01.03.2005
Q&A その3
さて、万年筆さんからの最後の質問は以下のようなものです。
3、荒井さんは、資本主義論者が労働/生産の利点を論理で押し付けて来た時、どのように感じられますか? 私ならイライラすると思います。分かってないくせに、と感じて。でも私が「祭り」を彼らに説こうとすれば、必ずや同じ反応が返ってくることでしょう。同じく存在する人間に世界観について諭されるのは嫌なものです。
私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです。社会を変えようと思えば、システムに犯された人々の心を納得させ、変えるしか無い。ではその為の試みが徒労に終わった時、つまり自分の理論が通じなかった時、彼らを排除しますか? 殺しますか? 私は初めからコミュニケーションを通して理解し合い、変えてゆきたい。そしてその為に、おそらく「作品」のパワーに頼るでしょう。メッセージより強く、行動より説得力がある、と信じているので。
ゲルニカに中1の時感動して、ピカソのことを調べました。そこには彼の生が、創作への態度、として存在していました。だから私は感動し、それを至高性以外の何ものでないと理解した。美術の教科書にあった絵はどれも単なる「絵」としてしか当時の私にはうつらなかったが、ゲルニカは訴えて来た。それは真にピカソの実力だと思います。既成の主義、無意識に我々を覆っている退屈な理性、それを芸術家としてのスキルが超えたのです。
荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです。
3つ目の質問を読んで感じるのは、万年筆さんが「作品」表現に与えている特権的な地位とでもいったものです。
人間である以上誰もがもっている自己主張、………自分を認めさせたい、わからせたいという欲望、(これをヘーゲルは承認を求める欲望として、世界史の原動力だと考えていました。)それが満ちあふれている万年筆さんの言葉には共感を抱きます。脚本家を目指す万年筆さんがその「作品」という形での自己表現の中に込めているもの、それはこの悪魔的なと言っていいほど熱い、承認を求める欲望なのだと思います。
しかし、ひとつ言っておきたいのは、私が選択した「作品制作の拒否」という戦略の中にも、万年筆さんの中にたぎっているのと同じ欲望が貫徹しているということです。
私の出発点は、「作品」表現とそれ以外の「日常」的な表現は等価であるべきだ。そしてこの二つの表現の間に矛盾があってはならない、というところでした。なぜなら、どちらの表現も同じ、自分を認めさせたいという欲望の発現だからです。つまり、万年筆さんが、資本主義論者と議論を闘わせているときの自己表現と、脚本で物語を創作するという表現の間に質の差があってはならないのではないかということです。少なくとも、どちらもが自己主張するという「祭り」(コミュニケーション)への意志であるなら、あらゆる表現の形がそのための手段となるからです。たとえば、万年筆さんが資本主義論者と熱く議論を闘わしている瞬間というのはたとえ実りのない議論に終わろうとも、間違いなく立派なコミュニケーションだと思うのですが………。
私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです………と万年筆さんはいいます。そして、「作品」の力は、メッセージより強く、行動より説得力がある………と。
本当にそうでしょうか? 「作品」よりも日常的な表現のほうが、説得力を持つ例はたくさんあるように思いますが………。1年間かけて作り上げた作品よりも、その人がふともらした言葉や、立ち居振る舞い、目つき、なんてものが多くを語ることだってあるんじゃないですか? どんな表現が説得力を持ち、自分の想いを伝える働きをするかなんて、それはもう状況によってさまざまでしょう。
いい例になるかわかりませんが、惚れた女に自分の気持を伝えるのに、詩をつくり、曲をつけて歌って伝えるのと(そんな奴いないかもしれませんが)、モジモジと吃りながら直接伝えるのと、どっちが説得的かなんてわからないじゃないですか。女にもよるし、どっちのやり方でもダメかもしれないし………。
それに、セザンヌにしろゴッホにしろ、彼らの作品は生前ほとんど誰にも相手にされなかったんですよ。むしろ私や万年筆さんのような思想的なマイノリティの場合、どのような表現方法を選択しても、誰にも理解されないなんていう事態を覚悟しておくべきかもしれません。彼らが偉大だったのは、それでもコミュニケーションへの意志を持ち続けた、ということにつきます。
もちろん、コミュニケーションが理解につながる、というのはひとつの夢でしょう。しかし仮に作品のほうが説得力があったとしても、それが理解につながらない場合は多々あるわけです。むしろ私は理解されることそのものは目的としません。理解されようがされまいが、「祭り」(コミュニケーション)への意志を持ちつづけることが大事だと思うからです。
とすれば、「作品」のほうが説得力があるなんていう手段の「効果」を問題にする理由もないように思うのですよ。
