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前衛の孤独

 そうそう、私はこのような「前衛」という言葉の使い方に賛成する。
 中南米というと私はまず、アステカやインカなどのミステリアスな古代文明を思い出してしまう。また、現代の中南米に関しては、サッカー選手の顔ぐらいしか思い出せないという、それこそ観客的な、お恥ずかしい限りのありさまだ。こういうサパティスタみたいな運動の詳細をこそ私などがもっと知っていなければならないのに。
 ラテンアメリカにおけるそうした「生-闘争(bio-lucha)」が具体的にどのようなものなのか、私は知らないわけであるが、その「日常生活の前衛」とでも呼びうる闘争の形態は、もちろんいわゆる歴史上の「アヴァンギャルディズム」とはまったく違うものだということは想像できる。しかしそれは「前衛」と形容し得るものだろう。つまり私たちは現在の抵抗の中で「前衛」という概念を定義しなおしているのだ。例えば擦り切れるほど使い古されたはずの「自由」という言葉がそうであるように、「前衛」という言葉も現在の闘争によって命を与えなおされているのだ。
 私はかねてからアヴァンギャルド(前衛)芸術という祭りはとっくに終わっているのだと主張してきた。それでも「前衛」という言葉にこだわりたいのは、現在的な抵抗の中にアヴァンギャルドの精神の誇りとと孤独は引き継がれるべきだと考えているからだ。わたしたちをオーディエンス=観客に押し込めようとする数多の力に抵抗し、自ら「生きるもの」としてあろうとするとき、私たちは常に前衛=前線に立ち続けるものプライドと孤独を友とせねばならないと思う。
 「生-闘争(bio-lucha)」だとか、「代表制政治システムの外で、自律的な生活空間を創造する」なんて勇ましい運動系の言葉使いは、本当言うとどうも苦手だ。なにか、強力な指導者によって空間がオルガナイズされるような印象すら与えてしまいかねない。実際には前衛=前線というのは人の数ほどあるはずで、てんでバラバラなそれぞれの孤独な活動だけが基礎にあるというのが正しい。きなくさい言葉を使ってはいるが、私自身は「闘争」という言葉に、例えば、近所の人にバカにされながらサントヴィクトワール山をシコシコと描き続けた老セザンヌの孤独で誇り高い姿が重なってしまったりするのである。
21:20 | 思想など | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