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傍流の価値

 単純なことだと思うんです。歴史を俯瞰して通時的なモデルを立てると、主流と傍流が恣意的にコロコロと入れ替わったりするイメージで事態が見えてきて、このようなけちのつけ方も出てくるわけでしょうが、でもそのような図式的なモデルは現状を分析するために立てられるものであって、実際に私たちが直面しているのは今、目の前にある現在のこの瞬間の社会です。
 ひとつの権力にしろ、一人の人間にしろ、複数の価値がその内部に混在していて、似た価値同士が溶け合ったり、くっつきそうにないような価値が奇妙なかたちで同居していたり、あるいは葛藤状態にあったり、というのはまあ、ごく普通にあることだと思います。しかし権力がどのように編成され、時間とともに形を変えたとしても、とにかく現在のこの瞬間に、ひとつの力として作動していて、何らかの力を揮っているということが問題なのです。今この現在に、制度やメディア、また人間の言説を通して力を及ぼしている権力(を支える諸価値)を「内部」と呼ぶなら、それ以外の傍流や周縁の価値は「外部」と呼んではっきり分けることができると思います。
 このような意味で「外部」という言葉を使うことに私はそれほど不都合は感じませんが、たしかに別の言い方、例えば、「権力の外部」とか「権力化していない周縁の諸価値」とでも言ったほうがより適切だったのかもしれません。お望みとあらば「傍流の価値」という言い方をしてもいいと思います。もし「外部」という言葉が誤解を招いたのであれば、私の舌足らずをご容赦願うしかありません。

 結局、神のように歴史を俯瞰するようなモデルだけで考え出すと、いつの時代にも傍流や周縁があるはずだから、主流に対抗するにはどんな傍流をもってしてもいいとか、むしろ現状を変える必要すらないじゃないか、という結論に陥ってしまいがちです。しかし、主流や傍流の価値は好き勝手にヒャラヒャラと流れているわけではありません。フーコーは「抵抗は権力に先立つ」と言っていましたが、権力がその形態や編成を変えるのは、ひとえに権力に対する抵抗があったからです(経済やテクノロジーの変化という要因も絡まっているわけでしょうが)。それが抵抗する人たちの望ましい形に変わったのか、あるいは、抵抗を回収しより巧妙な形態に変化したのかはともかくとしても、抵抗こそが権力に変化をもたらすのです。
 それと同じように傍流の価値だって、気まぐれに流れているのではなく、瞬間瞬間、主体が意識的、無意識的に、主流の権力に抵抗することによって絶えず更新され、流れを維持しているのです。ときには血の流れるような激しい、しかしほとんどは本当にミクロな、個々人の内面で営まれているような小さな抵抗が、傍流の価値に血液を送り込んでいるのです。
 主流から離れればば離れるほど、その価値の維持は困難になり、主体にはさまざまな精神的、経済的なプレッシャーがかかってくるでしょう。例えば密告のような制度が残る独裁国家では、そうした傍流の価値を抱いているだけで、生命が危険にさらされます。いまだかつて傍流の価値(抵抗)を完全に窒息させてしまった社会体制はなかったでしょうが、そのような抵抗が弱まれば、傍流の価値へのアクセスそのものが難しくなってしまうでしょう。
 また逆に、抵抗が強まり傍流が増幅し、社会への異議申し立ての声が溢れてくるということもあるでしょう。そのときは制度面を含めて社会が大きく変わるチャンスだといえます。
 おそらく現在の抵抗も、新たな権力の編成や形態を生み出すのでしょうが、それに対して私たちは新たな戦略をもって抵抗しなければならない。だからこそ抵抗の拠点を新たに創出することを迫られるのです。つまり歴史を俯瞰したモデルで言いうるのは、この対立によって、主流も傍流の価値も変化し、編成や位置取りを変えてゆかざるを得ないだろう、ということなのであって、別に依拠する傍流の価値はなんでもいいなんてことはありません。私たちが生きているのは、いつの時代でも権力との対立の緊張を孕んだ現在のこの瞬間だけなのです。つまりこのような単純化した図式から結論されたけちのつけ方からは、現在の重みがすっぽり抜け落ちてしまっているのだと思います。

 どうもこのような「外部」の概念にガッカリされているようですが、私はずっと「外部」という言い方でこうした「意識」の問題を語ってきました。私はこの意識の問題が、無視することが出来る小さいものでも、弛緩したものでも、射程が短いものではなく、むしろ必要不可欠な小さな巨人だということを言い続けてきたつもりです。実際に制度を変革する作業もこのような「外部」(傍流と言ってもいいですが)の価値(意識)の存在に依存し、それによって可能になっているのです。もちろん価値や意識は制度によって作られる面もあるわけですから、制度と意識はお互いに支えあっていると考えられるべきでしょうが。
 まあ、大胆な外部の構想をぶち上げて、叩きがいのあるサンドバックになってあげられないのは申し訳ないですが、私の強調したい「外部」は、そのような構想をも下支えし、可能にしているベクトル、つまり「権力化していない周縁の価値」だということです。
20:01 | 思想など | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