06.15.2005
「居直り」という問題 その1
きはむさんにちょっと面白い意見( 『araikenさんの内田氏批判再考』および『「外部」を志向することの困難』)をもらって、紹介された宮台真司氏の本を読んでみたのだけれど、想像以上に言ってることが難しくて、これでは相当じっくり読まなければ宮台氏について何かを言うことはできないと思った。だからとりあえず宮台氏のことはおいておくことにして、まずはきはむさんが言ってた「外部を志向することの困難」ってことにしぼって私の思うところを語ってみようと思う。
きはむさんは、内田樹氏、佐藤俊樹氏、そして宮台氏に共通の問題意識として、「居直り」にたいする警鐘の意識があるのではないかということを指摘してくれた。それはつまり、いたずらに支配的価値観の「外部」を強調することで、価値観を相対化するという態度は、「なんでもあり」の自己正当化=自己肯定に陥っているってことじゃないか…ということで、おそらく内田氏の言葉の背後にもこのことに対して警鐘を鳴らそうという意識があるのだろうと、きはむさんは言っている。
なるほど、そんなふうにも読めるのか………確かにこの「居直り」の感覚はわかるような気がする。「すべては許されている」わけだから、何しようと勝手じゃないか………といった具合に卑怯な開き直りによってあらゆる面倒なことを放棄してしまっているような状態を想像する。
で、宮台氏が言いたいのは、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル思想などの左翼思想が、安易に価値の相対化を行うことはまた、ネオコンと呼ばれる右翼の「居直り」的主張の土台にもなっている、ということらしい。ひとことでいえば、安易に「外部」を強調するのは逆に反動的であり危険だ、ということだろうか。
きはむさんによると宮台氏の言い方はこのようなものである。
『我々にとっての「外部」は、所詮「内部から見た外部」すなわち「外部という内部」であって、実際の外部環境を把握することは叶わない。自分に属さないものとして観察された外部は、自分の観察による構成物であり、「内外差異という内部」に過ぎない。近代の「外部」など夢想に過ぎず、あるとしてもそれは近代の徹底後に見えてくるものであって、現今で近代の「外部」を叫ぶのは愚行である。』
つまり「外部」なんて所詮幻想なのであり、そんなものについて語っても意味はない、ということらしい。このことを宮台氏はあちこちで言ってるみたいだ。
確かにもっともらしく聞こえる言い方だ。でもこの言い方を聞いていてすぐに浮かんでくる疑問は、宮台氏の言うところの「近代の徹底」は一体何と比較して測られるのだろう、ということだ。近代化がどれだけ徹底しているかなんてことは、近代以前や近代の徹底後といった「外部」の比較対象なしに決定づけることができるものなのだろうか? それに宮台氏は「近代を支えている諸概念は必要な虚構である」と言ってるようだが、例えば近代的主体が虚構であることを知るためには、やはり近代的主体以外の人間のあり方という「外部」のポイントが必要だったのではないだろうか? そういうポイントなしに近代的主体性の虚構性を暴けるとは思えない。………つまり宮台氏は「夢想に過ぎない」だなんて言ってる「外部」を用いた思考をすでに行使しているのじゃないか?
