06.24.2005
内田批判のまとめ
ここしばらく内田樹氏のブログのエントリーへの批判を書き連ねてきた。私は内田氏についてはほとんど知らないし、何の利害もなく、とりたてて本人に対して何の感情も抱いていない。たまたま読む機会のあった内田氏のエントリーがどうにも納得のいかないものだった、というのが批判の直接の理由だ。ついでに言えば、私には納得のいかない論を展開している内田氏を持ち上げている人がけっこう多いのが驚きだった。だからこそ、あえていじわるな言い方で内田氏の言葉に現れている矛盾と思われる点ををあげつらって、「こんなこと言わせといていいの?」と、アピールしてきたのだ。はっきり言って私は内田氏には関心もない。しかも私など影響力のある立場にいる内田氏に比べて一介の無力な存在である。ただ、明らかなインチキに対して一矢を報いておきたい、そう思ったのだ。
しかし、言いたいことは言い尽くしたかなとも思う。自分でも内田批判に少々げんなりしてきた。だからそろそろまとめにはいろうと思う。
私が言いたいことは実に単純なことなのだ。内田氏の言葉には矛盾があり、その矛盾ゆえに内田氏に賛同する人のように素直にその言葉を受け取るわけにはいかない、ということだ。私は論理学や数学の素養などまったくないのだが、一読して内田氏の言葉に矛盾を感じた。不思議なのはこの矛盾を前にしてみなさんどうして内田氏の言葉に疑惑を抱かないのだろうってことだ。内田氏の肩を持つ人がいっぱいいるのを見るにつけそう思う。
もう詳しくは書かないが、内田氏は均質的な量的な格差を競う競争社会を資本主義を暴走させるため「危険」だとする。そしてそのような事態に対して「生き方の多様性」を唱えているにもかかわらず、試験による量的な格差によって夢を下方修正することで、若者を選別する学校教育の「学び」の過程を無条件的に肯定している。
というのも、何らかの理由で「学び」から逃走する者を「ねじれ」とか「オレ様化」とかいって、ネガティブな評価を下しているからだ。ということは逆に「学び」の過程をこなすものは「ねじれ」ていないポジティブな存在だということになり、内田氏自身、学校教育を身をもって価値的に肯定していることになる。そうでなければ、「学び」から逃走する者を「ねじれ」扱いできるはずがないからだ。
これが私には見逃すことなどできないとんでもない矛盾にしか思えないのだが、内田氏の肩を持つ人たちはそうではないのだろうか? 多様性を語りながら多様性を認めていないのである。いってみれば異文化交流を唱えながら外国人差別をしてるようなものだ。
量的格差を争う競争が危険だというのなら、学校教育のメカニズムにも批判的であるべきだろうし、生き方の多様性を唱えるのであれば、「学び」を降りる者をもポジティブな存在として認めるべきだ。それが、不登校であろうと、引きこもりであろうと、怠け者であろうと、不良であろうと、享楽的であろうともである。多様性を認めるということは、そのような形で人間を排除したり差別したりしないことではないのだろうか。それができてないということは、内田氏は単なる「ウソつき」じゃん……って思うのだ。
私の批判のやり方を見て「極端な二項対立への性向がある」なんて言ってる人がいるが、そんなこと言う前に内田氏の二項対立を指摘してあげたほうがいいのではないか? 若者たちを、真面目に学ぶ若者/学びを降り「ねじれ」た若者、という二項に分節しそのうち一方を他方を貶めることで評価するという典型的な二項対立の思考を披露しているようだが………。しかも「ねじれ」た若者の性格は「勝ち誇れる自己肯定」とか「バカ」なんて言われて社会不安の元凶にされ、あげくの果てにはファシズムにまで結びつけられている。内田氏はそれほどまでに「学び」の選別/自己評価の下方修正を受け入れない輩が気に食わないのである。
内田氏の考えの背後に、どんな理路があり、どんな問題意識の埋め込みがあるのかは知らないが、こういうインチキを見せられると、誰だって素直にその人の言うことを聞く気にはなれなくなるんじゃないだろうか。どんな戦略的思考があるったって、多様な人間の生き方を主張するために、あえて排除や差別を行うっていう戦略なんて普通あり得ないだろう。
