09.08.2005
TAROの訣別
岡本太郎はパリに遊学中のある日、シュルレアリストのマックス・エルンストにある集会に誘われた。第二次世界大戦前夜、1936年のことである。
ファシズム、スターリニズムなどの全体主義がヨーロッパに広がったこの頃、全体主義の非人間性に対抗するために『コントル・アタック(反撃)』という組織が企てられ、シュルレアリストとジョルジュ・バタイユのグループが長年の対立を解いて手を結ぼうとしていた。太郎が誘われたのはこの『コントル・アタック』という集会だった。そこで彼は初めてジョルジュ・バタイユを知り、この集会がその後の交流のきっかけになった。
太郎はバタイユやロジェ・カイヨワたちが中心になって進めていた『神聖社会学研究会』のオブザーバーとして名を連ね、ニーチェ読解や悲劇の研究を彼らとともに行った。(日本人である太郎に彼らは、日本の悲劇についての報告を求め、「能」の悲劇について太郎は研究会で発表している。)
また『社会学研究会』は裏の顔として秘密結社『無頭人(アセファル)』を持ち、夜の森の中で宗教的な(動物の殺害=生け贄の)儀式を執り行っていたという。
しかし研究会の活動にのめり込んでいた岡本太郎は、やがてメンバーたちの考えと大きなズレを抱くようになる。太郎は自伝でこう語っている。
僕は10代の頃この文章を読んで、岡本太郎がすごい人だというのはよくわかったが、このとき太郎が何にズレを感じてバタイユらの運動に訣別を告げなければならなかったのかは、いまのいままでピンとこなかった。
バタイユ研究の酒井健氏は、そのあたりの事情をこう解釈している。
ようするに岡本太郎がここで拒否しているのは、上ー下の権力関係ということになるだろう。<無頭人>は、頓挫した「コントル・アタック」の課題を引き継ぐかたちで、全体主義への人間の統合/隷属に対抗する、人間の「聖性(祝祭性)」を追求する実践であったはずだが、それがファシズムやスターリニズムなどと同様の位階的権力による支配/服従、上からの管理、操作を受ける、または自らが上に立って自分の意志を下に押しつける、という上ー下の関係によって追求されるのはおかしいのではないか………太郎が感じたのはこの矛盾であるように思える。
つまり、「認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志」とは、権力関係……他者を支配したり、支配されたりする関係の拒否だろう。したがってその意志は権力という意味では徹底的に無力であるとともに、上ー下のではなく、横の関係……すなわち「交流」を要請するはずだ。
実際、太郎が日本に帰国後、花田清輝や安部公房らと組織した芸術運動「夜の会」において追求されたのは、そのような横の「交流」関係であった。
「夜の会」結成のいいだしっぺは、岡本太郎と花田清輝であったし、彼らがツートップとなって運動をもり立てていたようだが、「夜の会」は岡本の会でも花田の会でもなかった。シュルレアリスムにおけるアンドレ・ブルトンのような、また<無頭人>におけるバタイユのような頭領はなく、位階組織ではまったくなかった。
「交流」とは、このような横の関係において徹底的に対立し、それぞれが自己主張しながら共存するということでなければならない。……弁証法の教えが、対立こそが事態を前進させるというものであるのなら。おそらく太郎がバタイユに訣別を告げたとき決意したのは、権力としては限りなく無力に、そして「交流」は限りなく激しくあるべきだ、ということだったのではないか。そしてこれが岡本太郎の「爆発」の正体だったのではないだろうか。
そして対立は、お互いの存在を認めないということを意味しない。太郎とバタイユの友情はその後も続いた、と本人も語っている通りである。多様性を認めるということは、このような横の「交流」関係を築くことなのである。そもそも上ー下の関係をとることは、単一の価値(権力)によって貫かれることに他ならないからだ。
余談だが、<無頭人>は、第二次世界大戦の勃発とともにバラバラに寸断された。ドイツ軍がパリに入る数日前には、元のメンバーはバタイユと太郎の二人しか残っていなかった。太郎は日本への帰国を決意し、別れを告げにパリの国立図書館へバタイユを訪ねた。
