03.24.2007
祭の戦士はハッカーである
うーむ、おもしろい。。。。
このあいだ私は社会の改良に終わりなどないと書きましたが、それはつまり社会は永遠のβ版であるということに他なりません。また、sivadさんは、 われわれは自分の人生と同様、自分の社会をもハックし続けねばならない。それこそが民主制のルールであり、「永遠のβ版」である民主主義を使える状態に保つ唯一の方法であると、そしてそれはどちらも社会的な「運動」であり、「プロセス」であると書いています。sivadさんは民主主義について述べていますが、これはそのまま私たちの「自由」という言葉に置き換えてもいいでしょう。つまり「自由」とは社会の状態としてあるのではなく、「運動」として、また「プロセス」としてあるのだと。
私はコンピューター関連の用語がさっぱりなのでまったく自信がないのですが、ここで言われているハックとは、ようするに私の言うところの「逸脱」と同じことのようです。「逸脱」という言葉がいらぬ誤解を生みがちだというのであれば、むしろ「ハッキング」という言葉に置き換えてしまったほうがすっきりするかもしれません。したがってこんなふうに言えると思います。
祭りの戦士は、社会という永遠のβ版のバグを思わぬ形で明るみに出す永遠のハッカーである、と。
このあいだ私は社会の改良に終わりなどないと書きましたが、それはつまり社会は永遠のβ版であるということに他なりません。また、sivadさんは、 われわれは自分の人生と同様、自分の社会をもハックし続けねばならない。それこそが民主制のルールであり、「永遠のβ版」である民主主義を使える状態に保つ唯一の方法であると、そしてそれはどちらも社会的な「運動」であり、「プロセス」であると書いています。sivadさんは民主主義について述べていますが、これはそのまま私たちの「自由」という言葉に置き換えてもいいでしょう。つまり「自由」とは社会の状態としてあるのではなく、「運動」として、また「プロセス」としてあるのだと。
私はコンピューター関連の用語がさっぱりなのでまったく自信がないのですが、ここで言われているハックとは、ようするに私の言うところの「逸脱」と同じことのようです。「逸脱」という言葉がいらぬ誤解を生みがちだというのであれば、むしろ「ハッキング」という言葉に置き換えてしまったほうがすっきりするかもしれません。したがってこんなふうに言えると思います。
祭りの戦士は、社会という永遠のβ版のバグを思わぬ形で明るみに出す永遠のハッカーである、と。
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Comments
こんなのもあったぜ、うん。
私はてっきり島田さんて私と似た考えの持ち主だと思い込んでいましたが、当たり前だけどやっぱり違ったんですねえ。現状肯定主義なんて言ってくれる人がいるのはなんだかちょっとうれしいですよ。
確かにこのブログに以前の戦闘性は今はないです。というのもそうする余裕が今の私にはないからです。こんなブログでも燃え上がらせるにはそれなりの時間と、ひいては経済的余裕がなければできません。かつてはそれを保持していたのですが、今はちょっときついっす。幸い今も暇を見つけて細々と続けてゆくぐらいの余裕はありますが、トラバやコメントをもらってもいつ返事ができるかさえわからないのであえて半分眠らせているわけです。ですからそのうち余裕ができたら復活するつもりではいます。
でも私は、ネットとか社会運動みたいなものに関われなくても、生き抜いてゆくだけでも立派に戦士だと思ってますけどね。自分の主張や活動が社会的な意味や運動の広がりにつながってくれれば言うことないですが、そういう社会的な運動も個々のちっちゃくて孤独な闘争をベースにいてしか成り立たないと思うので。
ただ、私が丸くなったのかどうかは、もちろん私自身には判断できないのですが、主観的には当時と何にも変わってないのですけどねえ。たとえば私の言ってる事が具体的に保守化してきているといのなら、おっしゃるとおりかもしれませんが、、、そのへんどうでしょう?
私もそうですが、人間ってちょっとしたことからいろんな妄想を立ち上げることができるんですよね。女房のことは書いてみようかなと思ってたんですけど、どうしようかなあ。
などという先取権あらそいはおいといて、改良主義うんぬんについては、私はとにかく個人の自由は試行錯誤をハックの中身と考えています。だから、sivadさんの民主主義というのは、気持がわかるとともにちょっと違和感がありました。「多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか! 」((C)外山恒一)ですから。それより、社会全体のシステムがなんであれ、個人の自由な試行錯誤がゆるされていることが私にとってはハッカー主義の定義です。
愛妻して堕落するのもよし、家庭崩壊させるのもよし、その失敗がきはむさんが心配したような新自由主義的な自己責任の押し付けになるんじゃなくて、絶望さえも再トライへのエネルギーになるような、そんなイメージで考えています。
ちなみに私自身は愛妻家というよりも恐妻家であるといったほうが事実に近いと思いますが、それにしても恐妻家の戦士って、、、愛妻家の戦士よりかっこ悪いですよね。
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