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グチってます?

 セクハラ、アカハラの多発の原因はたぶん社会の価値観の変動にある。例えば大学の先生の権威は昔に比べて遥かに低下していると思われる。かつては大学教授にたてつくなんてそうそうできることじゃなかったような気がする。が、今では教育というサービスを提供する労働者という地位にまで権威は低下しつつある。
 そのためかつては表面化しなかった先生の横暴がカジュアルに告発の対象になるようになった、ってことではないだろうか。先生の権威が低下したとはいえ、学校の中では、教師と学生は、上下の権力関係にあり続けている。したがって先生は現実に持っている権力と引き換えに、アカハラ教師として吊るし上げられる可能性も構造的に持たざるを得ない。

 内田先生自身はそのような告発を受けていないようだし、あったとしても言いがかりじみた告発も少なくないような気がする。それは内田先生が横暴な人間ではないことを示しているわけだろうし、ご苦労なことだとも思う。でもこれじゃあ、そのような不愉快な現実に対する不満の神話的説明であり、結局はグチじゃないですか? とこのエントリーを読んで思った。

 つまり、今日のセクハラ、アカハラの多発の原因を「コミュニケーション能力の失調」なんていう説明に求めだすのはどうだろう、ってことだ。 結局、またまた「バカ」が多くなったせいだ、っていう内田先生お得意の論法になってしまう。またコミュニケーションのできない「バカ」を悪者に仕立てることで、自分をイノセントにしてしまうのだ。先生自身はコミュニケーション能力に何も問題がなく全てをお見通しである、ってことにして………。
 言葉は無限の誤解の可能性に開かれている………その通りだ。先生だって、私だって誤解されるだけでなく、誤解することもある。というか正確に理解されることはありえない、つまり誤解は常態なのだ。だからコミュニケーションとは絶えざる問いかけであり、確認であり、抗議であり、和解であり、自分を疑うことでなければならない。絶対にしてはならないことは、誤解の原因を「コミュニケーション失調症候群」なんていう怪しげなもののせいにして説明してしまうことだ。これは神経症のような人間関係の病の原因を器質的な障害に求めることと似ている。これではコミュニケーションの放棄ではないか?

 笑ってしまうのは、どうやら内田先生は学生とコミュニケーションしているとき、「暖かい波動」や「優しい波動」を身体的なレベルで発信なさっていると、ご自分で意識されているらしいことだ。ベイトソンは読んでないけど、たしかダブルバインドのメタコミュニケーションに関してこんな話が出てきたのを覚えている。

 内田先生が実際にこのエントリーで書いてるようなトラブルや誤解を被っているのか私は知らない。でもこんなグチにも似た文章を雑誌に発表しようとしてるってことは、少なくとも誤解される兆候が多分にあると感じているに違いない。
 そうだとしたら、私は内田先生とは全く違った事態の解釈をしたくなる。誰もコミュニケーションに失調をきたしてなどいないと。

 まず、セクハラ、アカハラの多発の原因を内田先生の交流の相手である(例えば)学生たちの「失調」に求めてしまった時点で、すでに学生たちを軽蔑するとともに、自分を浄化(正当化)してしまっている。したがって学生たちとの交流において内田先生の身体的レベルでのコミュニケーションは、内田さんの意図をよそに「軽蔑的で冷ややかな波動」を発信してしまっていると考えたほうが自然ではないのだろうか。(だって意図的に発せられるものだとしたら、それは「言語」と同じレベルのコミュニケーションになっちゃうんじゃないの?)それを学生は敏感に察知して、何らかのアカハラ的抗議へと導かれているのであって、複数の解釈可能性の中から自分にとって最も不快な解釈を選択しているのではなく、適切に先生自身も気づいていない真実の解釈をやってのけているのではないだろうか。
 なんか、自分だけはコミュニケーションの失調などありえない………みたいな書きっぷりを見ていると、こんな解釈をしたくなってしまうのだ。もちろんこれは私の想像にすぎないし、間違いかもしれない。そしてこんなことを書くと、先生に「あなたみたいな人が量産されるだろう」なんて言われてしまうんだろうけど………。

内田先生こちらのコメント欄に登場! 私のところにも是非!………でも悪いけど先生が賢いとはお世辞にも言えないな。
14:37 | 思想など | comments (7) | trackbacks (0) | page top↑