01.19.2006
コミュニケーション・スキル4
年末にterracaoさんからコミュニケーション・スキルに対抗する能力はないものか……というお題をいただいていたのですが、時間がなくて返事ができませんでした。遅ればせながら考えてみたところ、ポッと浮かんできた答えは「コミュニケーション・スキル」に対抗するものはそれ自体「能力」ではないだろうってことでした。一言でいえばやはり「コミュニケーション・スキル」に対抗するものは「賭け」るという態度だということになると思います。
コミュニケーション・スキルという言い方は、ある目的なり結果なりを冷徹に追求すること、すなわち計算された行動を前提に考えられています。現行の社会においてこの言葉が使われる文脈は、サバイバル=生き延び、生存競争を勝ち抜くために、適切に人間関係をやり繰りしてゆける「手段」として考えられていることは間違いないでしょう。食いっぱぐれがないように、そしてできることならより高い社会的地位へと上昇できるようにこの「能力」を駆使するという、計算に基づいた処世術としてこの「コミュニケーション・スキル」は理解できると思います。
逆にこれをひっくり返して考えれば、コミュニケーション・スキルを相殺するものがなんであるか見えてくると思います。それはきっと無目的で、結果や達成を求めることよりもプロセスそのものに意味を見いだそうとするような人間同士のやり取りそのもの……ということになるんじゃないでしょうか。何かへ向けての「能力=手段」なのではなくて……。それを僕はバタイユに倣って「交流」と呼んできました。
(そもそも「交流」という言葉自体、フランス語のコミュニカシオンの訳語なので、これも結局コミュニケーションのことです。ただどうにも僕が腹立たしいのは、コミュニケーションを能力ととらえることによって、コミュニケーションそのものを処世術や計算にまで切り縮めててしまうこと……当然僕らは計算なしで生きてくことなどできないでしょうし、日々この能力を行使しているはずで、それも確かにコミュニケーションには違いないのでしょうが、生き延びてゆくという目的に沿っていないところでの無目的な人間関係についてはバッサリと切り落として問題にされていないところです。)
何度も書いてきましたが、「能力」という発想はそもそも他人との比較という単一で外的な基準で優劣を測るものであるわけですから、「能力」への対抗は他人との比較によらない価値によるべきだと思います。とすればそれは各人個々の主観的な感動をもとにした多様な価値とでも言ったものになるはずです。
他人や社会がどのような評価を下そうとも、自分で自分の生き方に手応えを感じる……生きていることが面白くって仕方がない……そんなことを感じることはよくあることだと思います。そのような形で主観的な感動により自己を肯定することを、「コミュニケーション・スキル」だとか、「人間力」だとか、「対人能力」みたいな怪しい概念の対抗馬にすべきだと僕は思います。
とはいうものの、これほど困難な課題はありません。なにしろ多様な価値を肯定することは、現行の社会が暗に押し付けてきている単一の価値観(この社会に従属せよ!)に真っ向から対立するものであるだろうからです。僕たちは生き延びるためにはとにかく社会と歩調を合わせなければならないわけですから、自分の特異な価値感を正面から打ち出そうとすることは自ら社会の中で生きづらくすることであり、生存にとっては危険な選択ですらあります。始めに僕は「賭け」るという言い方をしましたが、それはつまり僕たちはあえてこの困難に挑戦すべきだと考えているからです。
もちろん、そんなことを言う前に多様性を認めない社会をまずなんとかすべきだ、という意見は理解できます。が、いつの日かより良い社会が実現することになったとしても、それと実際に自分自身の生に手応えを感じ、毎日をおもしろく彩ることができるかということは別問題だと思うのです。僕たちがどの時代のどんな社会にどんな条件で生まれてくるのか……「神のみぞ知る」なわけですが、どんな社会に生きていようとも、とにかく僕たちは現在のこの瞬間を可能な限り特異な彩りで満たすべきでしょう。
単純に僕は、このように結果を目的としない「賭け」ることの意義(多様な価値)を社会に押し広げることによって、「コミュニケーション・スキル」のような支配の言葉を萎えさせることが可能になる……というか萎えさせなければならないと考えています。
今この瞬間を「賭け」に投じ、生命を燃焼させることによって、僕らを惑わす支配の言葉を焼き捨ててしまえ!
