12.11.2005
コミュニケーション・スキル3
以前、僕の「コミュニケーション・スキル2」というエントリーが難しいとチャマさんの頭を悩ませてしまったようですので、トラックバックをいただいたのをいい機会としてもう一度スッキリこの問題を整理してみたいと思います。基本的には新しい要素は何も加わっていません。同じようなことを感じてる人はいっぱいいるわけですし、今回はただ自分自身の頭の中を整理するためだけにちょっと書いてみます。
つまりこういうことでどうでしょうか?
一言でいって、僕は生きることそのものがコミュニケーションだと思っているわけです。したがってチャマさんがおっしゃってるような、何気なく生き延びるために行ってることも当然立派なコミュニケーションだし、死の匂いのするような激情もコミュニケーションなのであって、その意味でやはりチャマさんのおっしゃってることと、僕の考えてることはそれほど違うとは思えません。
むしろ僕が問題にしたいのは、そのような自然に行ってるコミュニケーションを「スキル(技術・能力)」として考えること……だと言っていいでしょう。いつのころからか「コミュニケーション・スキル」なんて言い方が世の中に広まってきましたが、それはなぜなのかということです。
コミュニケーションを「技術」と捉えることが何を意味するのかと言うと、生きてる以上誰もが瞬間瞬間当然行っているはずのことの中に一つの尺度を持ち込み、「コミュニケーション技術」が卓越した人、ほどほどの人、欠落した人、といった具合に他人との比較によって能力的な格差をつけることができるようになるということです。つまり、社会生活上の人間関係で起こってきたイレギュラー(例えば不登校)をコミュニケーション技術および能力の欠如や欠陥として、つまり何らかの個人的でネガティブな「病気」と見なすことを可能にします。(チャマさんもよくわかってらっしゃるとおり)不登校の例でいうと、布団にもぐり込んで石地蔵状態になっている子供は、明らかにコミュニケーションを試みています。自分で自分の気持ちをうまく説明できない子供が体全体でメッセージを発してるわけですね。
ところがコミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんかは、これを子供の性格上の欠陥、正常な集団生活を送る(コミュニケーション)能力の欠如として捉えてしまいます。そうすることで、僕らが聞き耳を立てなければならぬ小さな叫びを……この社会には何か問題があるのだというミクロな告発を叩き潰しつつ、君は病気なのだと断罪するわけです。おまけに、そのような子供に育ててしまった親の子育て能力にも問題がある……といった具合に両親にまでプレッシャーをかけることも可能になってくるわけです。
さらにコミュニケーションを「スキル」として格差、序列をつけることで、僕たちはより有利に生きるための競争状態に投げ込まれ、煽り立てられるという可能性が出てきます。つまりそのような価値の尺度=物差しを僕らは積極的に受け入れ、内面化し、その物差しに則った競争に自発的に従属するわけです。おそらくここで社会学者の果たしている役割は、学者という権威をもってして、そのような価値の尺度を高みから僕たちに押しつけてくること……現在の社会がよって立つ物差しに箔を付けることだと言っていいでしょう。
このような社会学者などがある種の人間関係の問題を、個人の欠陥(コミュニケーション能力の欠如)や病気に由来すると見なすとき、そこには何らかの正常/病気の境界線を引く、人間についての判断が含まれています。つまりある正常な人間像があって、そこから外れる人間を欠陥や病気と見なす視点が含まれています。
要するにこれらの社会学者が前提にしているのは、人間はとにかく社会に適応すべきであり、それができない者は欠陥品なのだ……という現在の社会体制の太鼓持ち的な発想です。彼らは「システムの価値観に従属しない存在」=「社会に適応できず、周囲との適切なコミュニケーションをとれない、あるいは、とらない人間」を「病気」として扱い、人間失格の烙印を押し、あなたもシステムに従わないと欠陥品として扱われますよとやんわりと脅し、システムのよって立つ物差しへの積極的なコミットメントを煽るわけです。しっかりと社会について来ないとつらい人生が待ってるぜ……ってわけです。この「スキル(技術・能力)」という発想は、最近よくいわれる「自己責任」とか「自己決定」などの言葉が僕らに押しつけてくるプレッシャーと共通のものだと思います。一言でいってコミュニケーション・スキルという発想は、自発的な社会への服従を促すものであるとともに、「社会には逆らうなよ」という脅迫をオブラートに包んでいる概念装置だと言っていいかもしれません。
繰り返し言いたいのですが、生きることは即コミュニケーションです。ギクリとするような異様な行動や反応をする存在を目の当たりにして困惑するにしろ、僕らはそれを積極的なメッセージとして理解しようとするべきです。少なくとも社会学者や心理学者であればそうしなければならない。なのにそれを理解しようともせずに、コミュニケーション・スキルなんていう概念を現実と学問の間に差し挟んで、社会問題を個人の能力の欠陥や病気に還元してしまうとすれば、それは学者の仕事というよりそもそものはじめから現行体制をヨイショするものでしかありません。いつだったかチャマさんのブログに出てきた箱庭療法のカウンセラーの話と全く同じですよね。コミュニケーション・スキルだなんて言いながら、コミュニケーションのセンスが全く感じられないのは、笑いたくても笑えない話です。今まで僕は内田樹さんの書いたものに散々ケチをつけてきましたが、なぜかと言えばこの人の中に典型的なシステムの太鼓持ちを見るからなんです。ちょっと前にもこの人は「コミュニケーション失調症候群」なんて言葉を発明して最近の学生には欠陥があるみたいなことを書いてたんですよね。これは「コミュニケーション・スキル」という言葉でなされているのと全く同様な事態の捏造です。コミュニケーション能力に欠陥がある人ってのは、むしろこういう人たちだと思うのですがね(笑)。
つまりこういうことでどうでしょうか?
