11.16.2005
祭りの戦士は前線に立ち続ける
ぐるぐると考えを巡らせるだけで、自分でもはっきり答えが出ないでいたのだが、やっぱり……すべての問題が解決されてしまった完全に自由な社会……完全な制度……つまりユートピアみたいなもの……なんてどこにもないし、これからも実現することはないよなあ……という考えに戻ってきてしまう。このところ多様性みたいなこと考えてるから、多様性を認める社会なんてものを頭の中に想い描いたりするし、どのようにそういった社会が実現するのかという道筋を考えてみたりもする。……しかし、どうも虚しくなってくるのは、そのような社会が制度として実現するとは自分でも思ってないからなのだ。というのも、多様性や自由や幸福みたいなものは、社会や制度によって与えられるものだとは僕には思えないからなのだ。結局そういった精神的な価値は社会から自分たちの力で闘いとられなければならないものなんじゃないかと思っている。
現在の社会のように妙なプレッシャーをかけられることなく、そのままでみんなが食って行ける社会の実現……というのはかなり現実的な、ひょっとすると遠からず出現してもおかしくない具体的な変革の課題として僕らの前にある。そのための努力はあらゆるやり方でするべきだろう。が、仮にそのような社会が実現したとしても、そこが自由な空間であるのかと言えば……やはり違うと思う。
制度というものは、よかれと思って作られた瞬間に抑圧的な面を現し始める。逆に言うと人間の欲望は常に制度をはみ出すものなのであって、制度によって掬いきれない部分を常態として持っていると言っていい。だからどうしても、決定的なかたちで革命的な社会システムを作ってやれば自由や多様性があふれ出してくる………といった夢の状況が僕には描けないでいるのだ。きっといつだって社会の現実は僕らの前に否定すべきものとして現れて来ざるを得ない。元も子もないみたいだが、多様で自由な、抑圧や管理のない、権力なき社会……そんなものどこまで行っても現れちゃ来ないんだ………というところから考え始めるべきではないのだろうか。
しかし夢の目的地がないとなると、僕らの生はひたすら抑圧的な制度に抵抗し、告発し、見直し、変え続けるといういわゆる永久革命のようなものでしかなくなるだろう。どこまで行っても終局的な状況にたどりつけないとなると、何のために闘うのだ? 何のために変革するのか?……確たる結果を得ることがないとなるとその闘いは徒労ではないのか、という疑問が出てくる。
それに多様性や自由が闘って勝ち取るべきものであるなら、むしろ社会は抑圧的であったほうがいいのではないか………抑圧や管理がなくなってしまったら勝ち取るべき自由もなくなってしまうわけだから。となると、現状の管理社会のままでいいじゃないか、そもそも社会を変革する必要もないということになり現状維持こそが求められる……と批判もしたくなってくるだろう。というか僕自身がそんなふうな疑問にとりつかれていたので、これはどうしたものかとぐるぐる考えを巡らせていたというわけだ。
このように考えてしまうのにはたぶん二つの原因がある。一つは、まだどこかで自由で抑圧なきユートピアの可能性を信じているということだ。信じているからこそ「抑圧や管理がなくなってしまったら、勝ち取るべき自由もなくなってしまう」などという仮定をしてしまうのだ。そんな状態はありはしない。当然ながら理不尽な制度は変えるべきだ。インチキを告発し、公正な条件を作ることが間違っているとは思えない。それでも人間の欲望は常に予想を越えた全く新しい容貌で制度をはみ出してくるだろう。………そういう前提からはじめれば、現状を維持するまでもなく制度が逆に僕らの手かせ足かせになるのは必然であり、常に僕らは何が自分たちを縛っているのかを見抜き、それを乗り越えることを強いられるのだ。
そしてもう一つ、そのような闘いの連続がシーシュポスの神話のごとき徒労に思えるのも、やはり終局的なユートピアを想定しているからというのと、闘争の状態を何か人間の上にのしかかる負荷である、と単純に考えてしまうことにあるように思う。むしろ何も負荷のかからない状態は退屈で耐え難いものですらあるかもしれない。人間はあまりにも満たされ退屈であれば、自分で自分を試練に投げ込み自ら重荷を背負いすらする。人にもより程度にもよるだろうがそれは単純に荷を背負うことが「おもしろい」からだろう。少なくとも僕の実感ではそうだ。だって、ただ自分の利益を考え生存に配慮するだけであればやる必要もないことに人はみな首をつっこんでいるじゃないか。