………両手を握りしめ、前につき出し、天井をにらみつける図書館の司書の姿はちょっとコミカルですらあるが、バタイユはこういう熱い人だったようだ。
ところで、杉村昌昭という人が、ガタリの社会論にひっかけて「分裂共生」という言葉を出しているのを本で読んだ。おそらく個々が自己の欲望を解放し多方向に特異性を追求しつつ、共存しようということだと思うが、たぶん岡本太郎が考えていたことも、それとは遠くないと思う。僕たちが多様な人間のあり方を肯定するなら、きっとこのような横の「交流」関係においてなされるはずだし、たぶんそのような「交流」の中からしか新しい社会のかたちや制度も構想し得ないのではないかと、僕はいまぼんやりと考えている。
トラックバック 『認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志』 〜大ブロ式〜
ファシズム、スターリニズムなどの全体主義がヨーロッパに広がったこの頃、全体主義の非人間性に対抗するために『コントル・アタック(反撃)』という組織が企てられ、シュルレアリストとジョルジュ・バタイユのグループが長年の対立を解いて手を結ぼうとしていた。太郎が誘われたのはこの『コントル・アタック』という集会だった。そこで彼は初めてジョルジュ・バタイユを知り、この集会がその後の交流のきっかけになった。
太郎はバタイユやロジェ・カイヨワたちが中心になって進めていた『神聖社会学研究会』のオブザーバーとして名を連ね、ニーチェ読解や悲劇の研究を彼らとともに行った。(日本人である太郎に彼らは、日本の悲劇についての報告を求め、「能」の悲劇について太郎は研究会で発表している。)
また『社会学研究会』は裏の顔として秘密結社『無頭人(アセファル)』を持ち、夜の森の中で宗教的な(動物の殺害=生け贄の)儀式を執り行っていたという。
しかし研究会の活動にのめり込んでいた岡本太郎は、やがてメンバーたちの考えと大きなズレを抱くようになる。太郎は自伝でこう語っている。
『……だがやがて私は何ともいえぬ矛盾を感じはじめた。純粋で精神的なこれらの運動にしても、結局のところそれは「権力の意志」だ。しかし、ひたすら権力意志をつらぬこうとする彼らのあり方に、私はどうしても調整できないズレを感じるのだ。もっと人間的な存在のスジがあるのではないか。
自分の意志を他に押しつけ、実現させようと挑む。と同時に、同じ強烈さで、認めさせたくないという意志が、私には働くのだ。これは幼い頃からいつでも心の奥に感じていたことだったが、いまはっきりと自覚された。理解され、承認されるということは他の中に解消してしまうことであり、つまり私、本来の存在がなくなってしまうことだからだ。
認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志。それが本当の人間存在の弁証法ではないのか。
私はその疑問を率直に手紙に書いて、バタイユにぶつけ、運動への訣別を告げたのだ。この手紙はバタイユを逆に感動させ、その後も互いの友情は続いた。』(『自伝抄』)
僕は10代の頃この文章を読んで、岡本太郎がすごい人だというのはよくわかったが、このとき太郎が何にズレを感じてバタイユらの運動に訣別を告げなければならなかったのかは、いまのいままでピンとこなかった。
バタイユ研究の酒井健氏は、そのあたりの事情をこう解釈している。
『ニーチェの「権力への意志」説はナチスがそのヨーロッパ制覇の政治理念に利用していただけに、バタイユはことのほかこれを憎悪していた。だが彼の批判意識はいまだ甘かったと言える。<無頭人>の頭領などあってはならぬ矛盾なのだ。彼は頭領として自分の宗教観を、様々な禁止事項、制度、プログラムを通して、同志たちに課していた。バタイユが宗教の原基として見ていた聖なるものは、根本的に、このような個体の支配欲とは背馳する非個体的な何ものかのことである。バタイユはそのことを知っていたはずだ。「通約不可能なもの」「まったく他なるもの」と言って、聖なるものの非個体性を強調していたのだから。岡本の批判、そして岡本をはじめ次々と続いた同志たちの離反は、バタイユに聖なるものの原点へ、あの深夜の夜の森の神秘性そのものへ、帰るように促したと言える。』(『夜の遺言』)
