05.28.2005
センセー、やっぱり違うと思います! その3
もうひとつ458masayaさんが引用していた内田氏の言葉をそのまま引いておきましょう。内田氏のマジシャンのような詐術のお手並みががここに現れているからです。一言でいえば「生き方の違い」や人間の多様性を「職業」つまり社会的機能の多様性にすり替えてしまってるのです。
「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。
こういった言葉を読むと、内田氏は一見「競争」を辛辣に批判しているように見えます。しかし前にも言いましたが、このような「競争」の加熱をクールダウンさせるはずの「分をわきまえる」という言い方は、やはり人間の優劣、つまり業績主義的な価値観を………ご自身が危険だと言っている同質的な価値観を前提としている言葉です。つまり、「競争」そのものはなくなっていないのです。
実際、学校教育を「選別」だと喝破する内田氏は、「学び」を降りるものを「オレ様化」なんていう自己評価の肥大した競争を激化させる元凶みたいな存在と見なして、「身の程を知りなさい!」なんて説教してるのですが、そもそも「学び」の現場は試験によって子供を評価する(均質的な)「競争」の現場だってことには、ご自身がよくご存知であるにもかかわらずまるでノータッチです。そして、内田氏の書いたものを読む限り「収奪メカニズム」に巻き込まれるおバカな「オレ様」たちが、身の程をわきまえなければならないその相手は、「学び」のカリキュラムを勝ち抜いて来たエリートであることは間違いないでしょう。つまり内田氏がどんなに否定し、批判しているつもりでも業績主義的イデオロギーをベースにした、価値観が同一の「競争」社会はそのまま生きているし、ご本人によってしっかり肯定されています。
実は、内田氏が否定したいのは「競争」そのものではなく、「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」だけなのです。身の程知らずな奴らが「無限の可能性」というイデオロギーに踊らされ「競争」をヒートアップさせ資本主義を暴走させるのだ。バカどもさえ何とかなれば社会は安定するのに…………ってぼやいてるだけです。バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい! ってわけです。
どうも内田氏の言い方を聞いていると、普段から問題児(不良や不登校児)に頭を悩ませ、彼らの存在を苦々しく思っている学校の先生、または先生と同じ価値観の上に立つ優等生の実感を、社会学的に敷衍するとこういう思想が出来上がるんじゃないか、と思えて来ます。たぶん内田氏は学校での「競争」、業績主義的価値観の成功物語にのっかって努力する人以外信用できず、そこから降りる人の存在が許せないのでしょう。そういう奴は行くべきところ(社会の下層)に行きなさい! 原初に「学び」を降りる者の排除ありき………これが内田氏の思想のエッセンスです。おそらく内田氏の考えを無批判に支持するのは、内田氏と似た境遇にある学校の先生や優等生、あるいはそれに近い立場の人じゃないかと私は想像します。
もし私だったら、それとは全く違う手続きで、資本主義の暴走を食い止める構想を考えます。それは簡単に言って、「競争」のベースになっている業績主義的イデオロギーから身を引き離してしまうことです。つまり、私たちの社会の中を貫き支配している業績主義の価値観をあくまでも一面的なものだと見抜き(相対化し)、そうした価値観の中の優劣のみで人間を判断することをやめ、またそうした価値観の中の序列の上位に上昇することが一面的な夢でしかないということを知ること。そのような作業をを業績主義イデオロギーの「外部」の価値観に立ち、自己肯定することで行うのです。これを私は「競争」を降りること、「競争」のベースを根っこから切り崩すことだと考えています。そうすることで、競争原理を利用し労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために資本によって構想されたリスク社会……すなわち資本主義の横暴を痩せ細らせるのです。
458masayaさんは、リスク社会の到来は「資本」の要請だと言った私の言葉をとらえて、『私たちは潔白である、むしろ(資本の)被害者である、という考え方です。』とおっしゃってますが、当然ながら「資本」はそもそも私たち人間が作り出したものであり、またそれを日々支えているのも私たちです。いわば私たちと「資本」は共犯関係にあって「リスク社会」の暴走を支えているといっていい。では私たちが犯人なのかといえば、今や「資本」は地球上を覆い尽くし、私たちは「資本」の中に生まれてくるようなものです。したがってこの共犯関係はある意味強いられたものですらある。だから私たちにできるのは、業績主義イデオロギーから距離をとり、競争の原理に乗らないようにして「資本」を支えているその「支え」を外してゆくことだと思うのです。そうすることで資本主義を骨抜きにしてゆくのが私の考える戦略です。
