06.27.2004
それでもやっぱりコルトレーンが好き
JAZZを聞き始めたのは30代になってからだった。僕はロックとかアメリカのポピュラー音楽をほとんど聴かない。若い頃夢中になれたのは南米のフォルクローレだけだった。JAZZもアメリカの音楽だと思っていたが、やはりちょっと何かが違うような気もしていた。黒人というマイノリティから発した音楽であること、またフリージャズのムーブメントはアバンギャルドな僕のハートを惹きつけたってわけさ。
JAZZを聞いてみてピンときたのは60年代の音だった。それ以前のビ・バップとかハード・バップなんかはやはり古臭い音に聞こえた。演奏的に素晴らしいのかもしれないけど、ハッキリいって僕は演奏のことはわからない……。
また70年代以降のいわゆるフュージョンと呼ばれる音、これがサッパリ面白くないのだ。どんな革新があって、どんなすごい演奏技術を用いているのか知らないんだけど、おしゃれでスタティックな音が僕には何も引っかかってこなかったんだ。
月並みだけど僕はマイルス・デイヴィスとかジョン・コルトレーンなんかのどっちかというと暗い音楽が好きだ。特にコルトレーンのエモーショナルな音楽は、アメリカを感じさせなかった。一体どこからこの音は出てきたのか、アフリカなのか、中東なのか……?。それにコルトレーンのサックスの音は少しぶっきらぼうで、味わいをつけようなんて言う演出がないような気がして、それがまたよかった。
軽くてノリのいい音楽に憧れている。JAZZなんかはインプロヴィゼーションが重要な要素なんだから、曲芸のような音を楽しめばいいのかもしれない、と思う。カリブ海あたりの聴きながら踊り出してしまうような軽くて熱い音楽に我を忘れてしまいたいと思ったりもする。でもきっと僕の体質なのか、気がつくとコルトレーンの重たい音を聴いているってわけさ。そんな自分がイヤだったりもする。
あるJAZZ評論家が書いてたけどね。音の上にコルトレーンが乗っけてくる過剰な意味がウットーしい、みたいなことをね。よくわかるような気がする。コルトレーンはけっこう日本で人気があったらしいんだ。60年代の日本で、薄暗い部屋で難しい顔をしてコルトレーンを聴く、なんてのが一つのスタイルだったりしたみたいだ。その評論家はそんなのJAZZの在り方と何の関係もないことだ、と苛立っていたけどね。
たとえば、サッカー選手で、鮮やかなドリブルでディフェンダーを何人も抜きさって、ポンとシュートを決めちゃうような選手と、勝利への執念とか戦う気持ちなんてのをむき出しにして、ゴールに突進してディフェンダーにぶちあたって倒されたりと、泥臭いプレーをする選手とどちらがいいかってことかな、なんて思ったりする。たしかにスポーツなんてエンターテイメントなんだから、華麗なプレーを楽しめばいいのかもしれない。でも人は泥臭く不器用なプレーに胸を打たれたりすることもあるし、器用で華麗なプレーがつまらないってのはよくあることだしね。そのへんは微妙だと思う。
たしかにコルトレーンに人間的な不器用さを感じないでもない。泥臭い音なのかもしれない。でもそれだからこそ、その音にホッとするのかもしれないと思う。
とはいえ、『アセンション』以降の彼の音楽を聴くのはちょっとツライものがある。僕が好きなのは『マイ・フェバリットシングス』から『ラブ・シュプリーム』ぐらいまでの数年間の演奏だ。
JAZZを聞いてみてピンときたのは60年代の音だった。それ以前のビ・バップとかハード・バップなんかはやはり古臭い音に聞こえた。演奏的に素晴らしいのかもしれないけど、ハッキリいって僕は演奏のことはわからない……。
また70年代以降のいわゆるフュージョンと呼ばれる音、これがサッパリ面白くないのだ。どんな革新があって、どんなすごい演奏技術を用いているのか知らないんだけど、おしゃれでスタティックな音が僕には何も引っかかってこなかったんだ。
月並みだけど僕はマイルス・デイヴィスとかジョン・コルトレーンなんかのどっちかというと暗い音楽が好きだ。特にコルトレーンのエモーショナルな音楽は、アメリカを感じさせなかった。一体どこからこの音は出てきたのか、アフリカなのか、中東なのか……?。それにコルトレーンのサックスの音は少しぶっきらぼうで、味わいをつけようなんて言う演出がないような気がして、それがまたよかった。
軽くてノリのいい音楽に憧れている。JAZZなんかはインプロヴィゼーションが重要な要素なんだから、曲芸のような音を楽しめばいいのかもしれない、と思う。カリブ海あたりの聴きながら踊り出してしまうような軽くて熱い音楽に我を忘れてしまいたいと思ったりもする。でもきっと僕の体質なのか、気がつくとコルトレーンの重たい音を聴いているってわけさ。そんな自分がイヤだったりもする。
あるJAZZ評論家が書いてたけどね。音の上にコルトレーンが乗っけてくる過剰な意味がウットーしい、みたいなことをね。よくわかるような気がする。コルトレーンはけっこう日本で人気があったらしいんだ。60年代の日本で、薄暗い部屋で難しい顔をしてコルトレーンを聴く、なんてのが一つのスタイルだったりしたみたいだ。その評論家はそんなのJAZZの在り方と何の関係もないことだ、と苛立っていたけどね。
たとえば、サッカー選手で、鮮やかなドリブルでディフェンダーを何人も抜きさって、ポンとシュートを決めちゃうような選手と、勝利への執念とか戦う気持ちなんてのをむき出しにして、ゴールに突進してディフェンダーにぶちあたって倒されたりと、泥臭いプレーをする選手とどちらがいいかってことかな、なんて思ったりする。たしかにスポーツなんてエンターテイメントなんだから、華麗なプレーを楽しめばいいのかもしれない。でも人は泥臭く不器用なプレーに胸を打たれたりすることもあるし、器用で華麗なプレーがつまらないってのはよくあることだしね。そのへんは微妙だと思う。
たしかにコルトレーンに人間的な不器用さを感じないでもない。泥臭い音なのかもしれない。でもそれだからこそ、その音にホッとするのかもしれないと思う。
とはいえ、『アセンション』以降の彼の音楽を聴くのはちょっとツライものがある。僕が好きなのは『マイ・フェバリットシングス』から『ラブ・シュプリーム』ぐらいまでの数年間の演奏だ。
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