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「居直り」という問題 その2

 『私には、内田氏は、佐藤氏が指摘している構造を問題とする意識から議論を展開しているように思われる。つまり、山田氏や苅谷氏が日本の格差社会化を告発すればするほど、不平等はあたりまえのものとして自明化され、抗いようのないものとして認識されてしまう。そして、人々は自らの失敗を「社会のせいだから仕方ない」として居直り=自己肯定を決め込んでしまうのである。思うに、内田氏はこの状況に焦っている。
ひどく単純化すれば、内田氏がまず言いたいことはこの言葉に集約されるのではないか。すなわち、「社会のせいにするな!」、である。』


 ………以上がきはむさんによる内田氏の問題意識だ。つまり内田氏は『自らの失敗を「社会のせいだから仕方ない」として居直り=自己肯定を決め込んでしまう』やつらが、地道な努力を放棄し、肥大化した「自己評価」や現実離れした「夢」に踊らされ均質的な自由競争をヒートアップさせ、資本主義を暴走させるのだとして「焦っている」ということになる。さらに、きはむさんによると………

 『そこで、内田氏が提示する処方箋が「断念」である。すなわち、過大な夢をあきらめさせ、過大な自己評価を下方修正させる作業を重視せよ、とのことだ。なぜ「断念」が上述の問題への処方箋となるのか。それは、「断念」の性質が、社会ではなく自分自身に責を求めざるを得ないものだからであろう。
自らの「失敗」を社会のせいにできる限り、彼は何度でも同じ過ちを繰り返し、何度でも搾取されるであろう。しかし、一旦自責的「断念」によって自己の能力を社会の中に位置づけた人間は、同じ「失敗」を繰り返すことは無いであろうし、自らの分をわきまえた適度なコミットメントを継続することが予想される。
さらに内田氏は、中間共同体の復興を言うことで、araikenさんが強調する業績主義的・競争社会的価値の「外部」的価値を社会に内部化しようと試みる。つまり、「断念」によって自らの価値の実現を限定せざるを得なかった人々を中間共同体に包摂することで、代替的充足を提供しようとする。これによって、夢をあきらめさせられた人々はその心理的欠落感を埋めるのである。 』


 これはたぶん内田氏自身が言いたいことの的確な理解だと思う。このように分析しながらも、きはむさん自身は内田氏の戦略には同意しない。もちろん私も何度も書いてきたように「断念」の処方箋には賛成できない。………が、私はそれ以前に言いたいことがある。

 内田氏はこう言っていた。

 『自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。』


 量的な格差が前景化する均質的社会は危険だと………。だから自由競争を「断念」せよ、………と。だけど内田氏は学校教育という「競争」に対してはまるで批判的な態度はとっていない。学校での競争の結果はあからさまに子供の将来に影響を及ぼす。つまり学校における競争は実社会で行われる競争に直結している。つまり学校教育における競争もまた「危険な」量的格差を争う競争であるはずだ。
 だったら、いっそのこと学校における「学び」(競争)も「断念」させてしまったらどうだろうか? そんなに均質的な競争が危険なものであるのなら………。学校における競争を断念させるのであれば、当然「学び」(競争)を降りる子供たちは、「ねじれ」には該当しなくなると思うのだが………。むしろ子供たちには「学びからの逃走」を積極的に勧めるべきではないのか。………が、もちろん内田氏にそのような発想はない。
 ようするに内田氏は自分が身をもって肯定し、そこを勝ち抜いてきた学校教育という名の量的格差を競う競争だけはイノセントなものだと見なしているのだ。それとも量的格差を争う「競争」の中にも良い「競争」と悪い「競争」があるとでもいうのだろうか? 