もっとも望みもしない重荷を押しつけられたり、本来望まぬ重荷であるはずのものを自発的に喜んで背負いこむようになってしまう、というのは問題である。現在の社会で僕らが競争に積極的に参加してしまうのは、煽られ、脅されているからだけではなく、何かを背負い込みたいという欲望によるところも大きいだろう。働いていないと不安になったり、何をやっていいかわからなくなってしまうワーカーホーリックが少なくないが、それは負荷なき状態を僕らは望んでるわけではないからではないだろうか。だからこそ僕らは自分で何を本当に欲望しているかを見抜かなければならない。
まずきっぱり楽観的なユートピアの可能性を捨てよう。多様性や自由は社会制度によって与えられるものではなくて闘いとらなければならないことを改めて自分に言い聞かせよう。僕らの目の前にあるのはいつでも抑圧であり、管理であり、権力の空間なのであって、社会は巧妙に僕らを支配してくるに違いないということを……。そしてそのような支配を見抜くために僕らは自らの知性と本能を磨き続けなければならないってことを。
僕が自らに望むのは、社会と欲望のズレを告発するために常に前線に立ち続けるということだ。それは自らの身体を拡声器として、社会と欲望のぶつかりや軋み合いによって発生する不協和音を発信することだと言ってもいい。そのような不協和音が社会に鳴り響かなければ、どこに変革するべき部分があるのかすらわからないだろう。その不協和音によって社会が僕らを管理し、支配し続けている事実を明るみに出したい。そのために僕は自分の特異な欲望と生命を肯定する。で、きっとその肯定は社会の側からは常に「逸脱」と映るだろう。そして逸脱者にはおそらく何らかの「生きづらさ」がシッペ返しとして社会からプレゼントされるはずである。そのありがたいプレゼントを受け取りつつ、ギリギリのところで生き延びてみせる。社会の管理や支配を見抜くためにはそれだけの覚悟を引き受ける戦士が必要なのだ。そして自分の生命が許す限り遠くまで進撃しよう。それが祭りの戦士のスリリングな使命である。自由や多様性はユートピアにではなく、そのような前線にのみ存在すると僕は信じる。
たとえば上山和樹さんがこんなことを書いている。
もっともだと思う。自分が生き延びるために現行の社会は大いに利用してしまえばいい。しかし戦士であるために僕はもう一歩前に出たいと思う。たぶん間違いなく「間に合わない」し、社会が「全員を救う」ことなどできるはずもない。が、「間に合うことなど期待しないし、社会に救われたいとは思わない」………戦士たらんとすればこう言わなければならない。
現在の社会のように妙なプレッシャーをかけられることなく、そのままでみんなが食って行ける社会の実現……というのはかなり現実的な、ひょっとすると遠からず出現してもおかしくない具体的な変革の課題として僕らの前にある。そのための努力はあらゆるやり方でするべきだろう。が、仮にそのような社会が実現したとしても、そこが自由な空間であるのかと言えば……やはり違うと思う。
制度というものは、よかれと思って作られた瞬間に抑圧的な面を現し始める。逆に言うと人間の欲望は常に制度をはみ出すものなのであって、制度によって掬いきれない部分を常態として持っていると言っていい。だからどうしても、決定的なかたちで革命的な社会システムを作ってやれば自由や多様性があふれ出してくる………といった夢の状況が僕には描けないでいるのだ。きっといつだって社会の現実は僕らの前に否定すべきものとして現れて来ざるを得ない。元も子もないみたいだが、多様で自由な、抑圧や管理のない、権力なき社会……そんなものどこまで行っても現れちゃ来ないんだ………というところから考え始めるべきではないのだろうか。
しかし夢の目的地がないとなると、僕らの生はひたすら抑圧的な制度に抵抗し、告発し、見直し、変え続けるといういわゆる永久革命のようなものでしかなくなるだろう。どこまで行っても終局的な状況にたどりつけないとなると、何のために闘うのだ? 何のために変革するのか?……確たる結果を得ることがないとなるとその闘いは徒労ではないのか、という疑問が出てくる。
それに多様性や自由が闘って勝ち取るべきものであるなら、むしろ社会は抑圧的であったほうがいいのではないか………抑圧や管理がなくなってしまったら勝ち取るべき自由もなくなってしまうわけだから。となると、現状の管理社会のままでいいじゃないか、そもそも社会を変革する必要もないということになり現状維持こそが求められる……と批判もしたくなってくるだろう。というか僕自身がそんなふうな疑問にとりつかれていたので、これはどうしたものかとぐるぐる考えを巡らせていたというわけだ。
