Mon.

信者なき布教者

 またダメ出しをくらってしまった。しかも、きはむさん、被害妄想的な勘違いをしてるように見える。でも、布教者や僧侶よばわりは甘んじて受け入れよう(笑)。自分でもそんな風に見られてるんじゃないかと想像するから。
 僕が、「まず失う」ことを推奨し、自己犠牲を求め、阿片をまるで特効薬であるかのように装い、他人にも服用を勧める………なんて書かれちゃったけど、僕にそんなことってできるだろうか? 他者に実効的に何かを推奨したり、求めたり、勧めたりできるためには、僕に何らかの「強制力」=「権力」がなければならない。でなければ、僕の言うことなど相手にしないことだってできるだろう。どちらかと言えば、誰も僕の言うことなど本気で相手にしてないってのが、むしろ正当な評価じゃないだろうか? もし僕にできることがあるとすれば、他者に推奨したり、求めたりではなく、せいぜい「願う」ぐらいのことだろう。

 僕は「祭り」の実現=変革、という夢を抱いている。それへのアプローチは内田さんやきはむさんとは違うものだ(これについてはさんざん書いたし、話も噛み合ないからもういいだろう)。僕は、僕だったらこう考え、その考えに従ってこう生きる………という自分の生き方を提示する。それによって、みんなに僕の「祭り」を求める生き方をどう思うだろうかと問う。………僕がやってるのはこれだけだ。………僕の考えをわかってくれればうれしいし、共感してくれていっしょに「祭り」を追求してくれればなおうれしい。………「祭り」への意志とでもいったものが、大きく広がることが変革にもつながると思うからだ。

 しかし、前にも言った通り、僕は自分の考えを誰にも強制はできない。理解してほしいと願い、誘惑することしかできない。何かをしろとか、僕のように生きろ、と求めたり迫ったりできない。僕にできるのは理解されることを願いつつ、自分の生き方を人に示すことだけだ。自分だったらこう生きる、と。それが僕にとっての「交流」だ。………強制や操作ではなく。したがって僕は人に「自己犠牲」は求めない。心の中で願うことならあるかもしれないが。

 もし僕が、きはむさんのように社会や意識を「操作」する目的で、発言し行動するのだとすれば、話は別だ。「まず失う」ことを推奨し、まず自己犠牲が求められた上に、結果は保証されない。「祭り」が生む意識変革の行く末には資本主義の終焉が待っているがゆえに、資本主義を問題とする人々はすべからくこの「祭り」に参加することが望ましいとされる。……… と責められても仕方がないだろう。「操作」するとすれば、「操作」の結果に責任も持たなければならない。保証を求められもする。その「操作」に大勢の人が影響を被るからだ。そして「操作」する人は「強制力」=「権力」を持っているだろう。でないと実効的に操作はできないだろうから。しかし僕がやるべきなのは「操作」ではなく「交流」である。まず「交流」こそが第一の課題だと思うからだ。そのために必要なのは、(エリートの使命感から由来するような)結果への責任や保証ではなく、自分自身が「賭け」「闘争する」ことだ。人はそんな僕を見て、鼻で笑うなら笑えばいいし、共感するなら握手をする………それだけだ。今も、また将来的にも、人や社会を「操作」する権力は僕にはないだろう。そんなものには興味がないからだ。

 だから………明確な証左もなしに公言することは阿片を特効薬として勧めることに等しく、責められてしかるべきである………ってことにはならないだろう。僕には権力がないから強制もできず、それが仮に阿片だというのなら相手にしなければいいだけだからだ。
 もし、明確な証左のない自分の考えを示すことが、許されざるを得ない所業だと言うのなら、きっと責められてしかるべき、許されざるを得ないブロガーは腐るほどいるんじゃないだろうか。きっと世の中阿片だらけだろう。きはむさんのビジョンだって、明確な証左なんてあるとは思えないし。

 つまり、自分が語ってきたことは、自分の分析とビジョンに基づいて、自分はこう生きる、ということでしかない。他の人にもそう生きてもらえたらと願いつつそうするだけだ。

 それともうひとつ………僕は「まず失う」ことを推奨しないし、願いもしていない。「まず何かを失う」ことによって、将来的に何かを得る、なんてことは考えていない。あくまでも今この瞬間の「祭り」の実現について語っているのだ。つまり時間的なズレはない。
 たんてきに「祭り」は、支配的価値観からの解放であり、自己肯定のよろこびである。しかし同時的にそのよろこびは、ミクロな闘争によって、つまり、社会の承認をふりはらうかたちで支えられ、あがなわれているだろう、ということを言ってるわけだ。(前にも言った通り、前近代における共同体と「祭り」の関係と、近代におけるそれが変化した、ということを言いたくて僕は「犠牲」について語ったのだ。)
 目的という言い方をするなら、今この瞬間の「祭り」の実現が僕の「目的」だろう。しかしそれは未来時における変革のための「手段」にもなりうるものだ、というのが正しい。
 したがって僕の主張は、根拠薄弱であるか不明瞭である将来の「約束」を糧に、今の苦しみを耐え抜きましょう………というような、将来のための現在の犠牲を意味するものではない。きはむさんも自分で言ってるように、僕らは何かを得たぶん、何かを失っている。が、それは同時的にそうなのであって時間的ににズレてそうなのではない。むしろ僕は、きはむさんが、『こう批判している私も辛いのです。わかってくれ』ともらしていた言葉の中に、将来の「約束」を糧に、今の苦しみを耐え抜く、という時間的なズレを感じるのだ。
02:51 | 思想など | comments (4) | trackbacks (1) | page top↑