 『しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。』


 この内田氏の言葉をきはむさんは………

 『「外部」の価値に旅立ったはずの若者が、資本主義社会の内部で搾取されている。内部に位置する産業が、「外部」の価値を持ち上げることによって、甘い蜜を吸っている。ここには「外部」などなく、オンリーワンの価値を追求しているはずだった若者は、陳腐な内部で踊らされているだけではないか。 .....
 内田氏の問題意識にはこうした視点が埋め込まれているのではないかと思う。』


 ………と解釈している。だが、私だったら全く違う解釈をする。
 たぶん内田氏はそもそも『教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない』連中を許せないのだ。つまり内田氏はわがままに自己肯定する「オレ様」たちを………内田氏が身をもって肯定してきたところの、また今現在も役割としている「教育」という名の「選別」作業を受け入れない連中の存在を、どうしても認めたくないのだ。なぜなら内田氏はたった一つの「生き方」、たったひとつのゲームのルールしか認めてないし、知らないからだ(学問としては知っているようだが、内田氏に生き方のは反映していない……)。認めているのはまさに現行のシステム………競争によってドライブされる資本主義社会に適合した「生き方」だけである。学校教育とはまさに現行システムに適合するように人間を「成型」することと、適切に人間を配置するための「選別」を使命としている。内田氏にはそこから逃走する人間たち(子供、若者)が理解しがたいルール違反に思えてならないのではないかと思う。
 だから、本当いうと内田さんは『自己を過大評価する「夢見る」若者たち』がクリエイティヴ業界に収奪されようと何されようとどうでもいいのだと思う。じゃあ何のために上のような発言をしてるかというと、わがままな「オレ様」たちを悪者に仕立て上げたいからだ。こういう『教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない』連中がたくさんいるから、そしてバカどもが競争に踊らされるから、資本主義の暴走に拍車がかかるのだ!………という具合に「オレ様」たちを諸悪の根源として吊るし上げたいのだ。
 だって、資本主義社会の内部にいる以上、誰だって搾取され、収奪されるはずだろう。自己を過大評価した「オレ様」たちだけじゃなく、「学び」をこなし、大学を卒業した学生だって、(起業して搾り取る側に回れば別だが)就職してサラリーマンになればどのみち搾取され、激しい競争に巻き込まれるのだ。「外部」にいようと「内部」にいようと、オンリーワンを追求しようと、ナンバーワンを追求しようと私たちはみな基本的には収奪される運命にあるのだ。
 しかし内田氏のマジックはここでも見事に発揮され、まるで「外部」に「居直った」自己肯定する「オレ様」のせいで資本主義の暴走がヒートアップしているかのように事態を捏造する。しかもクリエイティヴ産業の横暴を責めるようなふりをしながらそうしている。…………本当は資本主義の暴走を糾弾する気なんかこれっぽっちもないくせに………である。
 『量的格差だけが前景化する均質化社会は危険だ』なんて言って「競争」を批判するそぶりを見せたってダメなのだ。内田氏の足もとの学校教育が「成型」であり「選別」であり「量的格差を争う競争」であるにもかかわらず、それを肯定していることからも内田氏の立場は明らかなのだ。
 内田氏がそのような立場を取ることはもちろんかまわない。しかしまるでそうではないようなそぶりを見せながらそうするというのが、イヤラシイのである。以前書いたことだが、『自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。』なんて言って、「生き方の違い」というオルタナティブな人間のあり方をちらつかせながら、人間の生き方の多様性を社会的機能(職業)の多様性へとすり替える………こういうやり方が気に食わないのである。
 その結果、「居直り」を決め込む「オレ様」に内田氏が求めるのは「断念」とそれによる社会的機能への定着だ。こうすることで、内田氏はやっと安心できるのだ。「オレ様」たちが「かけがえのない」「とりかえのきかない」社会的機能に還元されることで、現行システムのルールに背くことのない「たった一つの生き方」がようやく実現するからだ。
 あとは社会的機能にどうしても還元できないニートや引きこもりをなんとかしなければ………。どうやったら彼らは現行システムのルールに乗ってくれるのだろう? これを考えるのが内田氏の次のミッションになるってわけだ。