このように考えてしまうのにはたぶん二つの原因がある。一つは、まだどこかで自由で抑圧なきユートピアの可能性を信じているということだ。信じているからこそ「抑圧や管理がなくなってしまったら、勝ち取るべき自由もなくなってしまう」などという仮定をしてしまうのだ。そんな状態はありはしない。当然ながら理不尽な制度は変えるべきだ。インチキを告発し、公正な条件を作ることが間違っているとは思えない。それでも人間の欲望は常に予想を越えた全く新しい容貌で制度をはみ出してくるだろう。………そういう前提からはじめれば、現状を維持するまでもなく制度が逆に僕らの手かせ足かせになるのは必然であり、常に僕らは何が自分たちを縛っているのかを見抜き、それを乗り越えることを強いられるのだ。
そしてもう一つ、そのような闘いの連続がシーシュポスの神話のごとき徒労に思えるのも、やはり終局的なユートピアを想定しているからというのと、闘争の状態を何か人間の上にのしかかる負荷である、と単純に考えてしまうことにあるように思う。むしろ何も負荷のかからない状態は退屈で耐え難いものですらあるかもしれない。人間はあまりにも満たされ退屈であれば、自分で自分を試練に投げ込み自ら重荷を背負いすらする。人にもより程度にもよるだろうがそれは単純に荷を背負うことが「おもしろい」からだろう。少なくとも僕の実感ではそうだ。だって、ただ自分の利益を考え生存に配慮するだけであればやる必要もないことに人はみな首をつっこんでいるじゃないか。
もっとも望みもしない重荷を押しつけられたり、本来望まぬ重荷であるはずのものを自発的に喜んで背負いこむようになってしまう、というのは問題である。現在の社会で僕らが競争に積極的に参加してしまうのは、煽られ、脅されているからだけではなく、何かを背負い込みたいという欲望によるところも大きいだろう。働いていないと不安になったり、何をやっていいかわからなくなってしまうワーカーホーリックが少なくないが、それは負荷なき状態を僕らは望んでるわけではないからではないだろうか。だからこそ僕らは自分で何を本当に欲望しているかを見抜かなければならない。
まずきっぱり楽観的なユートピアの可能性を捨てよう。多様性や自由は社会制度によって与えられるものではなくて闘いとらなければならないことを改めて自分に言い聞かせよう。僕らの目の前にあるのはいつでも抑圧であり、管理であり、権力の空間なのであって、社会は巧妙に僕らを支配してくるに違いないということを……。そしてそのような支配を見抜くために僕らは自らの知性と本能を磨き続けなければならないってことを。
僕が自らに望むのは、社会と欲望のズレを告発するために常に前線に立ち続けるということだ。それは自らの身体を拡声器として、社会と欲望のぶつかりや軋み合いによって発生する不協和音を発信することだと言ってもいい。そのような不協和音が社会に鳴り響かなければ、どこに変革するべき部分があるのかすらわからないだろう。その不協和音によって社会が僕らを管理し、支配し続けている事実を明るみに出したい。そのために僕は自分の特異な欲望と生命を肯定する。で、きっとその肯定は社会の側からは常に「逸脱」と映るだろう。そして逸脱者にはおそらく何らかの「生きづらさ」がシッペ返しとして社会からプレゼントされるはずである。そのありがたいプレゼントを受け取りつつ、ギリギリのところで生き延びてみせる。社会の管理や支配を見抜くためにはそれだけの覚悟を引き受ける戦士が必要なのだ。そして自分の生命が許す限り遠くまで進撃しよう。それが祭りの戦士のスリリングな使命である。自由や多様性はユートピアにではなく、そのような前線にのみ存在すると僕は信じる。
たとえば上山和樹さんがこんなことを書いている。
何度でも繰り返し言うべきだ。 「社会を変えてゆく」必要はあるし、そのためにできることもしたい。しかし、それは僕やあなたのために「間に合わない」かもしれない。 どんな社会でも、「全員を救う」ことはできない。 生き延びるためには――生き延びなければ活動もできない――、既存社会のルールのままで自分を専門特化し、「勝ち残る」必要がある、少なくともそういう要因を無視して生き延びられると夢想するのは、命取りだと思う。 生き延びるための努力と、環境を改善するための努力は、並行する必要がある。
もっともだと思う。自分が生き延びるために現行の社会は大いに利用してしまえばいい。しかし戦士であるために僕はもう一歩前に出たいと思う。たぶん間違いなく「間に合わない」し、社会が「全員を救う」ことなどできるはずもない。が、「間に合うことなど期待しないし、社会に救われたいとは思わない」………戦士たらんとすればこう言わなければならない。
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