08.22.2005
恋と革命
どうやら僕のような考えもそれはそれでいいだろうってことで、お許しが出たようだ(笑)。……… そうそう、しんどいんなら変革なんてやんなきゃいいだけの話だ。食うに困ってるわけでもなく、誰に頼まれたわけでもなし………。そこを敢えて何かやろうとすれば、余計なものを背負い込むことになるってのは当たり前の話じゃないの? ま、きはむさんももう言うことがないってことだし、僕も同じことしか答えられないので、そろそろこの件に関しては店仕舞かなと思うが、とりあえず考えたことだけはエントリーしておく。
osakaecoさん言っていた「設計図を持たない生き方」っていう言い方が面白いのでちょっと考えてみたい(きはむさんのとこに書き込まれていたコメントは消されてしまったようだが)。
具体的なビジョンの欠如をきはむさんに指摘されて、僕はそれは出す必要がないのではなくて、安直には出せないのだという言い方をした。そのこと自体間違ってるつもりはないが、実際に僕自身のことを考えると、何もビジョンなんてないし、考えようともしていないのは事実で、ぶっちゃけ、きはむさんの言う通りなのだ。………が、それはやはり政治の欠如ではないということを「設計図を持たない」という言い方でosakaecoさんは表現してくれたのだと思う。
意識の変革と社会の変革は手を取り合いながら進まなければならない、という問題があり、そういう目で例えば内田さんとか、『希望格差社会』を書いた人の社会の分析や提言を見てみると、資本主義社会の価値観をずいぶんと無条件に肯定して(資本主義に没入して)発言しているように見えた。これでは改革どころか改悪にしかならないだろうと思って、ちょっとケチをつけた。
どうもこういうミクロな意識の問題をすっとばした改革の提言は少なくないと思うのだが、そのような改革が為そうとしているのは………社会を対象的に「操作」することだろう。確かに近代の政治とは社会の操作であった。それが社会主義であろうと、ファシズムであろうと、民主主義であろうと、結局は一部の知識人エリートによる上からの社会の操作こそが政治であったように思う。
そのような「操作」のみでは社会の変革はなし得ないという認識から「分子革命」みたいなミクロの変革という全く別の形の「政治」が提案されているわけだ。
だがこのような別種の「政治」に意識的に取り組む人はあまりいないのが現実で、だからこそ議会政治や具体的な政策を作ったり遂行したりするシステムや、そこで提案される「設計図」は結局は社会の「操作」以上のものにはならず、おそらく居心地の悪い今の社会を根本的に変革するには、どんな立派な政策を出したところで片手落ちだろうと思うのだ。
このような政治における「操作」の突出を見るにつけ、僕はむしろ「操作」的な意味での政治から距離をとり、あえて意識の変革に通じるミクロの政治に自分の関心を絞り込んだ………という面は確かにある。
資本主義的な価値観………学校や職場や家庭の日常を貫いている業績主義や消費のイデオロギーは非常に堅固で、メディアや教育機関などもむしろそれらのイデオロギーをより強化する方向に作動していることを考えると、このイデオロギーに縛られた意識の上にいかなる操作的改革が行われても虚しいだろう………緊急な課題はむしろミクロな闘争なのではないかと思うのだ。
なるほど、それは「操作」の政治の視点からは「具体的なビジョンの欠如=思考停止/現状肯定=設計図をもたない」ってことになるだろうが、そうではないということをこれまで語ってきたわけだ。
ただ、きはむさんの誤解に対抗する形で、戦略とか目的とかいうことを強調してミクロの政治=意識の変革ってことを語ってきたわけだけど………意識の変革にしたってやはり他人の意識の「操作」であってはならないはずで………つまり意識の変革は、人を変えることを「目的」とした行動であってはならないはずだと思うわけだ。
ミクロの政治とは、「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」であるとしたが、同時にそれは「操作のための設計図」を持たずに社会に介入することであり、無目的的な社会との交流である、とも定義できる。したがって介入にあたっては、操作するもの/操作されるものといった分割に基づく対象的な人間関係をつくってはならない………つまり、(「操作」にはつきものの)「達成を目指す」ものであってはならないのだ。
じゃあ、社会の変革なんて言ってるけど、本当のところお前はやる気があるのか? と言われてしまいそうだが………スタンスとしてはミクロ闘争=「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」=無目的的な交流そのものが問題であり、その結果としてそれが社会の変革(夢の実現)につながるとすれば、それは大歓迎である、というかたちであるべきだと思う。
ややこしくなってしまったがようするに、僕らは具体的な目標を持った活動を考えているが、それは「操作」という形では達成され得ないものであって、「設計図を持たない」という手段をとるべきだ、ということでありまた、具体的な目標の達成よりもむしろ「ミクロな闘争=交流」そのものをこそ目的にすべきだと言うことになる。
