06.05.2005
なぜ私は内田批判をするのか その1
おそらく私たちの考え方はそれほど違うものではないにも関わらず、なんで内田樹さんの文章をこれほど異なった受け取り方をしてしまうのか、というのが『数学屋のメガネ』の秀さんが不思議に感じてることだと思います。私もこのことにはびっくりしています。しかし個人的な感想を言えば、秀さん自身の考えは内田さんよりも自分に近いなと思います。秀さんの書いたものを読むと、むしろ私と一緒に内田さんを批判してもらえないだろうか、なんて思える文章に出会うことさえあります(笑)。
ただ、秀さんの立場はたぶん458masayaさんと基本的には同じ立ち位置にあるのではないかと思うので、ひとまずは『センセー、やっぱり違うと思います!』をよく読んでもらうのが一つの答えになるとは思います。ですが「誤読」というものが秀さんの一つの関心事のようですので、それについて私から言えることは何だろうと考えてみました。
『誤読』という以上はやはり『正しい読み』というのがどこかにあるはずだ、ということだと思います。例えば内田さんが言いたかったことを、その意図通りに受け取ることができるとすれば、それは『正しい読み』に該当するということだと思います。
しかし秀さんもお気づきの通り、内田さんが使った言葉を厳密にその意図通りに私たちが理解し受け取ることはまず不可能でしょう。ある言葉を内田さんと例えば私が全く同じ意味で理解することはできない………内田さんが「学校」という言葉を使ったとして、内田さんにとっての「学校」は女子大生があふれた華やかな空間がイメージされてるかもしれないが、私にとっては友達に「いじめ」を受けた暗いイメージがまとわりついたものとして理解してしまうかもしれない………同じ経験を共有できない私たち人間にとって、ただ一つの単語ですら同一のものとは理解できないと思う。
したがって、私たちは他人の言うことを『誤読』する可能性がある、というよりも『誤読』せざるを得ない、または厳密に『正しい読み』はあり得ない、と言った方が正確だと思います。つまり私たちにできるのは、他人の言葉を自分なりに「解釈」することだけでしょう。
ですから私だったら『誤読』や発言の意図にそった「素直」な「読み」はいかにして可能か、といった問題の立て方はしません。『誤読』が『誤読』であることや、ある「読み」が本当に「素直」であるかどうかは厳密には証明できないからです。私たちが考えるべきなのは、ある『解釈』が妥当なものかどうか、を判断するくらいのことでしょう。例えば内田さんの発言についてのある『解釈』が妥当なのかどうか検討する、といったところだと思います。
内田さんの言葉一つをとってもいろいろな「解釈」があり得るとはいうものの、私と秀さん、あるいは458masayaさんのあいだにこれだけ極端な「解釈」の違いが現れているというのはやはり不思議なことであり、考えなければならない問題です。なぜこのような「解釈」の違いが生まれてしまうのか…………?
先入観、というのは確かにひとつの原因ではあるでしょう。確かに私は内田さんのニーチェ解釈をめぐって内田さんの言葉に疑惑を抱き始めました。でもそれはきっかけに過ぎず、やはり私の否定的な内田解釈を決定づけたのは、内田さんの論理のもつ矛盾です。
内田さんの論理の矛盾を突くことは、すでに458masayaさんへの回答において示したつもりです。ですがもう一度大事なところだけ抜き出すとするなら、内田さんは「競争」を批判するようなことをいいながら「競争」を肯定し、追認している、ということころです。この矛盾した内田さんのスタンスが私には正直言って理解しがたい錯誤にしか思えないのです。
内田さんの発言の意図は、リスク社会=資本主義の暴走に歯止めをかけたい、ということでした。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
この内田さんの言葉はあきらかに業績主義的な価値観に沿って行われる一元的な「競争」の批判です。このような量的格差を争う競争がヒートアップしている現状、つまり資本主義の暴走を鋭く批判しているわけです。
にもかかわらず内田さんが何も手を付けずに、ほとんど無邪気に肯定している量的格差を争う「競争」が一つだけあります。………それは学校教育です。
内田さんによると学校教育は「選別」です。確かに現実的には、教育は教え育てる機関であるというよりも、試験や通知表の数的な評価によって子供たちを格付けするものとして機能しています。そのような教育現場での評価が子供の進路、進学、就職といったことに大きな影響を及ぼすことを考えると、実社会で日々行われている(内田さんが言うところの)量的格差による自由競争は、学校の中でもう始まっていると考えることができる。まさに学校教育は量的格差による子供の「選別」です。
もし本当に内田さんが均質的な量的格差による自由競争が危険だと考えるなら、現行の学校教育に対しても批判的であって当然だと思います。しかし実際には内田さんは学校での競争を疑問視している様子はありません。のみならず「学び」の競争=均質的な格差における成功物語を降りる子供たちを「ねじれ」てると評し、享楽的でまるで居直ってるような存在と見なしてしまっている。本当に均質的な「競争」を支持しない人であれば、絶対に「学び」を降りる子供たちをこのようにネガティブに扱うことはできるはずがないと私は思うのです。
したがって内田さんが「競争」のヒートアップ=資本主義の暴走を憂いているというのはウソだ、と私は結論し、内田さんの言葉はむしろ「リスク社会」を追認する「働き」をしてしまうと主張するわけですが、そのことは横においておきましょう。
秀さんの関心はなぜ「解釈」にこれほどまで違いが現れるのか、その不思議さをもっと問いつめたいということだと思うので、秀さんの考察の参考になるかどうかわかりませんが、なぜ上で述べた内田さんの論理の矛盾点が私にとってそれほどまでに気になる点であるのか、私の経験を含めて詳しく書いてみましょう。その結果どうして私のような内田さんの文章の「読み」が生じて来たのかの理解の糸口になるかもしれないからです。秀さん自身の考察もどんどん続いているようなので、話題がかぶってしまうかもしれないのですが、先に私の内田解釈の前提みたいなものを知っておいてもらうのは、意味があるんじゃないかと思います。(その2へ続く)
