02.11.2007
許されている……わけじゃない
前回のエントリーに対してもらった質問の答えです。
「資本」も「権力」も私は似たような意味で使っています。なぜなら「資本」の意志は「権力」となってわれわれの前に現れていると思うからです。……意志なんて書いちゃいましたがもちろん資本は主体とか人格ではなくて、あたかも意志を持っているかのように振る舞っているように感じられる、ということで擬人的に使っているのです。
経済学で言うところの資本は、個別の企業なり法人なりの(利潤を生み出すための)生産設備と労働者のセットのことなのでしょうが、私は具体的な企業みたいな意味では使っていません。もちろんそれらの企業体は資本に違いないのですが、私は資本主義社会のエッセンスのような意味で「資本」という言葉を使っています。
ヨーロッパの片隅に生まれた資本制生産様式は瞬く間に国家をブルジョワ化し、国境を越えて地球全体を覆い尽くしました。現在地球上の社会はすべて資本によって組織され、あらゆる制度、交通、メディア、商品、の中にまで(果てしなき利潤の追求という)資本の論理が貫いています。したがって資本の支配について考えるとき、もはや個別の企業などの一資本の問題としては捉えきれないので、漠然としていますが現行システムの特質を一言で表すのに、「資本」という言葉を使用しているわけです。
「権力」という言葉についても同じことがいえます。ふつう「権力」といえば警察的な強制力を持った装置を思い浮かべますが、それは資本の論理同様、法律や社会制度の中に、またメディアや商品の中に、さらに労働者の意識の中に……他ならぬ自分自身の中にも遍在し、作動しています。(おそらくフーコーの言ってるミクロ権力とはこういうものだと思うのですが、読んだことないのでわかりません。)警察的な権力であればそれを行使する主体を特定することができるでしょうが、制度や意識の中に存在する資本の支配=権力の作動は匿名的なものではっきりとは特定できません。
よく、「社会」や「世間」が認める/認めない、みたいな言葉の使い方がされますが、私の「権力」という言葉の使い方はそれと全く同じです。「世間」がある人を許さない……といった場合、世間という匿名的、集合的な存在が目に見えないプレッシャー(権力)をある人にかけているという状態だといっていいと思いますが、そういう言葉の使い方は珍しくはないと思います。
もうひとつ、私たちは許されているじゃないか、という問題ですが………もちろんシステムに反抗的な発言をした程度で警察権力によって収監されたり、殺されたりしてしまうことはないでしょうが(そういう極端な例もあるかと思いますが……)、それは私たちが許されているということとは違うと思います。
ネオリベラリズムという形態の権力は、格差社会として私たちの前に姿を現しています。それは労働者に自らを市場において常に付加価値やフレキシビリティの高い労働力に高めておく努力を暗に強制するシステムだといえます。その努力を怠るなら労働市場における競争から脱落し、負け組への転落の可能性が待っているぞ、と私たちはさりげなく脅迫を受けているのです。
つまり「資本」が私たちに求めているのは、資本の都合に自らを合わせてくれる労働力であれ、ということです。その規範に従えず、自らの労働力の価値を高め、マネジメントできる能力がないものや、規範に背くもの(逸脱)は、負け組の運命が罰として待っている………突き詰めれば野宿者の路上での死の運命が待っているわけで、システムの周辺には緩やかな懲罰空間が広がっていると考えることもできるでしょう。………というか、そもそもさりげない脅迫を受けている時点で、私たちの存在が単純に許され、認められているわけじゃないことは明らかだと思います。
確かに、がさつでタイトな規律社会………独裁的な社会主義国家みたいなものを想像しますが………と比べると、私たちははるかに許されているかに思えますが、規範からの逸脱への管理は、労働者を内面から管理するより巧妙な形態に変貌しただけで、逸脱の自由はある意味困難にすらなっているのかもしれません。その変貌の由来が、大坂さんが言うようにコストの問題のせいなのか、それとも管理技術の進展によるものなのか……私は知りませんが。