コミュニケーション・スキルという言い方は、ある目的なり結果なりを冷徹に追求すること、すなわち計算された行動を前提に考えられています。現行の社会においてこの言葉が使われる文脈は、サバイバル=生き延び、生存競争を勝ち抜くために、適切に人間関係をやり繰りしてゆける「手段」として考えられていることは間違いないでしょう。食いっぱぐれがないように、そしてできることならより高い社会的地位へと上昇できるようにこの「能力」を駆使するという、計算に基づいた処世術としてこの「コミュニケーション・スキル」は理解できると思います。
逆にこれをひっくり返して考えれば、コミュニケーション・スキルを相殺するものがなんであるか見えてくると思います。それはきっと無目的で、結果や達成を求めることよりもプロセスそのものに意味を見いだそうとするような人間同士のやり取りそのもの……ということになるんじゃないでしょうか。何かへ向けての「能力=手段」なのではなくて……。それを僕はバタイユに倣って「交流」と呼んできました。
(そもそも「交流」という言葉自体、フランス語のコミュニカシオンの訳語なので、これも結局コミュニケーションのことです。ただどうにも僕が腹立たしいのは、コミュニケーションを能力ととらえることによって、コミュニケーションそのものを処世術や計算にまで切り縮めててしまうこと……当然僕らは計算なしで生きてくことなどできないでしょうし、日々この能力を行使しているはずで、それも確かにコミュニケーションには違いないのでしょうが、生き延びてゆくという目的に沿っていないところでの無目的な人間関係についてはバッサリと切り落として問題にされていないところです。)
何度も書いてきましたが、「能力」という発想はそもそも他人との比較という単一で外的な基準で優劣を測るものであるわけですから、「能力」への対抗は他人との比較によらない価値によるべきだと思います。とすればそれは各人個々の主観的な感動をもとにした多様な価値とでも言ったものになるはずです。
他人や社会がどのような評価を下そうとも、自分で自分の生き方に手応えを感じる……生きていることが面白くって仕方がない……そんなことを感じることはよくあることだと思います。そのような形で主観的な感動により自己を肯定することを、「コミュニケーション・スキル」だとか、「人間力」だとか、「対人能力」みたいな怪しい概念の対抗馬にすべきだと僕は思います。
とはいうものの、これほど困難な課題はありません。なにしろ多様な価値を肯定することは、現行の社会が暗に押し付けてきている単一の価値観(この社会に従属せよ!)に真っ向から対立するものであるだろうからです。僕たちは生き延びるためにはとにかく社会と歩調を合わせなければならないわけですから、自分の特異な価値感を正面から打ち出そうとすることは自ら社会の中で生きづらくすることであり、生存にとっては危険な選択ですらあります。始めに僕は「賭け」るという言い方をしましたが、それはつまり僕たちはあえてこの困難に挑戦すべきだと考えているからです。
もちろん、そんなことを言う前に多様性を認めない社会をまずなんとかすべきだ、という意見は理解できます。が、いつの日かより良い社会が実現することになったとしても、それと実際に自分自身の生に手応えを感じ、毎日をおもしろく彩ることができるかということは別問題だと思うのです。僕たちがどの時代のどんな社会にどんな条件で生まれてくるのか……「神のみぞ知る」なわけですが、どんな社会に生きていようとも、とにかく僕たちは現在のこの瞬間を可能な限り特異な彩りで満たすべきでしょう。
単純に僕は、このように結果を目的としない「賭け」ることの意義(多様な価値)を社会に押し広げることによって、「コミュニケーション・スキル」のような支配の言葉を萎えさせることが可能になる……というか萎えさせなければならないと考えています。
今この瞬間を「賭け」に投じ、生命を燃焼させることによって、僕らを惑わす支配の言葉を焼き捨ててしまえ!
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