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資本主義社会における贈与とは反抗することである

 不快という貨幣 (内田樹の研究室)

 やはり働かない若者がお気に召さないのだとしか思えません。もう内田先生のブログは自分のRSSリーダーからはずして久しいのですが、やはりどこかから目に入ってきてしまうんですね。で、最近忙しいこともあって、少しネットから距離を置こうというとしているにもかかわらず、こーゆー文章を目にすると古い刀傷が疼くというか、やはり僕が一つ釘を刺しておかないといけないのじゃないかという使命感にかられてしまいます(笑)。
 ま、冗談はともかく……セクハラ・アカハラの増加の原因は若者のコミュニケーション不全にあるだとか、学びから逃走する者が資本主義を暴走させるだとか、気にくわない奴を吊るし上げる排除の思考が得意な内田先生は今回、なぜ若者が学びや労働から逃避するのかという問題に一つの仮説で答えています。

私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。 彼ら彼女らは幼児期から貯めに貯め込んだ膨大な額の「苦役貯金」を持っている。 それは彼らの幼児期の刷り込みによれば、紛れもなく「労働したことの記号」なのである。 ときどき預金残高が知りたくなる。 そういうときは、とりあえず「彼らの存在がもたらす不快に耐える人々」の数を数えてみる。 彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。


 彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのであるって、オイオイ……(諸君! いくらなんでもこんなこと言わしておいていいのかね!?)。もうこの書き方からしてすでに働かない若者が不快であること、債務の履行を待つことすらできない、こらえ性のないとんでもない存在なのだという先生自身の決めつけを披露しているようなものです。結局「労働から逃走する」のは若者がなっとらんからだ、っていう仮説のようです。

 内田先生は「不快という貨幣」なんてことを大発見のように語っていますが、そもそも子供にとって家庭でのしつけ、学校での教育、習い事などは基本的に社会の型にはめ込むための不快な強制であり、労苦です。先生のようにねちっこい書き方をしなくても、当然ながら(すべてがそうだとは言いませんが……)「学び」とは労働なわけです。どんな時代にしろ子供たちがこの労苦に耐えていられるのは、いつの日にかこの労苦が何らかの形で報われるのだろうと期待しているからに他なりません。つらい労働は、その成果を享受するために行われるのだし、だからこそ耐えることができるのです。脅されてでもいない限りふつう誰もそのような労苦を積極的に引き受けたりしないと思います。そういう意味では唯一労働しうる動物である人間は、現代の子供や若者に限らずとも合理的な「等価交換」の原理によって動いています。
 それにしても、なんでこんなあたりまえのことをわざわざ内田先生はねちっこく書くのだろう? 合理的な交換がなんで責められるんだろう? ……とずっと不思議に思ってきました。

 内田樹の研究室「不快という貨幣」は単純な「俗流若者論」か? (Kawakita on the Web)

 その疑問はKawakitaさんのエントリーを読んでやっと解決しました。つまり人間は「贈与」するものだ……と内田先生は言いたかったようです。等価な交換を超えて自らの労働の産物の一部を、さらに究極的には自らの生命そのものを社会に差し出してこそ人間的だ……という思想が背後に潜んでいて、その地点に立ってビジネスライクで功利的な働かない若者たち……すなわち贈与することを忘れた若者たちを断罪するという構図だったのです。   

 Kawakitaさんが今村さんたちの文章を引用して言いたいことはよくわかります。なるほど前近代の社会は高貴な蕩尽(非生産的な価値)を中心に組織されていたのですが、近代資本主義社会の誕生とともにそれは後景へと退いて生産が前面に押し出されてきます。「贈与」体制の失墜も「交換」の全面化もそのような社会の変化に呼応したものでしょう。
 しかし内田先生の言葉をその文脈で理解するのは間違いだと思います。内田先生の「贈与」の概念はひどく混乱したもので、その結果おそらく今村さんやKawakitaさんが意図することのない滅私奉公のすすめへと転換してしまっているのです。だからやはり内田先生の言葉には絶対賛成してはならないと思います。
 以前僕の書いたエントリーにGilさんがコメント欄で的確に内田先生の概念の混乱について説明してくれたことがあります。

 まず、前にも言いましたが、内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。 もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)。

内田氏は、この根本的に間違った認識から出発して、「日本のサラリーマンの減私奉公は贈与行為である」という、たわけた議論を引き出しているわけです。 しかし、サラリーマン=労働者の行為が徹底的に功利主義と有用性の原理、そして市場における交換原理の上に成り立っていることを忘れてはなりません。労働者が「搾取」され、「騙し取られている」状況は、徹底して吝嗇な「資本の論理」に裏付けられています。 一方、古代社会における自発的な「贈与」ないし「供犠」は、「功利性」や「有用性」の否定である限りにおいて、祝祭的・宗教的な意味を担っていました。それらの社会においてすでに、「贈与」は「労働」とは対極にあるものとして位置付けられていたわけです。

もちろん、それらの社会でも、「供犠」や「贈与」は、神々や共同体の繁栄を祈る目的でなされていたことは確かです。 しかし、これは現代のサラリーマンが、巨大な機械の歯車のように<奴隷的・道具的>な存在であることを自ら受け入れ、時に死にいたるまで働きとおす、ということとは全く別の事柄です。


