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スキゾ・キッズ

 きはむさんが言ってた仲正さんの『ポストモダンの左旋回』の第6章に目を通してみた。なるほどつまり、きはむさんはここでいうスキゾ・キッズのような存在を「逸脱」と見なしている、ってことだろうか。だとすればきはむさんが、再帰派はこのような逸脱に警鐘を鳴らしている……と、うるさく言っていた理由にも納得がいく。
 20年前にこの浅田彰の流行があったときには、僕はなんとなく胡散臭さを感じていたため、浅田の本はほとんど読んだことがなかった。このポスト構造主義思想の流行にまとわりついている「軽さ」が嫌いだった。(今思えば、それはポスト構造主義そのものに問題があるというより、日本への紹介のされ方が良くなかったってことになるんだろう。外国の文化を輸入するときにつきものの問題……つまり、上っ面のファッショナブルな面だけを紹介し、背後にある血なまぐさい矛盾や闘争の面を切り捨ててしまう……ってとこに原因があるようだ。)そのせいもあって、20年にわたって僕はドゥルーズとかデリダとかいった人たちの本を敬遠し続けたのだ。だが、今こうして改めて浅田の言葉を追ってみると、確かに僕が使ってきた言葉と意外なほど似ていて、「逸脱」という言葉でこのスキゾ・キッズと、僕自身の考え方もひとくくりにされてしまうのはわからないでもない。ただ、それは全く別物だ、と言わなければならない。そして当然、スキゾ・キッズの「逸脱」は批判されてしかるべきである………つまり(逸脱はいけないということではなく)そんなものは逸脱にはあたいしないと。

 「エディプス神話」を解体することで、資本主義の安定の蝶番を無効にし、従来の左翼的な闘争(労働運動)から逃走へと抵抗の形を変え、権力を奪取するのではなく、資本主義自体を多様化する、という戦略は、とてもよくわかる。というか僕の思考にそっくりだ。が、実はこの思考が力を持つためには、それが日常生活における徹底的なミクロ闘争(ミクロ的な社会への介入)によって裏打ちされている必要があるのだ。でないと、その「逃走」とか「戯れ」みたいな戦術は、単なる「逃げ」であり「おたわむれ」に過ぎなくなってしまう。実際、スキゾ・キッズっていうのはそういう人たちだったのだろう(よく知らないから……たぶん)。
 取り違えが起こらないように、もう一度説明しておくが、祝祭とか逸脱みたいなことを僕は語っているのだが、それは自分が実際にお祭り騒ぎをやらかしたり、逸脱的に無節操で軽薄な生き方をすることを意味するのではなく(そういうやり方もあっていいのだが)、社会全体から見てみるならば、祝祭的、逸脱的な意味合いを持つだろう生き方について語っているのだ。つまり資本主義が生産を中心的な価値としている以上、それに逆らう反抗的な生き方は、非生産的で、逸脱的なものと受け止められるだろうということだ。
 したがって、逸脱の戦略はスキゾ・キッズのような「軽い」ものじゃなくて、別な意味での覚悟を要求するものだと言える。日常生活の中を貫徹する資本主義的権力とのミクロ闘争………なんて言うと大げさなんだけど、ようするに反資本主義的な価値観を持って生きることは、世間(学校とか職場など)、家族、友達などが普通持っている価値観と対立することになったりして、その結果、後ろ指をさされたり、嫌われたり、嘲笑われたり、変人扱いされたり、無視されたりする…………という可能性を持つもので、それは社会の側から「異物」や「逸脱者」(マイノリティ)、究極的には犯罪者という烙印を押されることにつながりかねない立場なのだけれど、そういう覚悟を持ち、そういう運命を引き受け(自らを実験台にして)生きるということなのだ。悲壮である必要はないかもしれないけど、けっして逸脱を気取った軽いノリで生きることにはならないと思うのだ。

 だからスキゾ・キッズみたいな偽の逸脱と僕の考えてる逸脱を混同してほしくはない。偽の逸脱(偽の多様性)は批判されなければならない………が、内田さんみたく「逸脱を防ぐ」というやり方ではなく、「どうせやるならちゃんと逸脱しろ!」と言わなければならない。というのも「逸脱を防ぐ」というやり方は体制側の人が多様性を抑圧するための口実になってしまうからだ。
 むしろこの仲正さんの文章を読んだかぎりでは、僕の考えてることはほとんどガタリの「分子革命」と同じだと思う。長くなるが、面白いので仲正さん(およびガタリ)の文を引用しておく。
 
