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議論の効用

 いろいろ読まなければならない本がたまっているにも関わらず、つい新しい本を買ってしまう………ってのは誰にでもあることだと思う。近所の本屋で的場昭弘という人の『マルクスだったらこう考える』という本を立ち読みしていると、オヤッっと思うところがあってつい買ってしまった。まだ途中までしか読んでないんだけど、グローバリゼーションとか「帝国」とかマルチチュードとかいった最近のトレンドからオリエンタリズム、サバルタン、ポストコロニアルなんてことまでマルクスとからめながらわかりやすく解説してあって勉強になる。
 僕は大学も出ていないし専門的な教育はいっさい受けていない。白状するとマルクスだって曲がりなりにも読んだといえるのは『賃労働と資本』『共産党宣言』ぐらいのものだ。左翼の友達もいないし、もともとマルクスなんて読むようになるとは思ってなかった口である。
 今も昔も僕の中にあるのは「芸術」である。作品なんて枠にとらわれない「運動」としての、肉体化した「芸術」が一歩一歩、マルクスとか社会運動みたいな方向へ僕を引きずってきた。いまだに「左翼」という言葉に抵抗を覚えながらマルクスの言葉を読むのだ。的場さんの本に引用されている『ドイツ・イデオロギー』の一節………

 『共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは「実践的な」現在の状態を止揚する現実的な運動だ

 ………「運動」なのだ。この「運動」は「芸術」であり「祭り」ではないのだろうか? もう一つ………

 『ここで、排除されたすべての存在はマルチチュードと呼ばれます。これはスピノザの言葉で(ネグリがよくこれを使っています)、「多様な人々」という意味です。多様である、ということは人間らしく生きる可能性を持っている、ということです。
 それは資本主義でない価値観をもった人々、言い換えれば、すべての豊かさを価値に還元することのない人々という意味でもあります。マルチチュードは多様であるがゆえに、一定の組織の枠にはめることはできません。多様性を求めることこそ、脱価値化すること、現代の言葉でいえば、脱コード化することです。』


 ありゃりゃ………。これは的場さんの文章なのだが、これを読むかぎり僕が内田さんの批判の中で使ってきた言葉と全く同じじゃないか。だいたい「多様性」なんて問題にしたのは内田さんへの批判において初めて行ったことだ。気がついてみれば、僕もネグリなんかと似たようなことを考えてたってこと? 「脱コード化」なんて20年前から知ってた言葉だけど、こういう意味で使ってたの?………だとしたらちょっとこれはネグリ&ハートの『帝国』を買って読んでみなければならないぞ(笑)!
 シチュアシオニストを発見したときもそうだったが、身体が……肉体化した「芸術」が言葉や概念を求めるているのだ。面白いもの、身体にシンクロナイズしてくるものを探していて、それが僕をこんなところまで引きずってきたのだ。つまり僕を社会について考えさせるようにしているものは、学的関心や論理ではなく、「芸術」なのだ。
 だから逆におかしな文章に出会ったときも、まず反応するのは身体である。いろんな人が命題を論理的に分析して正しいとか間違っていると判断しているのを見ると、別の惑星の風景を見ているような気がしてくる(まあ、僕も無意識的に論理を分析しているのかもしれないが……)。そうじゃなくてある間違った命題にNO!と言って抵抗するのは身体であり、冷徹な論理分析と言うよりも「憤り」がそうさせるのだ。いや、きっと僕だけじゃなく、みんなそうだと思うのだが………。

 まあ、とにかく内田さんへの批判は僕を意外なところに連れてきてくれたってことだ。内田さんにはお礼を言わねばなりません………ハイ(笑)。
17:48 | 思想など | comments (5) | trackbacks (0) | page top↑