内田氏の考えが暴走する資本主義のエンジンを低速回転させることで温存するものであるとしたら、私の構想はエンジンのネジを抜き、分解して回転を止めてしまおうというものです。
もう少し詳しくいうと、業績主義イデオロギーの一面的な価値観にとらわれない多様な価値観のもとに生きることのできる社会を構想してみること。限られた椅子を争うような「価値観が同一の社会」における同質の「夢」を追求するのではなく、多様な「夢」を創出すること。内田氏の言葉でいえば「同じ生き方の格差の違い」ではなく「生き方の違い」を追求すること。なんかの歌ではないけど、ナンバーワンではなくオンリーワンであること、しかも内田氏が言ってるみたいに職業的にオンリーワンなんじゃなくて、ワクワクするような個々人それぞれの「夢」の追求にオンリーワンであることです。(内田氏の言い方では「生き方の違い」は「職業」の違いでしかありません。内田氏はきっと人と人の違いや多様性を社会的役割でしか判断できないのでしょう。)
そして、そのような社会や生き方の構想を持って現実の現行システムの中で生きてみること………そうすることで「競争」のベースになっている業績主義イデオロギーの一面的な価値観を相対化し、無力化するというのが私の考える戦略です。
なるほどさしあたって私たちが生きてゆけるのは現行システムでしかないわけで、私たちはその中で何らかの職業に就かざるを得ません。つまり業績主義的イデオロギーのもとの序列のどこかに位置しなければならないのです。ですが、私は「かけがいのない」「代替不可能な」「選ばれた」ものとして職業や労働を考えるべきではないと思います。「天職」という言い方がありますが、正直好きな言葉ではありません。むしろ「仕方なく」「イヤイヤながら」ある職業を選択している、というあり方が正しいでしょう。しかも様々な事情や運命によって職業をコロコロ変えてしまうというのも一つのやり方かもしれない。また事情が許すなら「働かない」というのも魅力的な選択肢でしょう。(そういえば内田氏のニート論が物議をかもしているようですが……。)そのような「職業」との距離の取り方は、人間が「かけがえのない」職業なんてものに特化し、社会的な機能や役割に道具的に還元されてしまうのを避けるための一つの手になるかもしれません。
一つの職業に就きながら「夢」を追求できるのなら、それはそれでバンバンザイでしょう。また職業への邁進が自分の「夢」の追求と過不足なく一致しているという幸福な人もいるかもしれない。しかし実際には、いろんな事情があって、自分の気に入らない職業を選択しているというのがむしろ常態だと思います。中には被差別的な職業に就かざるを得ない事情の人だっている。たとえば売春は立派な職業だと思いますが、売春を生業とする女性に向かって、『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つ』べきだ、なんてやはり内田氏は言うのでしょうか。
ようするに、誰だって自分の「夢」なり「欲望」なりと、「職業」に齟齬を感じ、矛盾や不満を感じているというあり方が常態だと思うのです。役割では人間の「夢」や「欲望」を掬いきれるはずがない。職業なんてもので人間の多様性や「かけがえのなさ」を云々するのはおかしいのです。社会的機能なんてものに人間を還元してしまうのではなく、どれだけオリジナルな夢を追求できるか、すなわちどれだけ「代替不可能な」生き方の違いを追求できるか、ということで人間の価値は考えられるべきでしょう。そしてこの多様性の追求は「競争」でありうると思いますが、多様であるだけに一元的に量ることも、比較することもできない、敗者のない「競争」になるでしょう。
『数学屋のメガネ』の秀さんが語っていたエディ・タウンゼントの例をもう一度考えてみましょう。
『ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。』
この例を内田氏の言葉で語れば、『エディはチャンピオンになるという「夢」をあきらめ「分をわきまえて」て、トレーナーという職業に就いた。しかし敗者の経験はトレーナーとしての彼の仕事ぶりに深みを持たせている。』ということになると思います。