 もう何も付け加える必要のない見事な解説だと思います。つまり内田先生はこの誤った「贈与」に関する人類学もどきの奇怪な妄想で働かない若者を非人間的だと吊るし上げてるわけです。これでは「人間は働き、搾取されるべきなんだ!」という資本主義システムの追認・強化の主張にしかなりません。資本主義の誕生こそが「贈与」を衰退させ、「交換」を前面に押し出してきたはずであるのに…です。
 実際に働かない若者が最近増えているのか、またどのような理由で彼らが働かない・働けないのか、僕は詳しく知りませんが、内田先生のしているようなインチキな仮説でなくても説明は可能でしょう。中野昌宏さんも似たような分析なさっていますが、働かない若者の増加はかつてのフォーディズム=福祉社会においてライフスタイルはある程度安定したもの(逆にいえば硬直的、画一的)だったのが、ポスト・フォーディズム社会では多様化したために起こった変化だと考ることができるのではないでしょうか。つまり、かつてはみんなと同じように真面目に学校のカリキュラムをこなし、勤勉に働いていればそれなりにやっていけるのだという通念が社会の中にあったのですが、それがくずれて必ずしも真面目に学んでいれば、あるいはコツコツと勤勉に働いていれば、食うには困らないだろうという将来の見込みが立てづらくなっているんじゃないでしょうか。ようするに学びや労働の労苦が報われないという可能性が増大していると考えれば、わざわざ苦役を耐え続けることがバカバカしく思えるのも納得できます。
 むしろ支配の言語として多様性が語られ、同質であるよりも個性や独創性が社会の側から労働者の価値として若者に求められるようになっていることを考えると、むしろ誰彼とは違う自分を追い求め、通常のライフスタイルを逸脱したような生き方のほうが自らの(商品)価値を高めるし、カッコいいんだという判断が若者たちの中に広がりはじめているのかもしれません。
 僕は社会学者ではないので自分の仮説の正しさを証明する気はありませんが、このような社会権力のあり方の変動に若者の変化の原因を求めた方がよっぽどスッキリ説明できるような気がします。排除の思考は論理の混乱などものともしません。自分の偏見や先入観をあらゆる道具を用いて正当化し、誰かを吊るし上げることで、社会そのものが持つ問題から目をそらさせてしまいます。今まで何度も書いてきた通り、僕の想像では、学ばないそして働かない若者の存在が苛立たしくて仕方がない、というモチーフが先生の中にあって、それがこのような混乱した論理を用いた妄想となって爆発するのです。ですから僕は内田先生の言葉の中には他者(若者)を理解し、自分自身や自分のよって立つ現行システムを疑ってみようという知的な誠実さをひとかけらも感じることができません。

 ま、内田先生のことはともかく、何らかの形で「贈与」(非生産的な価値)を現行社会の中に取り戻したい、というKawakitaさんの想いは痛いほどわかります。おそらく僕たちの毎日の生活に広がる虚しさ、味気なさは、功利的な価値観の全面化によるものだというのは間違いありません。確かに私たちは功利性や計算を超えたもの(非生産的な価値)を求めているはずなのです。
 しかしそのとき内田先生のような言い方で「贈与」を云々したのでは、資本主義の吝嗇な規範を強化し、かえって贈与の精神を潰すことにしかなりません。内田先生の最悪のエントリーの一つ「サラリーマンの研究」の中でサラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。なんてことを堂々とおっしゃっていて、資本に搾取されてこそ人間なのだと言うのですから。
 勘違いしちゃあいけません。功利的な資本の論理が中心から生活の隅々にまで貫徹している現代社会において贈与的であることは資本主義が僕たちに求める規範とは明確に対立するはずです。贈与を意味する行為や事件は、僕たちの日常の中では異様な理解しがたいハプニングとして立ち現れるしかないのです。したがって贈与行為は内田先生が誤解しているように、何らかの犠牲を差し出すことで承認=アイデンティティを得ることではなく、資本主義社会に認められない=反抗するという形をとることになるはずです。「高貴な蕩尽」がこの社会の中で可能であるとすれば、資本主義の規範への反抗こそがそれにあたります。したがってあなたがこの社会の中に贈与の精神をよみがえらせたいと願うのなら、誰に求められるでもなく自発的に、また見返り(承認)を求めることなく、他ならぬあなた自身の生をシステムへの反抗へと捧げる必要があるでしょう。
 資本主義の規範は僕たちに働け!勤勉であれ!とあらゆる機会を通じて迫ってきています。例えば「働かない」こと、「怠惰である」ことはこの規範に真っ向から対立するものです。とすれば内田先生が「病」であると断定する「労働から逃走する若者たち」の中に資本主義の規範への反抗(=贈与)のモメントを見いだすことだってできるはずです……たとえ働かない若者の姿が異様で理解しがたいものに見えたとしても……いやそう見えるからこそです。(まあ、そう考えてみると内田先生の彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのであるという言葉は反抗に対するシステム側の反応を楽しんでいる反抗者の生理を語っているようで、あながち的外れではないかもしれません(笑)。)
 したがって僕はKawakitaさんの余裕や無駄(のように思えるもの)が果たしてきた機能が再認識されず、(「交換」的)合理性に駆逐されつつあり生活全般にそれが拡大してきていることを危惧されている(ように読める)内田先生の今回のエントリーは、対象は若者だけなわけがなくこの社会全体を示しているという意味で単純な「俗流若者論」には見えないという言葉には断固反対したいと思います。余裕や無駄が「交換」的合理性に駆逐されつつあると危惧するのであれば、まるで社会のクズ(無駄なもの)のようなものと見なされている「働かない若者」をここまで貶めることはできないと思うからです。確かに内田先生のエントリーは単純な「俗流若者論」ではないかもしれませんが、エセ人類学を駆使して読者を混乱させるイヤラシイ「俗流若者論」だと言っていいと思います。

 おっ、こちらに同志がいる……マンセー!。
18:38 | 思想など | comments (7) | trackbacks (0) | page top↑