内田氏があからさまに現行体制に有利なように世論を導くような意図を持ってこのような発言をしているとは考えたくないので、たぶん不幸にも「多様性」という言葉の意味を、わかってらっしゃらないのだ………そのために内田氏はこんな思考の隘路に陥ってしまったのに違いないと、私は考えている。
だから本当のところ、内田氏にとって多様な生き方とか、資本主義の暴走なんてのはどうでもいいことなんだろうと思う。 この社会の居心地の悪さの原因をどこかに求めたいという動機があって、それを普段から苦々しく思ってる「学びから逃走する若者たち」におっかぶせたい、というのが内田氏の思考のアルファでありオメガなのだ。
逆に言うと内田氏は、そうやって若者たちを諸悪の根源へと仕立て上げなければならないほどに、現行の「リスク社会」は居心地の悪い非情なシステムなのだってことを、回りくどいかたちで証明してくれている、とも言える。
もちろん私自身も資本主義の暴走は大問題だと思うのだ。しかし激しい競争がそれを引き起こしているなら、競争のベースになっている業績主義的価値観の専制を無効にするのが正しいやり方なのではないか?(内田氏は「学びから逃走する若者たち」が競争を激化させる」張本人であるかのように事態を捏造しているが………。)そのためには、業績主義的価値観の専制によって押しつぶされている多様でオルタナティブな価値観を救い出し、育てるべきだ。そのためにこそ「生き方の多様性」を認めることが必要なのだ。排除や差別をすることではなく、ましてや二項対立的な思考に陥ることなく………である。
生き方の多様性を認めるってことは決して楽なことじゃない。「居直り」なんていうイージーな状態ではあり得ないと思う。多様性を認める人はつねに心を可能なかぎりオープンな状態にして、外から訪れる他者をそのまま受け入れなければならない。たとえそれが外国人であろうと、犯罪者や狂人であろうともだ。考えてみるとそんなこと自分にもできるかどうかわからない………尻尾巻いて逃げ出してしまうのかもしれないが、自分が耐えられるかぎりそのような他者を前もって排除することなく受け入れるというのが、多様性を認めるってことだ。
そしてそのことはつねに自分自身の足元をぐらつかせる作業でもある。自分の足元すら絶対ではない、と認識させてくれるのが多様性や他者との出会いだからだ。だから自分の足元の上にあぐらをかいているような「居直り」状態は、「生き方の多様性」を求める人には無縁なはずなのだ。
つまり多様性を追求する人は、内田氏風にいえば、新しい次元の責務を背負って生きるのである。資本主義社会に貫徹する業績主義的な価値観への没入からの「解放」であるにしても、それは決してお気楽なものではないのだ。
そしてその責務は押し付けられた一元的価値観への反抗という一面も持つ。現行の資本主義社会は効率的な利潤の追求のために私たちを業績主義的な価値観をベースとした一元的で激しい競争に巻き込むのだ。あるときは巧妙に私たちの「夢」や「欲望」を操作/捏造することで、またあるときは強制的な制度=規律という形をとって、社会は私たちに一元的な価値観を押し付けてくる。多様性を追求するということは、それらの社会の介入にNO!を言い続けることでもあるわけだ。
内田氏の言葉も(一見、多様性をうたってはいるが)結果的には一元的価値観を私たちに巧妙に押し付ける「働き」をしている。そのあたりに私はモーレツに反発したくなるのである。
私の内田氏への極端な物言いの仕方を見て、何かの先入観から強引に否定的なイメージで内田氏を語っているように見えるかもしれない。でもよく読んでいただければわかると思うのだが、私の言葉は、内田氏の犯していると思われる矛盾をもとに考えていけば「内田氏の言葉はこのようにしか読めないだろう」という、一つの「読み」の提示なのである。したがって私の「読み」が絶対に正しい、とは思っていない。内田氏の言葉には何も矛盾などないということが納得できれば、私は自分の「読み」をいつでも撤回する。
だからこそ内田氏を擁護する人たちに、私はあえてやや誇大な調子で内田氏の言葉にある矛盾を語り、アピールしているのだ。誤解しないでほしいのだが、「内田氏はこうだ」と決めつけたいのではなく、みなさんの反発を期待し、建設的対話を望んでいるからこそそうするのだ。