逆に私の言い方ではこうなります。『エディは敗者となる経験を通じて、「勝ち/負け」という格差を生じさせる一面的な価値観に疑問をもち、それ以外の多様な(外部の)価値観を理解できたがゆえに深い人間性を身につけた。ノウハウがあるのでとりあえず今はトレーナーを生業にしている。』
私は現実のエディ・タウンゼントという人は知りませんから、彼の内面がどうであったかわかりません。おそらく内田氏の言い方の方がエディの内面の真実を表わしているのかもしれません。しかし私が言いたいのは、資本主義の暴走を食い止めるという文脈の中では、このようなエディの経験が「あきらめ」のプロセスである必要はないし、あってはならない、ということです。「あきらめ」である以上、この人は深い憂愁をたたえたトレーナーだという印象が拭えません。やはりチャンピオンになる「夢」はどこかに引っかかったままであり、業績主義的価値観はまだエディを支配している。挫折にともなう憂愁の影が人間臭いというかもしれませんが、やはりどこか「重い」のです。
私が望むのは、敗者になる経験を一面的な価値観から身を引きはがすためのきっかけとして逆手にとって利用してしまうことです。一面的な価値観を相対的に眺めることができるってことは、それだけで一つの深い知性であり人間性です。そのように事態を眺めることができていれば、チャンピオンになる「夢」もまた一面的な夢でしかなくなっており、エディの前にはまったくオリジナルな「夢」、「違う生き方」が広がっていると思うのです。そのような形で事態をプラスに転換してしまう………もし私が内田氏のような教育者の立場にいるとしたら、後者のような方向でこのエディや若者をアシストする知恵を授けることを考えると思います。「あきらめる」必要など何もない。むしろ新しい「夢」へと古くて狭隘な「夢」を転換してしまうことが問題なのだと思います。
資本主義の暴走を食い止める、というのであれば、ふつう「競争」のベースになっている価値観から身を引き離す、という方向へ進むのが当然だと思うのですが、内田氏の言ってることは逆に「競争」のベースとなる価値観を追認し、より深く資本主義社会にコミットすることでそれを達成しようとしているように見えます。実際にそんなことが可能なのかわからないのですが、この言い方では現行のリスク社会を追認する「働き」しかしないと思うのです。だって「リスク社会」を支える条件には何も変更がないのですから。だからこそ私は執拗に内田氏の言葉にケチをつけ、業績主義的イデオロギーから距離をとる=「競争」を降りる、という方向を提案するのです。それが暴走する資本主義のエンジンを骨抜きにしてゆく唯一の方法だと思うからです。
とはいうものの、このような新しい生き方の構想を持って現行社会の中で生きることは、経済的にも、精神的にもけっこうシンドイものであることが予想されます。「競争」に乗ってマジに努力し続けている人たちの中で、「仕方なく」「イヤイヤながら」働いてたら現行社会の中で勝者になることなんてよほどの幸運がない限り無理だと思うからです。それにそんな風にタラタラと働いてる、あるいは全く働いてないやつを「競争」に乗っかった連中が軽蔑の眼差しで見ることは間違いない。内田氏や山田氏がまさにそのような色眼鏡で「学び」を降りた人を見ていて、不良債権だとか「オレ様化」だとか「大衆化」だとかいった言い方でそれを表現してくれています。
たぶん、新しい「夢」を持って生きる人にとっての毎日は現行社会との闘いだ、ということになるでしょう。なんだよそれじゃ内田氏が言ってた「リスク社会」の中のリアルファイトの競技場と同じじゃないか、と思うかもしれませんが、これもやっぱり別物じゃないかと思います。かたや、サバイバルのため他人を蹴落とし、自分が這い上がるというマジなサバイバルだが、こちらにはそのようなマジさはないと思う。現行の価値観の中での躓きはマジさがないだけに、決して大きなダメージを与えないと思うし、業績主義イデオロギー的な規範を押し付けて来るであろう社会に対して怒ることはあってもルサンチマンなんてものとは無縁です。それぞれがそれぞれのペースで多様な夢をバラバラな方向に追いかけている陽気な戦士として生きるのです。生きることはやっぱり戦いだ………でも戦い方が違うのです。
長くなりましたが最後に、 458masayaさんは、『内田氏の文章においては、オルテガの言うところの「大衆」の特質は、araikenさん言うところの「競争」システムの中にある人間のあり方を示すものとして引用されているのであって、あえて「誤読」という言葉を使いますが、araikenさんの『オルテガの言うところの「大衆」の特質は、「競争」システムを降りた人間のあり方を示すものとして引用される』という読みは、手ひどい誤読というほかありません。』とおっしゃってるのですが、この解釈にはちょっと無理があるんじゃないでしょうか?