「資本」も「権力」も私は似たような意味で使っています。なぜなら「資本」の意志は「権力」となってわれわれの前に現れていると思うからです。……意志なんて書いちゃいましたがもちろん資本は主体とか人格ではなくて、あたかも意志を持っているかのように振る舞っているように感じられる、ということで擬人的に使っているのです。
経済学で言うところの資本は、個別の企業なり法人なりの(利潤を生み出すための)生産設備と労働者のセットのことなのでしょうが、私は具体的な企業みたいな意味では使っていません。もちろんそれらの企業体は資本に違いないのですが、私は資本主義社会のエッセンスのような意味で「資本」という言葉を使っています。
ヨーロッパの片隅に生まれた資本制生産様式は瞬く間に国家をブルジョワ化し、国境を越えて地球全体を覆い尽くしました。現在地球上の社会はすべて資本によって組織され、あらゆる制度、交通、メディア、商品、の中にまで(果てしなき利潤の追求という)資本の論理が貫いています。したがって資本の支配について考えるとき、もはや個別の企業などの一資本の問題としては捉えきれないので、漠然としていますが現行システムの特質を一言で表すのに、「資本」という言葉を使用しているわけです。
「権力」という言葉についても同じことがいえます。ふつう「権力」といえば警察的な強制力を持った装置を思い浮かべますが、それは資本の論理同様、法律や社会制度の中に、またメディアや商品の中に、さらに労働者の意識の中に……他ならぬ自分自身の中にも遍在し、作動しています。(おそらくフーコーの言ってるミクロ権力とはこういうものだと思うのですが、読んだことないのでわかりません。)警察的な権力であればそれを行使する主体を特定することができるでしょうが、制度や意識の中に存在する資本の支配=権力の作動は匿名的なものではっきりとは特定できません。
よく、「社会」や「世間」が認める/認めない、みたいな言葉の使い方がされますが、私の「権力」という言葉の使い方はそれと全く同じです。「世間」がある人を許さない……といった場合、世間という匿名的、集合的な存在が目に見えないプレッシャー(権力)をある人にかけているという状態だといっていいと思いますが、そういう言葉の使い方は珍しくはないと思います。
もうひとつ、私たちは許されているじゃないか、という問題ですが………もちろんシステムに反抗的な発言をした程度で警察権力によって収監されたり、殺されたりしてしまうことはないでしょうが(そういう極端な例もあるかと思いますが……)、それは私たちが許されているということとは違うと思います。
ネオリベラリズムという形態の権力は、格差社会として私たちの前に姿を現しています。それは労働者に自らを市場において常に付加価値やフレキシビリティの高い労働力に高めておく努力を暗に強制するシステムだといえます。その努力を怠るなら労働市場における競争から脱落し、負け組への転落の可能性が待っているぞ、と私たちはさりげなく脅迫を受けているのです。
つまり「資本」が私たちに求めているのは、資本の都合に自らを合わせてくれる労働力であれ、ということです。その規範に従えず、自らの労働力の価値を高め、マネジメントできる能力がないものや、規範に背くもの(逸脱)は、負け組の運命が罰として待っている………突き詰めれば野宿者の路上での死の運命が待っているわけで、システムの周辺には緩やかな懲罰空間が広がっていると考えることもできるでしょう。………というか、そもそもさりげない脅迫を受けている時点で、私たちの存在が単純に許され、認められているわけじゃないことは明らかだと思います。
確かに、がさつでタイトな規律社会………独裁的な社会主義国家みたいなものを想像しますが………と比べると、私たちははるかに許されているかに思えますが、規範からの逸脱への管理は、労働者を内面から管理するより巧妙な形態に変貌しただけで、逸脱の自由はある意味困難にすらなっているのかもしれません。その変貌の由来が、大坂さんが言うようにコストの問題のせいなのか、それとも管理技術の進展によるものなのか……私は知りませんが。
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資本 資本(しほん)には、次の3つの意味がある。経済学における資本。企業活動における資本。会計における資本。----.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotation:Wikipedia- Article- History License:GFDL