実際いくつか反論もいただいたわけだが、私の目を開かせてくれる面白いツッコミもあったけど(だから反論をくれた人たちには感謝している。)、上に示した内田氏の矛盾を説明してくれる反論はなかったと思う。………だからたぶん、内田さんは「生き方の多様性」なんてわかってないだろうな、と想像するわけだし、実際ご自分の大学でも教員を数値で評価するシステムを導入しようと奮闘なさっているようなので、きっと量的格差を競う競争にも本心ではさほど危機感を募らせてはいないのだとも結論し、私の考えは「あたらずとも遠からず」だろうなと思うのである。
トラックバック
,
しかし、言いたいことは言い尽くしたかなとも思う。自分でも内田批判に少々げんなりしてきた。だからそろそろまとめにはいろうと思う。
私が言いたいことは実に単純なことなのだ。内田氏の言葉には矛盾があり、その矛盾ゆえに内田氏に賛同する人のように素直にその言葉を受け取るわけにはいかない、ということだ。私は論理学や数学の素養などまったくないのだが、一読して内田氏の言葉に矛盾を感じた。不思議なのはこの矛盾を前にしてみなさんどうして内田氏の言葉に疑惑を抱かないのだろうってことだ。内田氏の肩を持つ人がいっぱいいるのを見るにつけそう思う。
もう詳しくは書かないが、内田氏は均質的な量的な格差を競う競争社会を資本主義を暴走させるため「危険」だとする。そしてそのような事態に対して「生き方の多様性」を唱えているにもかかわらず、試験による量的な格差によって夢を下方修正することで、若者を選別する学校教育の「学び」の過程を無条件的に肯定している。
というのも、何らかの理由で「学び」から逃走する者を「ねじれ」とか「オレ様化」とかいって、ネガティブな評価を下しているからだ。ということは逆に「学び」の過程をこなすものは「ねじれ」ていないポジティブな存在だということになり、内田氏自身、学校教育を身をもって価値的に肯定していることになる。そうでなければ、「学び」から逃走する者を「ねじれ」扱いできるはずがないからだ。
これが私には見逃すことなどできないとんでもない矛盾にしか思えないのだが、内田氏の肩を持つ人たちはそうではないのだろうか? 多様性を語りながら多様性を認めていないのである。いってみれば異文化交流を唱えながら外国人差別をしてるようなものだ。
量的格差を争う競争が危険だというのなら、学校教育のメカニズムにも批判的であるべきだろうし、生き方の多様性を唱えるのであれば、「学び」を降りる者をもポジティブな存在として認めるべきだ。それが、不登校であろうと、引きこもりであろうと、怠け者であろうと、不良であろうと、享楽的であろうともである。多様性を認めるということは、そのような形で人間を排除したり差別したりしないことではないのだろうか。それができてないということは、内田氏は単なる「ウソつき」じゃん……って思うのだ。
私の批判のやり方を見て「極端な二項対立への性向がある」なんて言ってる人がいるが、そんなこと言う前に内田氏の二項対立を指摘してあげたほうがいいのではないか? 若者たちを、真面目に学ぶ若者/学びを降り「ねじれ」た若者、という二項に分節しそのうち一方を他方を貶めることで評価するという典型的な二項対立の思考を披露しているようだが………。しかも「ねじれ」た若者の性格は「勝ち誇れる自己肯定」とか「バカ」なんて言われて社会不安の元凶にされ、あげくの果てにはファシズムにまで結びつけられている。内田氏はそれほどまでに「学び」の選別/自己評価の下方修正を受け入れない輩が気に食わないのである。
内田氏の考えの背後に、どんな理路があり、どんな問題意識の埋め込みがあるのかは知らないが、こういうインチキを見せられると、誰だって素直にその人の言うことを聞く気にはなれなくなるんじゃないだろうか。どんな戦略的思考があるったって、多様な人間の生き方を主張するために、あえて排除や差別を行うっていう戦略なんて普通あり得ないだろう。
内田氏があからさまに現行体制に有利なように世論を導くような意図を持ってこのような発言をしているとは考えたくないので、たぶん不幸にも「多様性」という言葉の意味を、わかってらっしゃらないのだ………そのために内田氏はこんな思考の隘路に陥ってしまったのに違いないと、私は考えている。
だから本当のところ、内田氏にとって多様な生き方とか、資本主義の暴走なんてのはどうでもいいことなんだろうと思う。 この社会の居心地の悪さの原因をどこかに求めたいという動機があって、それを普段から苦々しく思ってる「学びから逃走する若者たち」におっかぶせたい、というのが内田氏の思考のアルファでありオメガなのだ。