だって内田氏自身、『階層化=大衆社会の到来』と言ってるわけで、つまり階層化の進行が大衆化につながるってことですよね。『私たちは疾くから自分たちのいるのは「大衆社会」だと思っていた。しかし、もしかすると私たちは「見通しが甘かった」のかもしれない。オルテガやニーチェが絶望的な筆致で記述した「大衆社会」は日本では「これから」始まるのかも知れない。』なんて言ってることから見ても、現在にその兆候があるにしろ階層化によって「学び」を降りた勝ち誇れる自己肯定する「オレ様」たちが増加する「これから」のことを言っている、というのがむしろ「素直」な読みに思えます。
それに内田氏が批判する「競争」は、どのみちあくまでも「学び」を降りた者たちの「分をわきまえない」競争でしかないですから、458masayaさんのおっしゃってる「競争」システムの中にある人間のあり方も、私のいう「競争」システムを降りた人間のあり方も、どちらも同じものをさしてると思います。
そもそも私は、この「大衆」という言い方を根拠や原動力にして内田氏の論理を批判しているのではなく(内田氏に疑問を抱いたのはこの言葉によってですが)、内田氏の論理に「外部」の排除という事実を感じて、そのような排除が原因でこのような不良債権化する若者の危険視=大衆化=ファシズムなんていう排除の図式を妄想的に作り上げてしまってるんじゃないかと指摘しているのだ、ということを言っておきます。
とりあえず 458masayaさんへの返答はこれで終わりですが、『数学屋のメガネ』の秀さんへの回答はもう一度ゆっくり読み直してから改めて、ということにしたいと思います。少々お時間をば………。(おわり)
「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。
こういった言葉を読むと、内田氏は一見「競争」を辛辣に批判しているように見えます。しかし前にも言いましたが、このような「競争」の加熱をクールダウンさせるはずの「分をわきまえる」という言い方は、やはり人間の優劣、つまり業績主義的な価値観を………ご自身が危険だと言っている同質的な価値観を前提としている言葉です。つまり、「競争」そのものはなくなっていないのです。
実際、学校教育を「選別」だと喝破する内田氏は、「学び」を降りるものを「オレ様化」なんていう自己評価の肥大した競争を激化させる元凶みたいな存在と見なして、「身の程を知りなさい!」なんて説教してるのですが、そもそも「学び」の現場は試験によって子供を評価する(均質的な)「競争」の現場だってことには、ご自身がよくご存知であるにもかかわらずまるでノータッチです。そして、内田氏の書いたものを読む限り「収奪メカニズム」に巻き込まれるおバカな「オレ様」たちが、身の程をわきまえなければならないその相手は、「学び」のカリキュラムを勝ち抜いて来たエリートであることは間違いないでしょう。つまり内田氏がどんなに否定し、批判しているつもりでも業績主義的イデオロギーをベースにした、価値観が同一の「競争」社会はそのまま生きているし、ご本人によってしっかり肯定されています。
実は、内田氏が否定したいのは「競争」そのものではなく、「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」だけなのです。身の程知らずな奴らが「無限の可能性」というイデオロギーに踊らされ「競争」をヒートアップさせ資本主義を暴走させるのだ。バカどもさえ何とかなれば社会は安定するのに…………ってぼやいてるだけです。バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい! ってわけです。
どうも内田氏の言い方を聞いていると、普段から問題児(不良や不登校児)に頭を悩ませ、彼らの存在を苦々しく思っている学校の先生、または先生と同じ価値観の上に立つ優等生の実感を、社会学的に敷衍するとこういう思想が出来上がるんじゃないか、と思えて来ます。たぶん内田氏は学校での「競争」、業績主義的価値観の成功物語にのっかって努力する人以外信用できず、そこから降りる人の存在が許せないのでしょう。そういう奴は行くべきところ(社会の下層)に行きなさい! 原初に「学び」を降りる者の排除ありき………これが内田氏の思想のエッセンスです。おそらく内田氏の考えを無批判に支持するのは、内田氏と似た境遇にある学校の先生や優等生、あるいはそれに近い立場の人じゃないかと私は想像します。