とにかく、表現の形式はそれぞれ得意不得意もあって、説得力という意味でダイレクトなメッセージや行動と「作品」の間に優劣をつけるのはおかしいと思います。ただ、確かに「作品」は個人の身体的な限界をはるかに超えることができます。創作者のあずかり知らぬ遠いところで、また創作者が死んだ後も、コミュニケーションの力を発揮し続けている。それが作品メディアのパワーだというのならうなずけます。
しかし、それら作品は創作者の意図を越えた扱いを受ける可能性ももっている。誤解されたり、祭り上げられたり、高額な商品として投機の対象になったり、と。ゴッホやピカソの絵が何億円するのか知りませんが、このような事態は、ピカソが『ゲルニカ』のカンバスに絵の具を塗り込めていたときの精神状態とは別世界の話であるのは万年筆さんも認めてくれると思います。
「作品」にはこういう側面もあるわけです。そしてさらに私が感じるのは、芸術に現れている「祭り」の精神の反システム的な契機を、「作品」を商品化することでアーティストという職業的なカテゴリーへと押し込め、骨抜きにしてしまおうという資本主義社会のやり口です。だから私は「作品」化していない日常的な表現手段に「祭り」(コミュニケーションへ)の意志の発現を絞り込んだのです。これは、「祭り」を断罪する資本主義社会への反抗的な戦略です。
万年筆さんは、荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです………とおっしゃっているわけですが、「絵を辞めること」「作品の制作を拒否すること」は、表現の「欠如」では決してないということを理解して欲しいのです。逆にそれは日常を「祭り」で満たしたいという意志なのですよ。
これはある意味、厳しい選択です。だって「じゃあ、あなたは何もやってないじゃないか。」「だだの、普通に人であるに過ぎないじゃないか。」と、「欠如」として理解されがちからです。万年筆さんもそう思うから「絵を辞めてしまったのか・・・」なんて思うのでしょうが。しかし、「ただの」ではない………。だって、「ただの」人はいま私が語っているこんなことは考えもしないし、万年筆さんとこのようにコミュニケーションすることもなかったのではないですか? ここで私たちが語りあったことも、ちっぽけな「祭り」だったんじゃないですか? ここにはひょっとして一枚の絵を描くよりも強力なコミュニケーションがあったんじゃないでしょうか?
3、荒井さんは、資本主義論者が労働/生産の利点を論理で押し付けて来た時、どのように感じられますか? 私ならイライラすると思います。分かってないくせに、と感じて。でも私が「祭り」を彼らに説こうとすれば、必ずや同じ反応が返ってくることでしょう。同じく存在する人間に世界観について諭されるのは嫌なものです。
私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです。社会を変えようと思えば、システムに犯された人々の心を納得させ、変えるしか無い。ではその為の試みが徒労に終わった時、つまり自分の理論が通じなかった時、彼らを排除しますか? 殺しますか? 私は初めからコミュニケーションを通して理解し合い、変えてゆきたい。そしてその為に、おそらく「作品」のパワーに頼るでしょう。メッセージより強く、行動より説得力がある、と信じているので。
ゲルニカに中1の時感動して、ピカソのことを調べました。そこには彼の生が、創作への態度、として存在していました。だから私は感動し、それを至高性以外の何ものでないと理解した。美術の教科書にあった絵はどれも単なる「絵」としてしか当時の私にはうつらなかったが、ゲルニカは訴えて来た。それは真にピカソの実力だと思います。既成の主義、無意識に我々を覆っている退屈な理性、それを芸術家としてのスキルが超えたのです。
荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです。
3つ目の質問を読んで感じるのは、万年筆さんが「作品」表現に与えている特権的な地位とでもいったものです。
人間である以上誰もがもっている自己主張、………自分を認めさせたい、わからせたいという欲望、(これをヘーゲルは承認を求める欲望として、世界史の原動力だと考えていました。)それが満ちあふれている万年筆さんの言葉には共感を抱きます。脚本家を目指す万年筆さんがその「作品」という形での自己表現の中に込めているもの、それはこの悪魔的なと言っていいほど熱い、承認を求める欲望なのだと思います。
しかし、ひとつ言っておきたいのは、私が選択した「作品制作の拒否」という戦略の中にも、万年筆さんの中にたぎっているのと同じ欲望が貫徹しているということです。