「外部」なんてものは言葉でしかない。「内部から見た外部」であり単なる頭の中の構成物に過ぎない。………あたりまえのことだ。かといって全く問題にならないわけではない………。私たちは頭の中に「外部」を措定することではじめて自分が生きている現実に没入している状態から身を引き離し一歩距離をとることができるのだ。
たとえばマルクスは資本主義的生産様式の性質を認識するのに、歴史的に資本主義以前の社会と、資本主義以降にありうべき共産主義社会という「外部」を対立させて分析をした。またフロイトは意識というものを解明するのに無意識という「外部」を対立させて語ることをもってした。「共産主義社会」にしろ「無意識」にしろ所詮は「言葉」に過ぎず、「夢想」であり、「外部という内部」に過ぎない。が、それは現実を認識するための装置として有効に働いているわけだ。
つまり自分の目の前にある現実は、その他の様々な形で、別様にあり得たという可能性を排除することで成り立っているという事実を暴きだすために、私たちは現実から一歩引き下がることをしなければならない。「外部」をめぐる思考とはそのために行われるプロセスである。
マルクスやフロイトだけではない。時代は下って構造主義やおそらく宮台氏が述べているカルスタ、ポスコロなどもそのような思考のプロセスなのではないだろうか(詳しいことは知らないけど……)。
他ならぬ内田樹氏が構造主義についてこう書いている。
『私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分で判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。』(『寝ながら学べる構造主義』)
これを読むと(構造主義についてはほとんど何も知らないので、たぶん、なんだけど)「なんだよー、内田先生わかってるじゃん!」って言いたくなってしまう。たとえばレヴィ=ストロースの仕事は、未開文化のあり方という文化人類学的「外部」から近代社会を照射する試みなのだろうし、フーコーもたとえば「狂気」を「外部」へと排除することで近代社会が成り立っているというメカニズムを暴きだしているわけだ。
つまり、近代の外部がどこかにあるとか、そのような外部に抜け出すことができるとかそういうことを彼らは言いたいのではないはずだ。そうではなくて、目の前の現実に没入してしまっていては「見えてこない」「感じることができない」「考えることのできない」ことを意識化し、思索の主題にさせるために「外部」についての思考が必要なのだ。宮台氏だって「近代の徹底後にしか「外部」は見えてこない」なんて言ってるってことは、どう考えたって「近代」を「近代以外の何か」(つまり近代の外部と)と対立的に考えてるのだし、そうしなければ宮台氏の思考も展開させようがなかったはずだ。だからそういう思考の手続き自体は正当なものであって、なんら愚行にはあたらないと思う。
じゃあ、宮台氏は何だってこんなこと言ってるんだろう? ようするに左翼側からの批判に答える必要があって、「外部」なんて言い方をして「居直り」を決め込む奴ら(馬鹿左翼)を攻撃しなければならなかったってことだろう。つまり「外部」についての思考を都合よく利用して自己正当化するネオコンや左翼がいるってことを、きっと宮台氏は言いたいのだろう。それだったらわかるような気がする。だけど、それなら「外部」を問題にするのが間違いなんじゃなくて、「外部」をめぐる思考の使い方、関わり方に問題があるってことではないかと思うのだが………。
それにしてもここで言われている「居直る」っているのはどういうことなんだろう。………「外部」を措定することで、支配的であった価値観(現行のゲームのルール)を相対化し、それ以外のありうべき価値観(別のゲームのルール)の上にふんぞり返って、今までのっかってきたゲームのルールに無効を宣言している状態ってことだろうか。「なんでもあり」なのだとすれば、いままでのゲームのルールにおいて「負け」てしまって苦しめられてきた自分をそこから解放させることができ、自分に都合の良い全く別のルールに自分をのせてしまえば、「勝ち」に転換できるってことだ………。
だが考えるまでもなくそのような「外部」や別のルールは現実に存在するわけではなく、つまり「外部と言う名の内部」でしかなく「夢想」でしかないのであって、「外部」について語っている当のご本人も現実に生きているのは近代社会であり、資本主義社会であるわけだ。だからその近代社会の中で闘ってゆく戦略を考えなくってどうする(現行のゲームのルールを離れることは不可能なのだからあくまでもそれにこだわるべきだ!)………ってことを宮台氏は言いたいのだと思う。ごもっともである。
しかし私自身の実感が「居直る」という言葉に反発を覚えさせる。「外部」を思考することで、支配的価値観への没入状態から距離をとり、価値観を相対化した人が、「居直る」とはどうしても思えないのだ。
価値観は多様なんだから「なんでもあり」なんだ、ってことは身勝手な判断をできるっていうことではなくて、反対に自分以外の多様な価値のあり方を認めるってことだ。自分は正しいはずだと開き直るのではなくて、間口を広げて可能なかぎり自分と異質な価値を受け入れようとすることだと思うのだ。つまりそれは異質さを認めたまま他者と共存することを目指すものであって、自分に都合のいい価値観の上にふんぞり返るような安易な状態だとは思えない。多様な価値のあり方(他者)を認めるということは、自分自身を絶対視しないということでもあるはずだからだ。
私たちが自律的でオルタナティブな生き方を主張するということの背後には、このように徹底的に自分の足元をも疑い、突き崩すという作業がピッタリと張り付いていなければならない。自分自身の立場だって絶対的ではなく根拠のないものだ、という認識は当然の前提である。私たちは根拠を持たず宙ぶらりんのまま生き、多様な価値とつねに出会い、いろんな角度からそれらを発見し続けるという状態が、価値を相対化し支配的価値観への没入状態から距離をとる人のあり方だと思う。だから絶対に自己肯定は「居直り」とイコールで結ばれるとは思えないのだ。