前にも書いたことだが、肝心なのは結果(夢の実現)そのものよりも、自分が特異/固有性の追求という課題に「賭ける」、「挑戦する」ことそのものに意味があるということだ。
例えば、ある美少女に恋をしたとして、当然ライバルが多いし、その子とつきあえる可能性はけっして高くないような状況で、やっぱり男としてはアタックしなければならない………で、相手にされるかわからないがあれこれ話しかけてみたり、口説いたり(つまり誘惑)してみたりするんだけど……結果、玉砕して他の男に持ってかれてしまった場合、一体その男の価値は、(その女と結ばれた、あるいは、結ばれなかったという)結果で判断されるのか、それともある女と心を通わせたいという欲望を抱いて、その欲望に殉じたことで判断されるのか、ってことだ。
もちろん僕は後者で判断するべきだと思う。結果は失敗でも、苦い思いをなめながらも「賭け」に出たってことのほうで評価されるべきだと思う。たしかにつきあうことができて、セックスできればバンバンザイなんだろうけど、つきあってみたら案外退屈だった、なんてこともあったりで、恋の実体は結果よりチャレンジにあるんじゃないかって思うわけだ。
恋と社会の変革をいっしょにするのは不謹慎に思えるかもしれないが、僕はむしろ同じように考えるべきで、実際の変革という結果より、チャレンジする意志が問題だと思っている。これはようするに「賭け」に特有の態度で、失敗しようとして賭けに出るやつなんていないわけで、それは極めて真剣で戦略的な試みなのだが、実は結果よりも「賭け」そのものの緊張感………すなわち自己の固有/特異性を追求する「試み」そのものの持つ緊張感………のほうが大事なのじゃないかと思うのだ。それに仮に社会を決定的なかたちで変革できたとして、それで歴史が終わってしまうわけじゃないだろうし、終局の状態などあり得ないわけだから結果そのものは問題だとは思えない。
こう考えると目標を持った活動が、設計図なしで行われたり、達成を目的としないということはけっして両立しないわけじゃないと思う。 rorygallagherさんが言っていることについていうと、「目的があるからこそそれを達成できず脱落する人もいる」のではなくて、「結果にこだわるから脱落なんてものが生まれる」ってことじゃないだろうか。目的はあっていいし、その目的に「賭ける」わけだけど、目的が達成されなくてもそのことで人を評価しない、ということであれば脱落なんてことにはならないと思う。逆に「人間努力すれば……」と言う言い方で表現しているのが自分の人生の(結果にこだわる)「操作」であるとするなら、目標が達成できないことは即、失敗だということになってしまう。そこで発想を転換しなければ、「断念」なんていう業績主義のイデオロギーに絡めとられるだけだろう。
つまりミクロ闘争っていうのは、そのように「操作」から「賭け」の精神へと発想を転換し、人々の意識が改革されることを願いながら(操作するのではなく)自分を「賭ける」ことなのだ。
トラックバック こんな記事見つけた♪(チョット前の記事だけど) what is my life
osakaecoさん言っていた「設計図を持たない生き方」っていう言い方が面白いのでちょっと考えてみたい(きはむさんのとこに書き込まれていたコメントは消されてしまったようだが)。
具体的なビジョンの欠如をきはむさんに指摘されて、僕はそれは出す必要がないのではなくて、安直には出せないのだという言い方をした。そのこと自体間違ってるつもりはないが、実際に僕自身のことを考えると、何もビジョンなんてないし、考えようともしていないのは事実で、ぶっちゃけ、きはむさんの言う通りなのだ。………が、それはやはり政治の欠如ではないということを「設計図を持たない」という言い方でosakaecoさんは表現してくれたのだと思う。
意識の変革と社会の変革は手を取り合いながら進まなければならない、という問題があり、そういう目で例えば内田さんとか、『希望格差社会』を書いた人の社会の分析や提言を見てみると、資本主義社会の価値観をずいぶんと無条件に肯定して(資本主義に没入して)発言しているように見えた。これでは改革どころか改悪にしかならないだろうと思って、ちょっとケチをつけた。
どうもこういうミクロな意識の問題をすっとばした改革の提言は少なくないと思うのだが、そのような改革が為そうとしているのは………社会を対象的に「操作」することだろう。確かに近代の政治とは社会の操作であった。それが社会主義であろうと、ファシズムであろうと、民主主義であろうと、結局は一部の知識人エリートによる上からの社会の操作こそが政治であったように思う。
そのような「操作」のみでは社会の変革はなし得ないという認識から「分子革命」みたいなミクロの変革という全く別の形の「政治」が提案されているわけだ。
だがこのような別種の「政治」に意識的に取り組む人はあまりいないのが現実で、だからこそ議会政治や具体的な政策を作ったり遂行したりするシステムや、そこで提案される「設計図」は結局は社会の「操作」以上のものにはならず、おそらく居心地の悪い今の社会を根本的に変革するには、どんな立派な政策を出したところで片手落ちだろうと思うのだ。
このような政治における「操作」の突出を見るにつけ、僕はむしろ「操作」的な意味での政治から距離をとり、あえて意識の変革に通じるミクロの政治に自分の関心を絞り込んだ………という面は確かにある。