2007/02/19 (Mon)
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Comments
他に問題になっているのは、直接的な暴力によらない「逸脱」が「許されている」か否かですが、これは基本的に「許されている」という言葉をどういう意味で使うかの違いなので、まぁいいです。何らかの「さりげない脅迫を受けている」ことは「許されている」とは言えないと考えるならば、確かに「逸脱を許すシステム」が到来しているとは言い難いでしょう。それなら「逸脱を放置するシステム」と言い換えてもいいです。でも、結局事態は変わりませんよね。
最後に改めて確認しておきますが、私は最初から「多様」や「逸脱」そのものがダメだとは言っていません。なので、荒井さんの言説活動の意義を否定するつもりはありません(過大評価するつもりもありませんが)。同時に、この議論を今更反復する意義を見出すこともできません。結構な分量になっている過去の議論の中から何か役に立つものを発見する新たな読者がいれば、それは嬉しいとは思いますが。
別の言い方をすれば、、、もしシステムによって人間の生き方の多様性や自由がが完全に認められたとするなら、そのシステムと成員の間の葛藤は完全に解消され、社会に対する抵抗も消滅しているはずです。それはあらゆる人間の欲望をシステムが掬いきっている状態だといっていいと思いますが、私にはそのような状態をどうしても想像することができません。周到に設計し改良したつもりでも、人間の欲望はそんな制度をはみ出してくるものではないかと思うからです。
そのようなユートピアチックな完全に自由な社会が状態としてありうるというのなら、私は何のためらいもなくきはむさんに同意しますが、おそらくシステムの改良に終着点などありえないのではないでしょうか? とすれば、改良されたシステムにおいてもなんらかの葛藤や抵抗、告発など(すなわちシステムからの逸脱性)が再び問題になってくるということではないでしょうか? むしろ、そのような抵抗の瞬間の中にこそ自由や多様性が出現するのだと私は考えます。システムによって作られ、私たちに与えられるのではなく。。。です。
私が問題にしたい「逸脱」とは、このように人間の共同体が持たざるを得ない「はみ出し」のことであって、きはむさんも批判している、現行社会に回収されてしまった「自己決定、選択の自由」とは別のものです。私の見るところこの二つの逸脱(多様性といってもいいですが)の概念がごっちゃになったまま議論が進行しているところに、私たちの議論のかみ合わなさの原因があるように思います。
くりかえしますが、「逸脱」ばかり推奨していてもダメだ、システムの方を改良しなければならない。。。というきはむさんの言葉には「とりあえず」異存はないのです。しかし私が使っている「逸脱」の概念からするとどうしても理解できないのは、なぜこんなふうにシステムの改良と「逸脱」を対立させて考えねばならないのか。。。ということなのです。逸脱(システムへの抵抗や告発)はシステムを変えるための前提であり、それなしには改良する必要すら生まれてこないでしょう。だから私は単純に、自らの行いが逸脱であることを認識しつつシステムを変える。。。ということでいいではないかと思うのです。
もちろん、「逸脱もどき」の批判としては、きはむさんの言い方は有効だと思いますが、その文脈ですべてを斬ってしまっては、私やきはむさん(私たちのしているのは明らかに告発です)も沈黙せざるをえないので、「逸脱」という言葉の二つの使い方をはっきり分けるべきだと主張するわけです。
まあ、またしても不毛な議論をひとつ積み重ねてしまったということになるかもしれませんが、こうしてしつこく反論を書くのは、あくまでも私の言葉が誤解を受けたまま(まあ、誤解はお互いさまかもしれませんが)、きはむさんのエントリーの中で強引にまとめられてしまっているのが正直面白くないのと、ひょっとすると説明することで誤解が解けないとも限らないと期待してるからです。まあ、反論ぐらい書かせてよ。。。ってとこですか。。。
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