私が抱いている自己肯定のイメージはむしろ、ある一地点に腰を下ろしてしまうような呑気な「居直り」なんてものではなく、自分自身で足元を崩してしまうため、つねにジャンプしつづけなければ生きてゆけない………ちょっとシンドイけど、退屈することのない「運動状態」であり続けようとすることだろうか。それは支配的な価値観(現行のゲームのルール)からの解放ではあるが、新しいレベルでのゲームプレーヤーになるような感じだ。
もっとも宮台氏が言ってるように私たちの目の前にあるのは、現行のシステムであり、現行のゲームのルールでしかない。だから私が考えるのは、内面的なスタンスとしては新しいレベルでのゲームを遂行しつつ、生きてゆくために仕方なしに(とりあえずこれしか手元にないから)現行システムのゲームに参加する、という戦略だ。………あくまでも仕方なく、イヤイヤながら現行のゲームにつきあう、というシステムとの距離感が大切だと思う。決してそこに没入しないために………。
いずれにせよ「外部」の可能性、多様な価値のあり方を主張しながら生きるというのは決して安易なものではないのだ………「なんでもあり」であることを認めるからこそ私たちは「居直る」ことなどできないのだし、またそれだけに、一面的で「たった一つの生き方」を私たちに押し付けてくる現行の社会システムに対しては憤り、NO!と叫び、闘わざるを得ないのだ。
したがって二つの問題がここにはある。「外部」を語ることで「居直ってる」人がいるらしいこと。それと、「外部」について語る人間を「居直り」としか見なせない人がいるということ。
前者はまだまだ「甘い」人だ。本当の意味で価値の多様性をわかってるとは思えない。支配的な価値観を「外部」を利用して否定したが、自分に都合のいい価値観の上にあぐらをかいている状態なのだろう。つまり自分の足元は疑っていないのだ。が、支配的価値を疑っているということはオルタナティブなあり方への第一歩だと思う。
そして後者の方はと言えば、やはり価値の多様性を理解していないため、「外部」を語る人が現行のゲームを放棄した卑怯者としか見なせないという人だ。つまりこのような人は「外部」を語る人を「居直り」であると判断する以上、実はその軸足を支配的な価値観(つまり現行システム)の上にしっかりと置いている………やはりあくまでも現行のルールの中で勝負すべきだ、と考えているように思えるからだ。まあ、宮台氏がそうであるか今のところちょっとわからないので、コメントを差し控えるが(たぶんそうではないかと思う)、きはむさんによる問題の投げかけに答える意味で、内田氏についてしつこくも(正直もうゲンナリしてきた)この視点からもう一度分析してみよう。
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きはむさんは、内田樹氏、佐藤俊樹氏、そして宮台氏に共通の問題意識として、「居直り」にたいする警鐘の意識があるのではないかということを指摘してくれた。それはつまり、いたずらに支配的価値観の「外部」を強調することで、価値観を相対化するという態度は、「なんでもあり」の自己正当化=自己肯定に陥っているってことじゃないか…ということで、おそらく内田氏の言葉の背後にもこのことに対して警鐘を鳴らそうという意識があるのだろうと、きはむさんは言っている。
なるほど、そんなふうにも読めるのか………確かにこの「居直り」の感覚はわかるような気がする。「すべては許されている」わけだから、何しようと勝手じゃないか………といった具合に卑怯な開き直りによってあらゆる面倒なことを放棄してしまっているような状態を想像する。
で、宮台氏が言いたいのは、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル思想などの左翼思想が、安易に価値の相対化を行うことはまた、ネオコンと呼ばれる右翼の「居直り」的主張の土台にもなっている、ということらしい。ひとことでいえば、安易に「外部」を強調するのは逆に反動的であり危険だ、ということだろうか。
きはむさんによると宮台氏の言い方はこのようなものである。
『我々にとっての「外部」は、所詮「内部から見た外部」すなわち「外部という内部」であって、実際の外部環境を把握することは叶わない。自分に属さないものとして観察された外部は、自分の観察による構成物であり、「内外差異という内部」に過ぎない。近代の「外部」など夢想に過ぎず、あるとしてもそれは近代の徹底後に見えてくるものであって、現今で近代の「外部」を叫ぶのは愚行である。』
つまり「外部」なんて所詮幻想なのであり、そんなものについて語っても意味はない、ということらしい。このことを宮台氏はあちこちで言ってるみたいだ。
確かにもっともらしく聞こえる言い方だ。でもこの言い方を聞いていてすぐに浮かんでくる疑問は、宮台氏の言うところの「近代の徹底」は一体何と比較して測られるのだろう、ということだ。近代化がどれだけ徹底しているかなんてことは、近代以前や近代の徹底後といった「外部」の比較対象なしに決定づけることができるものなのだろうか? それに宮台氏は「近代を支えている諸概念は必要な虚構である」と言ってるようだが、例えば近代的主体が虚構であることを知るためには、やはり近代的主体以外の人間のあり方という「外部」のポイントが必要だったのではないだろうか? そういうポイントなしに近代的主体性の虚構性を暴けるとは思えない。………つまり宮台氏は「夢想に過ぎない」だなんて言ってる「外部」を用いた思考をすでに行使しているのじゃないか?