一言でいって、僕は生きることそのものがコミュニケーションだと思っているわけです。したがってチャマさんがおっしゃってるような、何気なく生き延びるために行ってることも当然立派なコミュニケーションだし、死の匂いのするような激情もコミュニケーションなのであって、その意味でやはりチャマさんのおっしゃってることと、僕の考えてることはそれほど違うとは思えません。
むしろ僕が問題にしたいのは、そのような自然に行ってるコミュニケーションを「スキル(技術・能力)」として考えること……だと言っていいでしょう。いつのころからか「コミュニケーション・スキル」なんて言い方が世の中に広まってきましたが、それはなぜなのかということです。
コミュニケーションを「技術」と捉えることが何を意味するのかと言うと、生きてる以上誰もが瞬間瞬間当然行っているはずのことの中に一つの尺度を持ち込み、「コミュニケーション技術」が卓越した人、ほどほどの人、欠落した人、といった具合に他人との比較によって能力的な格差をつけることができるようになるということです。つまり、社会生活上の人間関係で起こってきたイレギュラー(例えば不登校)をコミュニケーション技術および能力の欠如や欠陥として、つまり何らかの個人的でネガティブな「病気」と見なすことを可能にします。(チャマさんもよくわかってらっしゃるとおり)不登校の例でいうと、布団にもぐり込んで石地蔵状態になっている子供は、明らかにコミュニケーションを試みています。自分で自分の気持ちをうまく説明できない子供が体全体でメッセージを発してるわけですね。
ところがコミュニケーション・スキルを云々する社会学者や心理学者なんかは、これを子供の性格上の欠陥、正常な集団生活を送る(コミュニケーション)能力の欠如として捉えてしまいます。そうすることで、僕らが聞き耳を立てなければならぬ小さな叫びを……この社会には何か問題があるのだというミクロな告発を叩き潰しつつ、君は病気なのだと断罪するわけです。おまけに、そのような子供に育ててしまった親の子育て能力にも問題がある……といった具合に両親にまでプレッシャーをかけることも可能になってくるわけです。
さらにコミュニケーションを「スキル」として格差、序列をつけることで、僕たちはより有利に生きるための競争状態に投げ込まれ、煽り立てられるという可能性が出てきます。つまりそのような価値の尺度=物差しを僕らは積極的に受け入れ、内面化し、その物差しに則った競争に自発的に従属するわけです。おそらくここで社会学者の果たしている役割は、学者という権威をもってして、そのような価値の尺度を高みから僕たちに押しつけてくること……現在の社会がよって立つ物差しに箔を付けることだと言っていいでしょう。
このような社会学者などがある種の人間関係の問題を、個人の欠陥(コミュニケーション能力の欠如)や病気に由来すると見なすとき、そこには何らかの正常/病気の境界線を引く、人間についての判断が含まれています。つまりある正常な人間像があって、そこから外れる人間を欠陥や病気と見なす視点が含まれています。
要するにこれらの社会学者が前提にしているのは、人間はとにかく社会に適応すべきであり、それができない者は欠陥品なのだ……という現在の社会体制の太鼓持ち的な発想です。彼らは「システムの価値観に従属しない存在」=「社会に適応できず、周囲との適切なコミュニケーションをとれない、あるいは、とらない人間」を「病気」として扱い、人間失格の烙印を押し、あなたもシステムに従わないと欠陥品として扱われますよとやんわりと脅し、システムのよって立つ物差しへの積極的なコミットメントを煽るわけです。しっかりと社会について来ないとつらい人生が待ってるぜ……ってわけです。この「スキル(技術・能力)」という発想は、最近よくいわれる「自己責任」とか「自己決定」などの言葉が僕らに押しつけてくるプレッシャーと共通のものだと思います。一言でいってコミュニケーション・スキルという発想は、自発的な社会への服従を促すものであるとともに、「社会には逆らうなよ」という脅迫をオブラートに包んでいる概念装置だと言っていいかもしれません。
繰り返し言いたいのですが、生きることは即コミュニケーションです。ギクリとするような異様な行動や反応をする存在を目の当たりにして困惑するにしろ、僕らはそれを積極的なメッセージとして理解しようとするべきです。少なくとも社会学者や心理学者であればそうしなければならない。なのにそれを理解しようともせずに、コミュニケーション・スキルなんていう概念を現実と学問の間に差し挟んで、社会問題を個人の能力の欠陥や病気に還元してしまうとすれば、それは学者の仕事というよりそもそものはじめから現行体制をヨイショするものでしかありません。いつだったかチャマさんのブログに出てきた箱庭療法のカウンセラーの話と全く同じですよね。コミュニケーション・スキルだなんて言いながら、コミュニケーションのセンスが全く感じられないのは、笑いたくても笑えない話です。今まで僕は内田樹さんの書いたものに散々ケチをつけてきましたが、なぜかと言えばこの人の中に典型的なシステムの太鼓持ちを見るからなんです。ちょっと前にもこの人は「コミュニケーション失調症候群」なんて言葉を発明して最近の学生には欠陥があるみたいなことを書いてたんですよね。これは「コミュニケーション・スキル」という言葉でなされているのと全く同様な事態の捏造です。コミュニケーション能力に欠陥がある人ってのは、むしろこういう人たちだと思うのですがね(笑)。
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