 だから内田氏には、きはむさんが言ってた「居直り」に対する警鐘を打ち鳴らしているという「問題意識の埋め込み」はたぶんないと思う。ウチダマジックに騙されてる限りにおいてそう見えるだけの話だ。内田さんにある問題意識は、「居直り」や資本主義の暴走への焦りなどではなく、ルールを逸脱する者の「排除」である。
 「社会のせいにするな!」………なるほど、ごもっともである。だけどそのあとここで内田氏が言ってるのは「お前らのせいだ!」ってことでしかない。つまりこれ、自分自身が身をもって肯定してきた「競争」は棚に上げておいて、それ以外の「競争」を告発するという形の、最悪の部類にはいるオヤジの「説教」だと言っていいだろう。
 ふつう、「社会のせいにするな!」のあとには「オレたちみんなのせいなのだ!」って言葉が続きそうなものである。つまり、資本主義の暴走(リスク社会)を支えているのは私たち自身なのだという具合に、私たち自身が共犯者になってしまっているそのカラクリを暴きだし、自分自身の足元を疑い、係争に投げ入れ、いかにしてその支えを外してゆくかを考えるという方向に進むべきだと思う。だがそうはせずに魔女狩りのごとく「学びから逃走するオレ様」を吊るし上げ、説教をかますのが内田氏のやり方である。そしてその排除は(成型であり選別であるところの)学校教育のイノセント化(浄化)とパラレルな過程である。つまり現在学校教育に携わっていて、かつ学校教育を勝ち抜いてきたエリートである内田氏ご本人もイノセントだ、という議論を「お前たちのせいだ!」という言い方でなさっているのである。
 「生き方の違い」を語ってはいるが、間違いなく内田氏は現行のゲームのルールに乗ろうとしない(違う生き方の)存在を認めたくない………つまり資本主義社会に適合する「生き方」しか認めていないのである。多様性、すなわち「外部」への視線は全くないのである。そのような視線は、現行のゲームのルールを逸脱し、ほかのゲームのルールに則って生きようとする人を、極端な話、人間扱いできない。卑怯な「なんでもあり」の「ねじれ」た「居直り」野郎にしか見えないのである。実際に居直っていようが、またはオルタナティブに生きていようが関係なく、現行のルールを外れる者は人間じゃないのである。だからそういう人に対して「諦めろ!」とか「身の程を知れ!」なんてことも平気で言えるのだと思う(まさしく人非人扱いだ!)。このあたりが内田氏による「ねじれ」だとか「勝ち誇れる自己肯定」とか「肥大した自己評価」とか「居直り」なんて言う言葉の由来である。そこにあるのは多様性を認めることのない秘められた原初の「排除」という事実である。それはオルタナティブへの志向を持つ人であれば可能なかぎり、いや絶対に避けなければならないことである。

 で、何度も繰り返してきたことをもう一度言うと、これらの内田氏の議論は資本主義社会と業績主義による一元的な「競争」によってドライブされる「リスク社会」を、「学び」から逃走する子供や若者たち(すなわちオレ様)をスケープゴートに仕立て上げることによって、結果的にはイノセントなものにしようという議論にしかなり得ないだろう、ということだ。
 きはむさんもオルタナティブな人間や社会のあり方を志向しているということなので、ある意味私と似た者同士なんだと思う。でも内田氏は全く別の陣営に属する人だ。オルタナティブ陣営にまぎれこむバックパサーなのである。現代思想を研究し、何か「違う生き方」を示してくれているのかと思いきや、びっくりするほど「おじさん」的で保守的なパス回しを展開し、私たちと一緒になって相手チームと戦ってると見せかけて、敵のFWにこっそりとバックパスを出してアシストするのである。やっぱりsavidさんが言ってたように内田氏は新自由主義陣営の最凶の刺客なのかもしれない。

00:49 | 思想など | comments (6) | trackbacks (0) | page top↑