「外部」なんてものは言葉でしかない。「内部から見た外部」であり単なる頭の中の構成物に過ぎない。………あたりまえのことだ。かといって全く問題にならないわけではない………。私たちは頭の中に「外部」を措定することではじめて自分が生きている現実に没入している状態から身を引き離し一歩距離をとることができるのだ。
たとえばマルクスは資本主義的生産様式の性質を認識するのに、歴史的に資本主義以前の社会と、資本主義以降にありうべき共産主義社会という「外部」を対立させて分析をした。またフロイトは意識というものを解明するのに無意識という「外部」を対立させて語ることをもってした。「共産主義社会」にしろ「無意識」にしろ所詮は「言葉」に過ぎず、「夢想」であり、「外部という内部」に過ぎない。が、それは現実を認識するための装置として有効に働いているわけだ。
つまり自分の目の前にある現実は、その他の様々な形で、別様にあり得たという可能性を排除することで成り立っているという事実を暴きだすために、私たちは現実から一歩引き下がることをしなければならない。「外部」をめぐる思考とはそのために行われるプロセスである。
マルクスやフロイトだけではない。時代は下って構造主義やおそらく宮台氏が述べているカルスタ、ポスコロなどもそのような思考のプロセスなのではないだろうか(詳しいことは知らないけど……)。
他ならぬ内田樹氏が構造主義についてこう書いている。
『私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分で判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。』(『寝ながら学べる構造主義』)
これを読むと(構造主義についてはほとんど何も知らないので、たぶん、なんだけど)「なんだよー、内田先生わかってるじゃん!」って言いたくなってしまう。たとえばレヴィ=ストロースの仕事は、未開文化のあり方という文化人類学的「外部」から近代社会を照射する試みなのだろうし、フーコーもたとえば「狂気」を「外部」へと排除することで近代社会が成り立っているというメカニズムを暴きだしているわけだ。
つまり、近代の外部がどこかにあるとか、そのような外部に抜け出すことができるとかそういうことを彼らは言いたいのではないはずだ。そうではなくて、目の前の現実に没入してしまっていては「見えてこない」「感じることができない」「考えることのできない」ことを意識化し、思索の主題にさせるために「外部」についての思考が必要なのだ。宮台氏だって「近代の徹底後にしか「外部」は見えてこない」なんて言ってるってことは、どう考えたって「近代」を「近代以外の何か」(つまり近代の外部と)と対立的に考えてるのだし、そうしなければ宮台氏の思考も展開させようがなかったはずだ。だからそういう思考の手続き自体は正当なものであって、なんら愚行にはあたらないと思う。
じゃあ、宮台氏は何だってこんなこと言ってるんだろう? ようするに左翼側からの批判に答える必要があって、「外部」なんて言い方をして「居直り」を決め込む奴ら(馬鹿左翼)を攻撃しなければならなかったってことだろう。つまり「外部」についての思考を都合よく利用して自己正当化するネオコンや左翼がいるってことを、きっと宮台氏は言いたいのだろう。それだったらわかるような気がする。だけど、それなら「外部」を問題にするのが間違いなんじゃなくて、「外部」をめぐる思考の使い方、関わり方に問題があるってことではないかと思うのだが………。
それにしてもここで言われている「居直る」っているのはどういうことなんだろう。………「外部」を措定することで、支配的であった価値観(現行のゲームのルール)を相対化し、それ以外のありうべき価値観(別のゲームのルール)の上にふんぞり返って、今までのっかってきたゲームのルールに無効を宣言している状態ってことだろうか。「なんでもあり」なのだとすれば、いままでのゲームのルールにおいて「負け」てしまって苦しめられてきた自分をそこから解放させることができ、自分に都合の良い全く別のルールに自分をのせてしまえば、「勝ち」に転換できるってことだ………。
だが考えるまでもなくそのような「外部」や別のルールは現実に存在するわけではなく、つまり「外部と言う名の内部」でしかなく「夢想」でしかないのであって、「外部」について語っている当のご本人も現実に生きているのは近代社会であり、資本主義社会であるわけだ。だからその近代社会の中で闘ってゆく戦略を考えなくってどうする(現行のゲームのルールを離れることは不可能なのだからあくまでもそれにこだわるべきだ!)………ってことを宮台氏は言いたいのだと思う。ごもっともである。