もし私だったら、それとは全く違う手続きで、資本主義の暴走を食い止める構想を考えます。それは簡単に言って、「競争」のベースになっている業績主義的イデオロギーから身を引き離してしまうことです。つまり、私たちの社会の中を貫き支配している業績主義の価値観をあくまでも一面的なものだと見抜き(相対化し)、そうした価値観の中の優劣のみで人間を判断することをやめ、またそうした価値観の中の序列の上位に上昇することが一面的な夢でしかないということを知ること。そのような作業をを業績主義イデオロギーの「外部」の価値観に立ち、自己肯定することで行うのです。これを私は「競争」を降りること、「競争」のベースを根っこから切り崩すことだと考えています。そうすることで、競争原理を利用し労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出すために資本によって構想されたリスク社会……すなわち資本主義の横暴を痩せ細らせるのです。
458masayaさんは、リスク社会の到来は「資本」の要請だと言った私の言葉をとらえて、『私たちは潔白である、むしろ(資本の)被害者である、という考え方です。』とおっしゃってますが、当然ながら「資本」はそもそも私たち人間が作り出したものであり、またそれを日々支えているのも私たちです。いわば私たちと「資本」は共犯関係にあって「リスク社会」の暴走を支えているといっていい。では私たちが犯人なのかといえば、今や「資本」は地球上を覆い尽くし、私たちは「資本」の中に生まれてくるようなものです。したがってこの共犯関係はある意味強いられたものですらある。だから私たちにできるのは、業績主義イデオロギーから距離をとり、競争の原理に乗らないようにして「資本」を支えているその「支え」を外してゆくことだと思うのです。そうすることで資本主義を骨抜きにしてゆくのが私の考える戦略です。
内田氏の考えが暴走する資本主義のエンジンを低速回転させることで温存するものであるとしたら、私の構想はエンジンのネジを抜き、分解して回転を止めてしまおうというものです。
もう少し詳しくいうと、業績主義イデオロギーの一面的な価値観にとらわれない多様な価値観のもとに生きることのできる社会を構想してみること。限られた椅子を争うような「価値観が同一の社会」における同質の「夢」を追求するのではなく、多様な「夢」を創出すること。内田氏の言葉でいえば「同じ生き方の格差の違い」ではなく「生き方の違い」を追求すること。なんかの歌ではないけど、ナンバーワンではなくオンリーワンであること、しかも内田氏が言ってるみたいに職業的にオンリーワンなんじゃなくて、ワクワクするような個々人それぞれの「夢」の追求にオンリーワンであることです。(内田氏の言い方では「生き方の違い」は「職業」の違いでしかありません。内田氏はきっと人と人の違いや多様性を社会的役割でしか判断できないのでしょう。)
そして、そのような社会や生き方の構想を持って現実の現行システムの中で生きてみること………そうすることで「競争」のベースになっている業績主義イデオロギーの一面的な価値観を相対化し、無力化するというのが私の考える戦略です。
なるほどさしあたって私たちが生きてゆけるのは現行システムでしかないわけで、私たちはその中で何らかの職業に就かざるを得ません。つまり業績主義的イデオロギーのもとの序列のどこかに位置しなければならないのです。ですが、私は「かけがいのない」「代替不可能な」「選ばれた」ものとして職業や労働を考えるべきではないと思います。「天職」という言い方がありますが、正直好きな言葉ではありません。むしろ「仕方なく」「イヤイヤながら」ある職業を選択している、というあり方が正しいでしょう。しかも様々な事情や運命によって職業をコロコロ変えてしまうというのも一つのやり方かもしれない。また事情が許すなら「働かない」というのも魅力的な選択肢でしょう。(そういえば内田氏のニート論が物議をかもしているようですが……。)そのような「職業」との距離の取り方は、人間が「かけがえのない」職業なんてものに特化し、社会的な機能や役割に道具的に還元されてしまうのを避けるための一つの手になるかもしれません。