ようするに岡本太郎がここで拒否しているのは、上ー下の権力関係ということになるだろう。<無頭人>は、頓挫した「コントル・アタック」の課題を引き継ぐかたちで、全体主義への人間の統合/隷属に対抗する、人間の「聖性(祝祭性)」を追求する実践であったはずだが、それがファシズムやスターリニズムなどと同様の位階的権力による支配/服従、上からの管理、操作を受ける、または自らが上に立って自分の意志を下に押しつける、という上ー下の関係によって追求されるのはおかしいのではないか………太郎が感じたのはこの矛盾であるように思える。
つまり、「認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志」とは、権力関係……他者を支配したり、支配されたりする関係の拒否だろう。したがってその意志は権力という意味では徹底的に無力であるとともに、上ー下のではなく、横の関係……すなわち「交流」を要請するはずだ。
実際、太郎が日本に帰国後、花田清輝や安部公房らと組織した芸術運動「夜の会」において追求されたのは、そのような横の「交流」関係であった。
『われわれアバンギャルド芸術家は、相互の無慈悲な対立と闘争によってクリエートする。集団の力に頼る甘い考えは毛頭ない。相互の絶対非妥協性こそわれわれの推進力となるものである。』(『夜の会』)
「夜の会」結成のいいだしっぺは、岡本太郎と花田清輝であったし、彼らがツートップとなって運動をもり立てていたようだが、「夜の会」は岡本の会でも花田の会でもなかった。シュルレアリスムにおけるアンドレ・ブルトンのような、また<無頭人>におけるバタイユのような頭領はなく、位階組織ではまったくなかった。
「交流」とは、このような横の関係において徹底的に対立し、それぞれが自己主張しながら共存するということでなければならない。……弁証法の教えが、対立こそが事態を前進させるというものであるのなら。おそらく太郎がバタイユに訣別を告げたとき決意したのは、権力としては限りなく無力に、そして「交流」は限りなく激しくあるべきだ、ということだったのではないか。そしてこれが岡本太郎の「爆発」の正体だったのではないだろうか。
そして対立は、お互いの存在を認めないということを意味しない。太郎とバタイユの友情はその後も続いた、と本人も語っている通りである。多様性を認めるということは、このような横の「交流」関係を築くことなのである。そもそも上ー下の関係をとることは、単一の価値(権力)によって貫かれることに他ならないからだ。
余談だが、<無頭人>は、第二次世界大戦の勃発とともにバラバラに寸断された。ドイツ軍がパリに入る数日前には、元のメンバーはバタイユと太郎の二人しか残っていなかった。太郎は日本への帰国を決意し、別れを告げにパリの国立図書館へバタイユを訪ねた。
『………最後の一人である私が帰国することをつげると、かれはグッと両手を握りしめ、前につき出し、天井の一角をにらみつけた。
「こんなことで、決して挫折させられはしない。いまに見給え。再びわれわれの意志は結集され、情熱のボイラーは爆発するだろう。」
孤独な彼の両眼は血の色をしていた。』(『わが友……ジョルジュ・バタイユ』)
………両手を握りしめ、前につき出し、天井をにらみつける図書館の司書の姿はちょっとコミカルですらあるが、バタイユはこういう熱い人だったようだ。
ところで、杉村昌昭という人が、ガタリの社会論にひっかけて「分裂共生」という言葉を出しているのを本で読んだ。おそらく個々が自己の欲望を解放し多方向に特異性を追求しつつ、共存しようということだと思うが、たぶん岡本太郎が考えていたことも、それとは遠くないと思う。僕たちが多様な人間のあり方を肯定するなら、きっとこのような横の「交流」関係においてなされるはずだし、たぶんそのような「交流」の中からしか新しい社会のかたちや制度も構想し得ないのではないかと、僕はいまぼんやりと考えている。
トラックバック 『認めさせたい、と同時に認めさせたくない、させないという意志』 〜大ブロ式〜
| ホーム |