しかし私自身の実感が「居直る」という言葉に反発を覚えさせる。「外部」を思考することで、支配的価値観への没入状態から距離をとり、価値観を相対化した人が、「居直る」とはどうしても思えないのだ。
価値観は多様なんだから「なんでもあり」なんだ、ってことは身勝手な判断をできるっていうことではなくて、反対に自分以外の多様な価値のあり方を認めるってことだ。自分は正しいはずだと開き直るのではなくて、間口を広げて可能なかぎり自分と異質な価値を受け入れようとすることだと思うのだ。つまりそれは異質さを認めたまま他者と共存することを目指すものであって、自分に都合のいい価値観の上にふんぞり返るような安易な状態だとは思えない。多様な価値のあり方(他者)を認めるということは、自分自身を絶対視しないということでもあるはずだからだ。
私たちが自律的でオルタナティブな生き方を主張するということの背後には、このように徹底的に自分の足元をも疑い、突き崩すという作業がピッタリと張り付いていなければならない。自分自身の立場だって絶対的ではなく根拠のないものだ、という認識は当然の前提である。私たちは根拠を持たず宙ぶらりんのまま生き、多様な価値とつねに出会い、いろんな角度からそれらを発見し続けるという状態が、価値を相対化し支配的価値観への没入状態から距離をとる人のあり方だと思う。だから絶対に自己肯定は「居直り」とイコールで結ばれるとは思えないのだ。
私が抱いている自己肯定のイメージはむしろ、ある一地点に腰を下ろしてしまうような呑気な「居直り」なんてものではなく、自分自身で足元を崩してしまうため、つねにジャンプしつづけなければ生きてゆけない………ちょっとシンドイけど、退屈することのない「運動状態」であり続けようとすることだろうか。それは支配的な価値観(現行のゲームのルール)からの解放ではあるが、新しいレベルでのゲームプレーヤーになるような感じだ。
もっとも宮台氏が言ってるように私たちの目の前にあるのは、現行のシステムであり、現行のゲームのルールでしかない。だから私が考えるのは、内面的なスタンスとしては新しいレベルでのゲームを遂行しつつ、生きてゆくために仕方なしに(とりあえずこれしか手元にないから)現行システムのゲームに参加する、という戦略だ。………あくまでも仕方なく、イヤイヤながら現行のゲームにつきあう、というシステムとの距離感が大切だと思う。決してそこに没入しないために………。
いずれにせよ「外部」の可能性、多様な価値のあり方を主張しながら生きるというのは決して安易なものではないのだ………「なんでもあり」であることを認めるからこそ私たちは「居直る」ことなどできないのだし、またそれだけに、一面的で「たった一つの生き方」を私たちに押し付けてくる現行の社会システムに対しては憤り、NO!と叫び、闘わざるを得ないのだ。
したがって二つの問題がここにはある。「外部」を語ることで「居直ってる」人がいるらしいこと。それと、「外部」について語る人間を「居直り」としか見なせない人がいるということ。
前者はまだまだ「甘い」人だ。本当の意味で価値の多様性をわかってるとは思えない。支配的な価値観を「外部」を利用して否定したが、自分に都合のいい価値観の上にあぐらをかいている状態なのだろう。つまり自分の足元は疑っていないのだ。が、支配的価値を疑っているということはオルタナティブなあり方への第一歩だと思う。
そして後者の方はと言えば、やはり価値の多様性を理解していないため、「外部」を語る人が現行のゲームを放棄した卑怯者としか見なせないという人だ。つまりこのような人は「外部」を語る人を「居直り」であると判断する以上、実はその軸足を支配的な価値観(つまり現行システム)の上にしっかりと置いている………やはりあくまでも現行のルールの中で勝負すべきだ、と考えているように思えるからだ。まあ、宮台氏がそうであるか今のところちょっとわからないので、コメントを差し控えるが(たぶんそうではないかと思う)、きはむさんによる問題の投げかけに答える意味で、内田氏についてしつこくも(正直もうゲンナリしてきた)この視点からもう一度分析してみよう。
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