Thu.

誘惑

 内田さんの『サラリーマンの研究』を読んだとき、正直言うと僕はギクリとした。もちろん主張したいことはほとんど正反対であるにも関わらず、「自己を供物に捧げる」みたいなことを僕も書いたことがあったからだ。誰かにつっこまれるんじゃないだろうか………ちゃんと説明しておかなければと思ってはいたが、ようするに僕の古い記事などに目を通す人などいてくれるはずもなく、僕自身このことを忘れかけていた。きはむさんがようやくツッコミをいれてくれたので、いい機会だから説明しておこう。

 内田さんはあそこで、『サラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。』という不気味な搾取の正当化ともとれる発言を行っている。搾取されてこそ人間だというのだ。その議論を支えるために「供儀」の意味……『自己を供物として捧げることで共同体を維持する』ことが人間的なことである……について語られ、資本主義下における滅私奉公的な労働によって社会の承認を求めるサラリーマンの心性はこの「供儀」の現代的な表現だとされるのだ。

 はたして本当に資本による労働者の搾取が「供儀」の意味合いを持つのかってことはおいておくとしても、僕が供儀(自己犠牲)について語ったのは全く別の文脈においてである。一言でいえば、資本主義社会において「祭り」を求めることは、社会の承認を放棄する=逸脱者になることを意味する、ってことを言いたかったのだ。この承認の放棄を代償にしてしか「祭り」はあがなわれないのではないか、と思うのである。逆に言うと逸脱者(ミクロな闘争)は資本主義社会では(前近代社会における)祝祭的な意味を持つ存在になるのではないか、というのが『祭りの戦士とは何か?』で言いたかったことだ。

 このように内田さんと僕の考えは180度別なものであるわけだが、なんで、古代メキシコの話など持ち出してきたのかといえば、やはり何かを獲得するためには何かを犠牲にする必要があるんじゃないかっていうことが激烈な形で表現されているのがアステカの文化だと思うからだ。共同体と「祭り」の関係は前近代の社会と、資本主義近代では全く違うものになってしまった(かつては「祭り」は共同体に構造的に組み込まれた非日常性であったが、資本主義のもとでは「祭り」は存在を許されない………がゆえに社会への反抗こそが非日常を担う)が、例えば「栄光」のような精神的価値であっても、やはり何かと引き換えに手にしているのではないかと思うわけだ。
 もちろん内田さんのような承認のための犠牲=資本主義社会への隷属、みたいな言い方は僕も大嫌いだ。僕の言ってる「祭り」の追求が、ある種の共同性の追求と理解できるのであれば、きはむさんの言ってることもわからないでもない。ただ、何度も言ってるようにこの犠牲は強制するものではない。ぶっちゃけ「祭り」なんてなくても生きていけるだろうし………。でも心の奥底ではみんな「祭り」を望んでいるのではないだろうか、だからこそ「祭り」の居場所がない資本主義に問題を感じるのではないかと想像するわけだ。そのためには自分自身で一歩踏み出す必要がある………社会の承認なんてものを振り捨てて。じっと待っていたり、システムをいじくったりしてるだけでは資本主義が倒れる(または資本主義の中に「祭り」が出現する)とは僕にはどうしても思えないのだ。好き嫌いは別にしても、やはり何かを手にしようとするなら、何かを失わなければならないのではないだろうか。何もかも与えられているなんてことがあるとは思えない。他の誰かに期待できないなら自分で自分を犠牲(実験台)にするしかない。それを普通「チャレンジ」とか「賭け」と呼ぶのだ。それがイヤならおとなしくしてればいいだけのことだ。
 そんな実感から僕はあの文章を書いた。それにただでさえ、祝祭とか逸脱なんて言い方はお気楽な戯れだと誤解されがちだしね。

 大仰な書き方であるのは僕も理解している。何故そのような書き方をするのかと言えば、まさに「誘惑」するためだ。共感してくれるにせよ、反発を感じるにせよ、食いついてくれる書き方をしたかった。それは成功するにせよ失敗に終わるにせよ、(きはむさんとも交わしたように)交流を求めてのことなのだ。
 自分のこうした主張が正しいものなのかわからない。が、少なくとも整合性はあると僕は思っているが………どうだろう?
02:53 | 思想など | comments (10) | trackbacks (0) | page top↑