私の出発点は、「作品」表現とそれ以外の「日常」的な表現は等価であるべきだ。そしてこの二つの表現の間に矛盾があってはならない、というところでした。なぜなら、どちらの表現も同じ、自分を認めさせたいという欲望の発現だからです。つまり、万年筆さんが、資本主義論者と議論を闘わせているときの自己表現と、脚本で物語を創作するという表現の間に質の差があってはならないのではないかということです。少なくとも、どちらもが自己主張するという「祭り」(コミュニケーション)への意志であるなら、あらゆる表現の形がそのための手段となるからです。たとえば、万年筆さんが資本主義論者と熱く議論を闘わしている瞬間というのはたとえ実りのない議論に終わろうとも、間違いなく立派なコミュニケーションだと思うのですが………。
私は頑なまでに「作品」というものの力を信じております。なぜなら芸術作品だけが、こっそりとその創作者の生へ、人々の関心を向かわせてくれるからです………と万年筆さんはいいます。そして、「作品」の力は、メッセージより強く、行動より説得力がある………と。
本当にそうでしょうか? 「作品」よりも日常的な表現のほうが、説得力を持つ例はたくさんあるように思いますが………。1年間かけて作り上げた作品よりも、その人がふともらした言葉や、立ち居振る舞い、目つき、なんてものが多くを語ることだってあるんじゃないですか? どんな表現が説得力を持ち、自分の想いを伝える働きをするかなんて、それはもう状況によってさまざまでしょう。
いい例になるかわかりませんが、惚れた女に自分の気持を伝えるのに、詩をつくり、曲をつけて歌って伝えるのと(そんな奴いないかもしれませんが)、モジモジと吃りながら直接伝えるのと、どっちが説得的かなんてわからないじゃないですか。女にもよるし、どっちのやり方でもダメかもしれないし………。
それに、セザンヌにしろゴッホにしろ、彼らの作品は生前ほとんど誰にも相手にされなかったんですよ。むしろ私や万年筆さんのような思想的なマイノリティの場合、どのような表現方法を選択しても、誰にも理解されないなんていう事態を覚悟しておくべきかもしれません。彼らが偉大だったのは、それでもコミュニケーションへの意志を持ち続けた、ということにつきます。
もちろん、コミュニケーションが理解につながる、というのはひとつの夢でしょう。しかし仮に作品のほうが説得力があったとしても、それが理解につながらない場合は多々あるわけです。むしろ私は理解されることそのものは目的としません。理解されようがされまいが、「祭り」(コミュニケーション)への意志を持ちつづけることが大事だと思うからです。
とすれば、「作品」のほうが説得力があるなんていう手段の「効果」を問題にする理由もないように思うのですよ。
とにかく、表現の形式はそれぞれ得意不得意もあって、説得力という意味でダイレクトなメッセージや行動と「作品」の間に優劣をつけるのはおかしいと思います。ただ、確かに「作品」は個人の身体的な限界をはるかに超えることができます。創作者のあずかり知らぬ遠いところで、また創作者が死んだ後も、コミュニケーションの力を発揮し続けている。それが作品メディアのパワーだというのならうなずけます。
しかし、それら作品は創作者の意図を越えた扱いを受ける可能性ももっている。誤解されたり、祭り上げられたり、高額な商品として投機の対象になったり、と。ゴッホやピカソの絵が何億円するのか知りませんが、このような事態は、ピカソが『ゲルニカ』のカンバスに絵の具を塗り込めていたときの精神状態とは別世界の話であるのは万年筆さんも認めてくれると思います。
「作品」にはこういう側面もあるわけです。そしてさらに私が感じるのは、芸術に現れている「祭り」の精神の反システム的な契機を、「作品」を商品化することでアーティストという職業的なカテゴリーへと押し込め、骨抜きにしてしまおうという資本主義社会のやり口です。だから私は「作品」化していない日常的な表現手段に「祭り」(コミュニケーションへ)の意志の発現を絞り込んだのです。これは、「祭り」を断罪する資本主義社会への反抗的な戦略です。
万年筆さんは、荒井さんのエッセイ/作品を見て、すぐにどういう人なのか知りたくなりました。勝手な、厚かましい意見ですが、知って抱いたのはただ一つ、絵を辞めてしまったのか・・・という、くちおしい気持ちです………とおっしゃっているわけですが、「絵を辞めること」「作品の制作を拒否すること」は、表現の「欠如」では決してないということを理解して欲しいのです。逆にそれは日常を「祭り」で満たしたいという意志なのですよ。
これはある意味、厳しい選択です。だって「じゃあ、あなたは何もやってないじゃないか。」「だだの、普通に人であるに過ぎないじゃないか。」と、「欠如」として理解されがちからです。万年筆さんもそう思うから「絵を辞めてしまったのか・・・」なんて思うのでしょうが。しかし、「ただの」ではない………。だって、「ただの」人はいま私が語っているこんなことは考えもしないし、万年筆さんとこのようにコミュニケーションすることもなかったのではないですか? ここで私たちが語りあったことも、ちっぽけな「祭り」だったんじゃないですか? ここにはひょっとして一枚の絵を描くよりも強力なコミュニケーションがあったんじゃないでしょうか?
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