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さて、読んでみてまず感じたことは、458masayaさんのおっしゃってることは、以前私にTBしてくれたsnusmumrikさんの考えとよく似ているということです。お二人とも内田氏の考えと私の考えは基本的にはそれほど離れていないんじゃないかと………どちらも競争の社会を批判するものである、と指摘しているように思います。snusmumrikさんのエントリーは短いものでしたから、具体的にどうして内田氏の考えが競争社会の批判になるのか、ちょっとわからなかったのですが、458masayaさんはその辺を詳細に書いてくれたので、なるほどそういうことか、と私も納得した次第です。で、内田氏と私の間に食い違いが生じてしまったのは、私の手ひどい誤読のせいだ、と458masayaさんは分析なさっているわけです。
しかしながらもう一度はっきり言わなくてはならないことは、内田氏の考えと私の考えは180度逆を向いている全く別の思考だということです。前にも言いましたが、一見似てるけど全く別物なのです。ですから、そのことを示すためにはもう一度『センセーそれはあんまりじゃございませんか』と同じことを繰り返して説明することになりますが、今度は458masayaさんの論に沿ってそれを行ってゆきましょう。
何度も書いて来たので詳しいことは省きますが、内田氏(山田昌弘氏)が現在の状況をリスク社会と捉えてることに対して私は特に異論はありません。気になるのはそのリスク社会が階層化を進行させ、社会不安を招きかねないという予測と、それに対して内田氏が考える「断念」の勧めであり、これを私は「競争」そのものを問題とせず、システムを温存するものであると解し、それとは逆に私は「競争を降りる」という方向性を示しました。
458masayaさんが指摘してくれたのは、そうではなく内田氏は決して「競争」や資本主義のシステムを維持温存しようとしてるのではなく、むしろそのようなシステムを批判し、ヒートアップした競争社会をやせ衰えさせようという意図のもとに発言しているのだ、ということかと思います。
具体的には学校教育の「学び」を降りるものを、私が勝手に「競争」を降りるものとして肯定的に理解していることをいさめ、「学び」を降りたものが「オレ様化」するメカニズムに注意を促しています。つまり消費資本主義によって自己肯定・自己満足的な「オレ様化」した子供が作りだされ、そのような自己を過大評価した子供たちを「あなたには無限の可能性があります」的なスローガンによってヒートアップした競争社会に送り込み収奪する、ということをまた資本主義社会は行っているのだ、と458masayaさんは内田氏の論旨を説明してくれました。
内田氏の「断念」の戦略はこのような過酷な競争社会をクールダウンさせるためになされるものだと、つまり資本主義を無条件に肯定するものなどではなく、資本主義の横暴を終息させるためのものなのだ、というのが458masayaさんがおっしゃりたいことだと私は理解しました。
なるほど内田氏の言葉はそのように理解すれば、私が行った「読み」がそうであったように、人の上に立ってなされる抑圧的な発言には聞こえてこないわけです。458masayaさんが引用した内田氏の言葉をそのまま載せてみましょう。
『私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。
「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。
そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。』
はは〜ん、なるほど。………この内田氏の言葉は、とても美しい、説得力のある言葉に聞こえるかもしれません。しかし私は正直ここに非常にイヤラシい、詐術のようなごまかしを感じます。おそらく内田氏自身の発言の意図は、資本主義の暴走を食い止め、私たちが人間らしく生きることのできる社会を構想する、というところにあるのかもしれません。(いや、そうでなければ困りものです。)しかしこの言い方では荒れ狂う資本主義を結局のところ追認する「働き」しかしないと思うのです。
願わくば、私の読み方を言いがかりとして理解しないでいただきたいと思います。確かに私は内田氏の言葉をその意図通りに読む「素直な」読みを行うつもりは毛頭ありません。なぜならある言葉を発言した人の意図通りに理解できているかどうかは厳密には検証不可能であり、そのような試みが大して意味あるものとは思えないからです。が、もちろん曲解するつもりもありません。むしろ私がここで行いたいのは、内田氏の言葉がこの社会の中でどのような意味合いを持つものとして機能するか、という「働き」を分析することです。内田氏がどのような意図を持って発言したにしろ、実際には全く違う意味合いで理解され、機能するだろう、ということを私は「読み」として実行したいと思います。
