Sat.

呪われた部分

 バタイユ「呪われた部分」を久しぶりに読む。やはり一番面白いのはキリスト教中世からブルジョワ世界が誕生してくるあたりの記述かなあ。。。宗教改革についてもうちょっと詳しく知りたいところだ。もう一度マックスウェーバーでも読むべきか。ところでバタイユはこんなふうに書いている。

 

ルターの教義は資源の高度蕩尽機構の完璧な否定である。



 いろいろな評価があるわけだろうが、禁欲的な中世の闇から奇跡のように出現した高度蕩尽機構ルネッサンスは、荒々しくとても魅力的な時代であり、それが宗教改革やら反宗教改革の味気ない僧服の改革によって壊れてゆく様を見るのは、なにかこう、いたたまれないものがある。しかしルネッサンスの土台であるカトリックの世界(経済)が欺瞞に満ちたものであったのもまた事実で、宗教改革のような急進的な運動がなければ、私たちの近代も存在しなかったに違いない。
 さらにバタイユは宗教改革の性格はマルクス主義とよく似ているというのだ。

 

マルクス主義の根本命題は、ものの(経済の)外にある一切の要素から、ものの(経済の)世界を全的に開放することである。



 社会主義(人民服)の味気なさは、僧服の味気なさを髣髴とさせる。以前シュルレアリスムに関する本を読んでいて印象に残ったエピソードがあった。ブルトンとトロツキーがメキシコで懇意にしていたときのこと、(記憶違いでなければ)ブルトンがメキシコ先住民の土器に見惚れているのを、トロツキーが憤りを持って眺めていたというのだ。それ以上詳しいことは書いてなかったのだが、異端であれ革命家のトロツキーにとっては、美術品を眺めて悦に入るようなことはブルジョワ趣味でしかなかったということだろうか。搾取や貧困の克服への行動が第一の問題になっているときに、美や文化などにかかずらっているとは何事だ! ということかなと私は理解したのだが。。。
 いずれにせよマルクス主義の革命家はルター的な憤りを持って、過去の社会の一切の虚飾を否定しようとしていたのだろう。しかしそうした急進的で僧服=人民服的な味気なさは、(革命直後のロシアアヴァンギャルドなどの例外はあるが)社会主義世界の文化的不毛を結果的にもたらした。ブルトンはあまり好きではないが、私はここでのトロツキーより、やはりブルトンの側に立っている。
 
 でも自分の中にもルター的な急進主義があるなあ、と思う。現代にはルネッサンス以上にアートが溢れているように見える。だがそれらはルターが目にしたローマ以上に欺瞞に満ちた虚飾であるように私には見える。だから私はアートを否定するという急進的な方法でルターのごとき憤慨を表現する。が、それはルターが神に接近するためにそうしたように、私も文化を再生させたくてそうするのだ。
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