ここでガタリは、偽りのノマディズム(遊牧民主義)と、"実在的ノマディズム(真のノマディズム)"という二項対立的な分類をかなり"意図的"に行っている。偽りのノマディズムというのとリは、資本主義の統合の論理から「逃げる」と称しながら、実際には、資本主義的な生産・消費システムに依拠し、流されているだけのライフ・スタイルである。端的に言えば、浅田を追いかけている「スキゾ・キッズ」のような生き方である。これに対して、インディアンやアボリジニをモデルにした「実在的ノマディズム」は、都市の論理に縛られることに実体的に抵抗し、「欲望の機械」のコントロールを打ち砕いて、ノマド的な生き方を再獲得しようとする。「われわれ」の欲望を吸収しながらグローバルに属領を拡張していく資本主義的な「客観的都市」に対して、実在的な遊牧民たちの目指す「主観的都市」は、われわれの「欲望」を「漏出」させながら、「脱属領化」するコミュニケーションのネットワークを生み出していく。無論、それは、「われわれ」の欲望に決まった行路をつけてしまって、より大きな枠(メディア化された資本主義)の内に取り込んでしまう「スキゾ・キッズ」的なコミュニケーションではない。ガタリはさらに、そうした「実在的なノマディズム」の精神に基づく、政治的な変革のプログラムをも提起しようとしている。いわゆる「分子革命」である。

『これらの未来展望はすべて正真正銘の社会的な実験によって導かれないかぎり意味をもたないものであろう。現在のマスメディアにおいて生じているような、還元主義や画一主義で〈主観的都市〉を貧弱にする方向ではなくて、個人的・集合的な主観性が豊富化するような方向にむかうということである。そのためにも、新しい都市づくりや旧市街の刷新、あるいは〈荒廃した産業地域〉の再転換などをはかるときに、そうした大きな社会的実験にかかわる契約をかわしながら計画をすすめることを私は提唱したい。家庭生活や近所づきあい、教育、文化、スポーツ、子どもの世話、老齢者や病人の介護といったもの、ありうべき新たな様式を具体的に検討するためにである。/実際、生活を変え、新たな活動スタイルや新たな社会的価値をつくりだす手段は、もうわれわれの手に届くところにある。欠けているのはそうした変化を引き受けようという政治的な欲望と意志だけである。(……)われわれは、人々のものの見方や考え力の変化に通じるであろうこうした<分子革命>を企てる前に、グローバルな政治革命を期待すべきなのであろうか? われわれはここで二重にからまった円環をそれは、前にしている。一方では、社会、政治、経済は人々のものの見方や考え方の変化がなければ進展することができず、他方では、人々のものの見方や考え方は社会全体に変化が生じないかぎり変わることがないという状況である。われわれが提唱する大規模な社会的実験はこのような矛盾から脱出するための一手段となるだろう。新しい住まい方の実験が成功すれば、広範な変化への意志に大動きな影響を与えることができるだろう。』(ガタリ『フェリックス・ガタリの思想圏』)

 ここからはっきり分かるように、ガタリの「分子革命」は、必ずしもマルクス主義が目指しているようなグローバルな「政治革命」を直接的に意味するわけではないものの、パラノ資本主義的な「都市生活」を、個人(分子)のレベルから変えていく社会的実験を通して、社会全体を統御する政治のレベルにも変化を起こそうとしていることが分かる。言わば、パラノ・ドライブからはみ出してしまうような人たち、”ポリス外の人たち”を「ノモス」的に含んだ遊牧民的なライフ・スタイルを実践することを通して、「客観的都市」に集中している「われわれ」の「欲望」を脱属領化していく戦略である。
 こうしたガタリの………ある意味で………”壮大”なプロジェクトは、「欲望」の方向を多様化させていく点では、浅田の「スキゾ・キッズの冒険」と似ているようにも見えるが、変革へ明確な「意志」をもって、資本主義的な「客観的都市」に対して遊牧民的な攻撃を仕掛けるという側面からみれば、180度異なっていると言っていい。『スキゾ・キッズ」であればたとえ「脱属領化」のためであれ、何らかの”目標”を持った「意思」を表明することを拒否するだろう。すくなくともばんねんのガタリは、浅田のスキゾ・キッズのイメージからかなり”逸脱”して、「ポリス(政治)」を崩していくためのノマド的な「(反)政治」を標榜していたのである。

 この不可解な言葉使いにはいつも悩まされるが、それでもガタリの言葉は僕にはピンと来るのだ。「個人(分子)のレベルから(生活や意識を)変えていく社会的実験を通して、社会全体を統御する政治のレベルにも変化を起こそう」ってのはまさに僕の考えと一致する。つまりこのような社会への実験的介入こそが、資本主義社会にとって許しがたい「逸脱」と受け取られるだろうということなのだ。で、僕が考えるに、こういう具体的な「目標」を持った活動をすることと、それが何らかの「達成(結果)を求めない」ということは両立することだと思う。それと、きはむさんがしきりに気にしている、こういったミクロ闘争の現実的な効果、みたいなことについても言いたいことがあるが、まあそのへんは日を改めて説明してみたい。長くなっってしまうので、今日のところはとりあえず『左旋回』の一部を読んだ感想でした。
03:20 | 思想など | comments (11) | trackbacks (0) | page top↑