逆に言うと内田氏は、そうやって若者たちを諸悪の根源へと仕立て上げなければならないほどに、現行の「リスク社会」は居心地の悪い非情なシステムなのだってことを、回りくどいかたちで証明してくれている、とも言える。
もちろん私自身も資本主義の暴走は大問題だと思うのだ。しかし激しい競争がそれを引き起こしているなら、競争のベースになっている業績主義的価値観の専制を無効にするのが正しいやり方なのではないか?(内田氏は「学びから逃走する若者たち」が競争を激化させる」張本人であるかのように事態を捏造しているが………。)そのためには、業績主義的価値観の専制によって押しつぶされている多様でオルタナティブな価値観を救い出し、育てるべきだ。そのためにこそ「生き方の多様性」を認めることが必要なのだ。排除や差別をすることではなく、ましてや二項対立的な思考に陥ることなく………である。
生き方の多様性を認めるってことは決して楽なことじゃない。「居直り」なんていうイージーな状態ではあり得ないと思う。多様性を認める人はつねに心を可能なかぎりオープンな状態にして、外から訪れる他者をそのまま受け入れなければならない。たとえそれが外国人であろうと、犯罪者や狂人であろうともだ。考えてみるとそんなこと自分にもできるかどうかわからない………尻尾巻いて逃げ出してしまうのかもしれないが、自分が耐えられるかぎりそのような他者を前もって排除することなく受け入れるというのが、多様性を認めるってことだ。
そしてそのことはつねに自分自身の足元をぐらつかせる作業でもある。自分の足元すら絶対ではない、と認識させてくれるのが多様性や他者との出会いだからだ。だから自分の足元の上にあぐらをかいているような「居直り」状態は、「生き方の多様性」を求める人には無縁なはずなのだ。
つまり多様性を追求する人は、内田氏風にいえば、新しい次元の責務を背負って生きるのである。資本主義社会に貫徹する業績主義的な価値観への没入からの「解放」であるにしても、それは決してお気楽なものではないのだ。
そしてその責務は押し付けられた一元的価値観への反抗という一面も持つ。現行の資本主義社会は効率的な利潤の追求のために私たちを業績主義的な価値観をベースとした一元的で激しい競争に巻き込むのだ。あるときは巧妙に私たちの「夢」や「欲望」を操作/捏造することで、またあるときは強制的な制度=規律という形をとって、社会は私たちに一元的な価値観を押し付けてくる。多様性を追求するということは、それらの社会の介入にNO!を言い続けることでもあるわけだ。
内田氏の言葉も(一見、多様性をうたってはいるが)結果的には一元的価値観を私たちに巧妙に押し付ける「働き」をしている。そのあたりに私はモーレツに反発したくなるのである。
私の内田氏への極端な物言いの仕方を見て、何かの先入観から強引に否定的なイメージで内田氏を語っているように見えるかもしれない。でもよく読んでいただければわかると思うのだが、私の言葉は、内田氏の犯していると思われる矛盾をもとに考えていけば「内田氏の言葉はこのようにしか読めないだろう」という、一つの「読み」の提示なのである。したがって私の「読み」が絶対に正しい、とは思っていない。内田氏の言葉には何も矛盾などないということが納得できれば、私は自分の「読み」をいつでも撤回する。
だからこそ内田氏を擁護する人たちに、私はあえてやや誇大な調子で内田氏の言葉にある矛盾を語り、アピールしているのだ。誤解しないでほしいのだが、「内田氏はこうだ」と決めつけたいのではなく、みなさんの反発を期待し、建設的対話を望んでいるからこそそうするのだ。
実際いくつか反論もいただいたわけだが、私の目を開かせてくれる面白いツッコミもあったけど(だから反論をくれた人たちには感謝している。)、上に示した内田氏の矛盾を説明してくれる反論はなかったと思う。………だからたぶん、内田さんは「生き方の多様性」なんてわかってないだろうな、と想像するわけだし、実際ご自分の大学でも教員を数値で評価するシステムを導入しようと奮闘なさっているようなので、きっと量的格差を競う競争にも本心ではさほど危機感を募らせてはいないのだとも結論し、私の考えは「あたらずとも遠からず」だろうなと思うのである。
トラックバック
,
| ホーム |