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ただ、秀さんの立場はたぶん458masayaさんと基本的には同じ立ち位置にあるのではないかと思うので、ひとまずは『センセー、やっぱり違うと思います!』をよく読んでもらうのが一つの答えになるとは思います。ですが「誤読」というものが秀さんの一つの関心事のようですので、それについて私から言えることは何だろうと考えてみました。
『誤読』という以上はやはり『正しい読み』というのがどこかにあるはずだ、ということだと思います。例えば内田さんが言いたかったことを、その意図通りに受け取ることができるとすれば、それは『正しい読み』に該当するということだと思います。
しかし秀さんもお気づきの通り、内田さんが使った言葉を厳密にその意図通りに私たちが理解し受け取ることはまず不可能でしょう。ある言葉を内田さんと例えば私が全く同じ意味で理解することはできない………内田さんが「学校」という言葉を使ったとして、内田さんにとっての「学校」は女子大生があふれた華やかな空間がイメージされてるかもしれないが、私にとっては友達に「いじめ」を受けた暗いイメージがまとわりついたものとして理解してしまうかもしれない………同じ経験を共有できない私たち人間にとって、ただ一つの単語ですら同一のものとは理解できないと思う。
したがって、私たちは他人の言うことを『誤読』する可能性がある、というよりも『誤読』せざるを得ない、または厳密に『正しい読み』はあり得ない、と言った方が正確だと思います。つまり私たちにできるのは、他人の言葉を自分なりに「解釈」することだけでしょう。
ですから私だったら『誤読』や発言の意図にそった「素直」な「読み」はいかにして可能か、といった問題の立て方はしません。『誤読』が『誤読』であることや、ある「読み」が本当に「素直」であるかどうかは厳密には証明できないからです。私たちが考えるべきなのは、ある『解釈』が妥当なものかどうか、を判断するくらいのことでしょう。例えば内田さんの発言についてのある『解釈』が妥当なのかどうか検討する、といったところだと思います。
内田さんの言葉一つをとってもいろいろな「解釈」があり得るとはいうものの、私と秀さん、あるいは458masayaさんのあいだにこれだけ極端な「解釈」の違いが現れているというのはやはり不思議なことであり、考えなければならない問題です。なぜこのような「解釈」の違いが生まれてしまうのか…………?
先入観、というのは確かにひとつの原因ではあるでしょう。確かに私は内田さんのニーチェ解釈をめぐって内田さんの言葉に疑惑を抱き始めました。でもそれはきっかけに過ぎず、やはり私の否定的な内田解釈を決定づけたのは、内田さんの論理のもつ矛盾です。
内田さんの論理の矛盾を突くことは、すでに458masayaさんへの回答において示したつもりです。ですがもう一度大事なところだけ抜き出すとするなら、内田さんは「競争」を批判するようなことをいいながら「競争」を肯定し、追認している、ということころです。この矛盾した内田さんのスタンスが私には正直言って理解しがたい錯誤にしか思えないのです。
内田さんの発言の意図は、リスク社会=資本主義の暴走に歯止めをかけたい、ということでした。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
この内田さんの言葉はあきらかに業績主義的な価値観に沿って行われる一元的な「競争」の批判です。このような量的格差を争う競争がヒートアップしている現状、つまり資本主義の暴走を鋭く批判しているわけです。
にもかかわらず内田さんが何も手を付けずに、ほとんど無邪気に肯定している量的格差を争う「競争」が一つだけあります。………それは学校教育です。
内田さんによると学校教育は「選別」です。確かに現実的には、教育は教え育てる機関であるというよりも、試験や通知表の数的な評価によって子供たちを格付けするものとして機能しています。そのような教育現場での評価が子供の進路、進学、就職といったことに大きな影響を及ぼすことを考えると、実社会で日々行われている(内田さんが言うところの)量的格差による自由競争は、学校の中でもう始まっていると考えることができる。まさに学校教育は量的格差による子供の「選別」です。
もし本当に内田さんが均質的な量的格差による自由競争が危険だと考えるなら、現行の学校教育に対しても批判的であって当然だと思います。しかし実際には内田さんは学校での競争を疑問視している様子はありません。のみならず「学び」の競争=均質的な格差における成功物語を降りる子供たちを「ねじれ」てると評し、享楽的でまるで居直ってるような存在と見なしてしまっている。本当に均質的な「競争」を支持しない人であれば、絶対に「学び」を降りる子供たちをこのようにネガティブに扱うことはできるはずがないと私は思うのです。
したがって内田さんが「競争」のヒートアップ=資本主義の暴走を憂いているというのはウソだ、と私は結論し、内田さんの言葉はむしろ「リスク社会」を追認する「働き」をしてしまうと主張するわけですが、そのことは横においておきましょう。
秀さんの関心はなぜ「解釈」にこれほどまで違いが現れるのか、その不思議さをもっと問いつめたいということだと思うので、秀さんの考察の参考になるかどうかわかりませんが、なぜ上で述べた内田さんの論理の矛盾点が私にとってそれほどまでに気になる点であるのか、私の経験を含めて詳しく書いてみましょう。その結果どうして私のような内田さんの文章の「読み」が生じて来たのかの理解の糸口になるかもしれないからです。秀さん自身の考察もどんどん続いているようなので、話題がかぶってしまうかもしれないのですが、先に私の内田解釈の前提みたいなものを知っておいてもらうのは、意味があるんじゃないかと思います。(その2へ続く)
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