一つの職業に就きながら「夢」を追求できるのなら、それはそれでバンバンザイでしょう。また職業への邁進が自分の「夢」の追求と過不足なく一致しているという幸福な人もいるかもしれない。しかし実際には、いろんな事情があって、自分の気に入らない職業を選択しているというのがむしろ常態だと思います。中には被差別的な職業に就かざるを得ない事情の人だっている。たとえば売春は立派な職業だと思いますが、売春を生業とする女性に向かって、『自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つ』べきだ、なんてやはり内田氏は言うのでしょうか。
ようするに、誰だって自分の「夢」なり「欲望」なりと、「職業」に齟齬を感じ、矛盾や不満を感じているというあり方が常態だと思うのです。役割では人間の「夢」や「欲望」を掬いきれるはずがない。職業なんてもので人間の多様性や「かけがえのなさ」を云々するのはおかしいのです。社会的機能なんてものに人間を還元してしまうのではなく、どれだけオリジナルな夢を追求できるか、すなわちどれだけ「代替不可能な」生き方の違いを追求できるか、ということで人間の価値は考えられるべきでしょう。そしてこの多様性の追求は「競争」でありうると思いますが、多様であるだけに一元的に量ることも、比較することもできない、敗者のない「競争」になるでしょう。
『数学屋のメガネ』の秀さんが語っていたエディ・タウンゼントの例をもう一度考えてみましょう。
『ボクシングのトレーナーだったエディ・タウンゼントという人は、自らがチャンピオンになれなかったという敗者の経験を積むことで、敗者の気持ちが分かる深い人間性を身につけた人だったと思う。長い目で見れば、そのような特質において、エディという人は、最終的には勝者になったのだと僕は感じる。このような勝者の道を、多くの敗者が見出すと言うことが必要なのだと思う。』
この例を内田氏の言葉で語れば、『エディはチャンピオンになるという「夢」をあきらめ「分をわきまえて」て、トレーナーという職業に就いた。しかし敗者の経験はトレーナーとしての彼の仕事ぶりに深みを持たせている。』ということになると思います。
逆に私の言い方ではこうなります。『エディは敗者となる経験を通じて、「勝ち/負け」という格差を生じさせる一面的な価値観に疑問をもち、それ以外の多様な(外部の)価値観を理解できたがゆえに深い人間性を身につけた。ノウハウがあるのでとりあえず今はトレーナーを生業にしている。』
私は現実のエディ・タウンゼントという人は知りませんから、彼の内面がどうであったかわかりません。おそらく内田氏の言い方の方がエディの内面の真実を表わしているのかもしれません。しかし私が言いたいのは、資本主義の暴走を食い止めるという文脈の中では、このようなエディの経験が「あきらめ」のプロセスである必要はないし、あってはならない、ということです。「あきらめ」である以上、この人は深い憂愁をたたえたトレーナーだという印象が拭えません。やはりチャンピオンになる「夢」はどこかに引っかかったままであり、業績主義的価値観はまだエディを支配している。挫折にともなう憂愁の影が人間臭いというかもしれませんが、やはりどこか「重い」のです。
私が望むのは、敗者になる経験を一面的な価値観から身を引きはがすためのきっかけとして逆手にとって利用してしまうことです。一面的な価値観を相対的に眺めることができるってことは、それだけで一つの深い知性であり人間性です。そのように事態を眺めることができていれば、チャンピオンになる「夢」もまた一面的な夢でしかなくなっており、エディの前にはまったくオリジナルな「夢」、「違う生き方」が広がっていると思うのです。そのような形で事態をプラスに転換してしまう………もし私が内田氏のような教育者の立場にいるとしたら、後者のような方向でこのエディや若者をアシストする知恵を授けることを考えると思います。「あきらめる」必要など何もない。むしろ新しい「夢」へと古くて狭隘な「夢」を転換してしまうことが問題なのだと思います。
資本主義の暴走を食い止める、というのであれば、ふつう「競争」のベースになっている価値観から身を引き離す、という方向へ進むのが当然だと思うのですが、内田氏の言ってることは逆に「競争」のベースとなる価値観を追認し、より深く資本主義社会にコミットすることでそれを達成しようとしているように見えます。実際にそんなことが可能なのかわからないのですが、この言い方では現行のリスク社会を追認する「働き」しかしないと思うのです。だって「リスク社会」を支える条件には何も変更がないのですから。だからこそ私は執拗に内田氏の言葉にケチをつけ、業績主義的イデオロギーから距離をとる=「競争」を降りる、という方向を提案するのです。それが暴走する資本主義のエンジンを骨抜きにしてゆく唯一の方法だと思うからです。