資本主義的な価値観………学校や職場や家庭の日常を貫いている業績主義や消費のイデオロギーは非常に堅固で、メディアや教育機関などもむしろそれらのイデオロギーをより強化する方向に作動していることを考えると、このイデオロギーに縛られた意識の上にいかなる操作的改革が行われても虚しいだろう………緊急な課題はむしろミクロな闘争なのではないかと思うのだ。
なるほど、それは「操作」の政治の視点からは「具体的なビジョンの欠如=思考停止/現状肯定=設計図をもたない」ってことになるだろうが、そうではないということをこれまで語ってきたわけだ。
ただ、きはむさんの誤解に対抗する形で、戦略とか目的とかいうことを強調してミクロの政治=意識の変革ってことを語ってきたわけだけど………意識の変革にしたってやはり他人の意識の「操作」であってはならないはずで………つまり意識の変革は、人を変えることを「目的」とした行動であってはならないはずだと思うわけだ。
ミクロの政治とは、「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」であるとしたが、同時にそれは「操作のための設計図」を持たずに社会に介入することであり、無目的的な社会との交流である、とも定義できる。したがって介入にあたっては、操作するもの/操作されるものといった分割に基づく対象的な人間関係をつくってはならない………つまり、(「操作」にはつきものの)「達成を目指す」ものであってはならないのだ。
じゃあ、社会の変革なんて言ってるけど、本当のところお前はやる気があるのか? と言われてしまいそうだが………スタンスとしてはミクロ闘争=「自己の固有/特異性を可能性の果てまで追求すること」=無目的的な交流そのものが問題であり、その結果としてそれが社会の変革(夢の実現)につながるとすれば、それは大歓迎である、というかたちであるべきだと思う。
ややこしくなってしまったがようするに、僕らは具体的な目標を持った活動を考えているが、それは「操作」という形では達成され得ないものであって、「設計図を持たない」という手段をとるべきだ、ということでありまた、具体的な目標の達成よりもむしろ「ミクロな闘争=交流」そのものをこそ目的にすべきだと言うことになる。
前にも書いたことだが、肝心なのは結果(夢の実現)そのものよりも、自分が特異/固有性の追求という課題に「賭ける」、「挑戦する」ことそのものに意味があるということだ。
例えば、ある美少女に恋をしたとして、当然ライバルが多いし、その子とつきあえる可能性はけっして高くないような状況で、やっぱり男としてはアタックしなければならない………で、相手にされるかわからないがあれこれ話しかけてみたり、口説いたり(つまり誘惑)してみたりするんだけど……結果、玉砕して他の男に持ってかれてしまった場合、一体その男の価値は、(その女と結ばれた、あるいは、結ばれなかったという)結果で判断されるのか、それともある女と心を通わせたいという欲望を抱いて、その欲望に殉じたことで判断されるのか、ってことだ。
もちろん僕は後者で判断するべきだと思う。結果は失敗でも、苦い思いをなめながらも「賭け」に出たってことのほうで評価されるべきだと思う。たしかにつきあうことができて、セックスできればバンバンザイなんだろうけど、つきあってみたら案外退屈だった、なんてこともあったりで、恋の実体は結果よりチャレンジにあるんじゃないかって思うわけだ。
恋と社会の変革をいっしょにするのは不謹慎に思えるかもしれないが、僕はむしろ同じように考えるべきで、実際の変革という結果より、チャレンジする意志が問題だと思っている。これはようするに「賭け」に特有の態度で、失敗しようとして賭けに出るやつなんていないわけで、それは極めて真剣で戦略的な試みなのだが、実は結果よりも「賭け」そのものの緊張感………すなわち自己の固有/特異性を追求する「試み」そのものの持つ緊張感………のほうが大事なのじゃないかと思うのだ。それに仮に社会を決定的なかたちで変革できたとして、それで歴史が終わってしまうわけじゃないだろうし、終局の状態などあり得ないわけだから結果そのものは問題だとは思えない。
こう考えると目標を持った活動が、設計図なしで行われたり、達成を目的としないということはけっして両立しないわけじゃないと思う。 rorygallagherさんが言っていることについていうと、「目的があるからこそそれを達成できず脱落する人もいる」のではなくて、「結果にこだわるから脱落なんてものが生まれる」ってことじゃないだろうか。目的はあっていいし、その目的に「賭ける」わけだけど、目的が達成されなくてもそのことで人を評価しない、ということであれば脱落なんてことにはならないと思う。逆に「人間努力すれば……」と言う言い方で表現しているのが自分の人生の(結果にこだわる)「操作」であるとするなら、目標が達成できないことは即、失敗だということになってしまう。そこで発想を転換しなければ、「断念」なんていう業績主義のイデオロギーに絡めとられるだけだろう。
つまりミクロ闘争っていうのは、そのように「操作」から「賭け」の精神へと発想を転換し、人々の意識が改革されることを願いながら(操作するのではなく)自分を「賭ける」ことなのだ。
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