とりあえず458masayaさんがいままで指摘してくれたことを、私が納得したということを前提にして話を進めましょう。そのうえで、内田氏の「断念」の戦略が本当に「資本主義の暴走」をくいとめる「働き」をするのであれば、私は内田氏の言葉にケチをつけることはできないことになります。
「夢を捨てるな」というのが資本主義の要請であり、逆に内田氏のそれに対抗する戦略は「あきらめろ」ということでした。以前にも分析しましたが、「あきらめる」ということは「あきらめなければならないもの」に対して、つまり「夢」に対して価値を感じている、ということです。同様に「分をわきまえる」ということを考えてみると、これは別の何かに対して「分をわきまえる」ということ、すなわちより優れたものに対して「分をわきまえる」ということです。
つまり、内田さんの言葉は、あくまでも資本主義が人を競争させるために作り上げた業績主義的な序列における人間の優劣を前提にして言われていることがわかると思います。あくまでも優れた地位の人間は存在し、その人たちに対して自分は「分をわきまえる」のであり、そのような優れた地位への上昇は「夢」であるのだが、それは「あきらめる」必要がある、ということです。要するに「競争」の前提はこういう言い方をしている限り消滅していない、ということです。暴走する資本主義、「リスク社会」の前提である「競争」とヒエラルキーは温存されたままなのです。
はたして本当に「自己の可能性を過大評価した」人間が「無限の可能性」という「危険なイデオロギー」に乗っかっているから競争がヒートアップしているのか、また彼らが身の程を知れば本当に「資本主義の夢の国」は痩せ細るのか、個人的には疑問ではありますが、まあいい。とにかくここで内田さんが考えている「断念」の戦略とは、たぶん危険なまでにヒートアップするエンジンを低速な回転へとシフトダウンするように、「資本主義の暴走」をシフトダウンさせることだと言っていいでしょう。回転を低速に保つことでエンジンそのものが焼け付いてしまうのを避けようということです。………つまりエンジンそのものは温存、維持されているのです。
さらに、内田氏は過大な「夢」を「断念」する者に、「かけがえのない」という言い方で、人間の職業への一体化を迫っているように見えます。『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つこと』………何か歯の浮くような美しい言葉ですが、これは「夢」を「あきらめた」結果の虚無感を、社会的役割への責務によって埋め合わせようとする言葉ではないでしょうか。
「断念」である以上、本当はやりたくない職業なんだけど、それになんとか意味を持たせたいから「かけがえのない」だとか「選び」なんて美しい言葉でフォローしなければならないのです。私は若い頃から職業で人間を判断することは許されないと思って来た口なので、社会的役割への特化を美化するこのような言葉にはむしろ不快なものを感じてしまいます。
しかもこのように社会的役割に邁進することで、「断念」した人たちは「断念」を迫って来た社会を支える役目を引き受けるのです。つまり上で語ったシフトダウンした資本主義のエンジンを支え続けるわけです。………「ネジにするのか? 俺を!」(by 星野鉄郎………古いかな?)
458masayaさんはこうおっしゃっていました。『「現行システム」以外にひとまず私たちの社会はありません。『根っこから切り崩して』しまったら、私たちの社会はどうなるのでしょうか? 私たちにできるのは、せいぜい現行システムを住みやすい方向に変えていくことではないでしょうか?』
このような社会システムの改良や修正は、結局のところ現行システムの是認です。基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない。つまり「外部」への視線がないということです。
競争社会そのものは温存されたままなのですから、危険な状態にヒートアップする可能性も温存されたままです。低速回転を維持し続けなければ焼け付く可能性のある危ういシステムを成員の大多数に「あきらめ」を迫り続けることでしか維持できないってことになります。
私が内田氏の議論を聞いてげんなりしてしまうのは、全く別の可能性、つまり「外部」への視線が遮断されたままで話を進めてしまっているからです。私は『そんな非情で、階層化による機能不全の危機をかかえたシステムなんて、根っこから切り崩してしまえばいい』と言いました。が、この根っこから切り崩す、ということは(たぶん458masayaさんはそう疑念を抱いているようですが)たとえば革命を起こしたりして社会を混乱させるというようなことではありません。そうではなく、それはまさに「外部」の視点を導入するということです。そのことをこれから説明しましょう。

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