とはいうものの、このような新しい生き方の構想を持って現行社会の中で生きることは、経済的にも、精神的にもけっこうシンドイものであることが予想されます。「競争」に乗ってマジに努力し続けている人たちの中で、「仕方なく」「イヤイヤながら」働いてたら現行社会の中で勝者になることなんてよほどの幸運がない限り無理だと思うからです。それにそんな風にタラタラと働いてる、あるいは全く働いてないやつを「競争」に乗っかった連中が軽蔑の眼差しで見ることは間違いない。内田氏や山田氏がまさにそのような色眼鏡で「学び」を降りた人を見ていて、不良債権だとか「オレ様化」だとか「大衆化」だとかいった言い方でそれを表現してくれています。
たぶん、新しい「夢」を持って生きる人にとっての毎日は現行社会との闘いだ、ということになるでしょう。なんだよそれじゃ内田氏が言ってた「リスク社会」の中のリアルファイトの競技場と同じじゃないか、と思うかもしれませんが、これもやっぱり別物じゃないかと思います。かたや、サバイバルのため他人を蹴落とし、自分が這い上がるというマジなサバイバルだが、こちらにはそのようなマジさはないと思う。現行の価値観の中での躓きはマジさがないだけに、決して大きなダメージを与えないと思うし、業績主義イデオロギー的な規範を押し付けて来るであろう社会に対して怒ることはあってもルサンチマンなんてものとは無縁です。それぞれがそれぞれのペースで多様な夢をバラバラな方向に追いかけている陽気な戦士として生きるのです。生きることはやっぱり戦いだ………でも戦い方が違うのです。
長くなりましたが最後に、 458masayaさんは、『内田氏の文章においては、オルテガの言うところの「大衆」の特質は、araikenさん言うところの「競争」システムの中にある人間のあり方を示すものとして引用されているのであって、あえて「誤読」という言葉を使いますが、araikenさんの『オルテガの言うところの「大衆」の特質は、「競争」システムを降りた人間のあり方を示すものとして引用される』という読みは、手ひどい誤読というほかありません。』とおっしゃってるのですが、この解釈にはちょっと無理があるんじゃないでしょうか?
だって内田氏自身、『階層化=大衆社会の到来』と言ってるわけで、つまり階層化の進行が大衆化につながるってことですよね。『私たちは疾くから自分たちのいるのは「大衆社会」だと思っていた。しかし、もしかすると私たちは「見通しが甘かった」のかもしれない。オルテガやニーチェが絶望的な筆致で記述した「大衆社会」は日本では「これから」始まるのかも知れない。』なんて言ってることから見ても、現在にその兆候があるにしろ階層化によって「学び」を降りた勝ち誇れる自己肯定する「オレ様」たちが増加する「これから」のことを言っている、というのがむしろ「素直」な読みに思えます。
それに内田氏が批判する「競争」は、どのみちあくまでも「学び」を降りた者たちの「分をわきまえない」競争でしかないですから、458masayaさんのおっしゃってる「競争」システムの中にある人間のあり方も、私のいう「競争」システムを降りた人間のあり方も、どちらも同じものをさしてると思います。
そもそも私は、この「大衆」という言い方を根拠や原動力にして内田氏の論理を批判しているのではなく(内田氏に疑問を抱いたのはこの言葉によってですが)、内田氏の論理に「外部」の排除という事実を感じて、そのような排除が原因でこのような不良債権化する若者の危険視=大衆化=ファシズムなんていう排除の図式を妄想的に作り上げてしまってるんじゃないかと指摘しているのだ、ということを言っておきます。
とりあえず 458masayaさんへの返答はこれで終わりですが、『数学屋のメガネ』の秀さんへの回答はもう一度ゆっくり読み直してから改めて、ということにしたいと思います。少々お時間をば………。(おわり)
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