10.16.2007
呪われた「外部」
古い話題で恐縮だが、「外部」という言葉を使って内田樹氏の批判をしたときから私はこの手の誤解をうけていた。資本主義のシステムから降りたり逃げたりすることなど出来ない、現行システムに「外部」などないのだ、と。、、、いやいや、そんなことわかってますって。外部へ旅立つべきだ、みたいなこと私が一言でも書いたかって話だ。
この通りすがりの人への返事でも書いたように「資本主義の支配的価値の外部を構想してみることで、資本主義への没入状態から一歩距離をとる」という思考のプロセスにおいて外部を語っているのであって、現実に外部が存在すると考えているわけではないのだ(外部は現実化すると同時に内部化する。したがって外部は到達することの出来ない「不可能なもの」である。しかし外部の力を借りずに現行社会の批判など出来るものだろうか)。まあ誤解されるのは、私の書き方が悪いせいでもあり、私自身の中に曖昧なところもあったのかもしれないと思うが。
で、こちらの人もそういう誤解を持ち続けていたようだ。いいコメントもついているので、すでに誤解は解けていると期待したいが、このきはむさんのエントリーに描かれたaraikenの姿があまりにマヌケ面なのを見るにつけ、もう一度言わずにいられなくなってきてしまった。
上でも述べたとおり、私は、非資本主義的な多様な価値を称揚することで、資本主義社会の「外部」が姿を現すと考えているわけではない。きはむさんの言葉を借りるなら「この世界の中(内部)でわれわれは何をすることができるのか」を考えるためにそういう思考の手続きをとっているにすぎない。まずは、私が外部へ到達することを考えている、との誤解を取払って欲しい。
また、きはむさんは「支配的な価値からの逸脱を推奨する言説が、逸脱後の具体的なビジョンを準備できていることは少ない」と書いている。実際そうなのかは知らないが、私自身は当然そのようなビジョンが必要だと思っているし、社会の改良や修正が喫緊の課題であるというのも理解できる。(しかし、具体的なビジョンを考える作業は専門的な知識や時間が必要で、誰にでも出来ることではない。少なくとも私にその能力や時間があるとは思えない。その点やはりエキスパートに頼らざるを得ないんだろうなと思う。しかし問題を提議することは私にも出来る。何度か書いたことなので繰り返さないが、現行社会の中でその制度が持っている非人間的な問題点を、身をもって告発することこそが、一元的な価値への抵抗と支配的なコードからの逸脱を目指し、多様な価値と欲望を解放する者の役割である。そのような告発や問題提議があってこそ変革の具体的なビジョンも浮かび上がってくるのである。私は私の持っている条件の中で可能な選択をする。それはそれなりの覚悟さえあれば、大部分の人に可能な選択でもあるだろう。)
では、私ときはむさんの考え方の大きな違いは何かといえば、私が、具体的な社会の変革と、オンリーワンの生き方=支配的な価値からの逸脱する行為を並行して行うべきものだとするのに対して、きはむさんは、逸脱や多様性の解放する行為を、(現行の内部においては)社会の変革のためにはむしろ邪魔なものだと見ているところにあると思われる。
それゆえ、私はきはむさんに対して、終始逸脱や多様性の現在における(現行の内部における)その意義を強調し、擁護してきた。
私にとってどうにも納得が行かず、意地悪に感じられるのは、きはむさんが価値の多様性や逸脱などを、邪魔で危険なものとして規定してゆくそのやり方だ。
「外部」や価値の多様性といった言葉は、まず「居直り」という負の態度との結び付きがクローズアップされることにより、不穏で警戒すべきものの色合いに染め上げられる。さらにそれは内田樹の「学びから降りた者の自己肯定(=居直り)」が結果的に資本に収奪され、踊らされるというからくりを述べた世迷言(内田によるとこの居直りする輩が資本主義をヒートアップさせるらしいのだ)に接続され、そうした自己肯定は、むしろ現実の貧困を隠蔽し変革を阻害する反動要因であると結論される。
たしかに居直りという言葉に値するネオコンやバカ左翼といった論者は存在するのだろう。だかそのような安易な態度は、多様な価値や外部を強調することから必然的に導き出されるわけではない。例えばきはむさんが例にあげる「人間であるだけで不可侵の自然権を持つなんてことは単なる決まりであって嘘なんだから、黒人に人権を認めないように決まりをつくりかえてもいいだろう」などという主張は、よほど稚拙な推論を駆使しなければ出来ない。批判されるべきはそのような稚拙な論者の論理であって、こういう論者の存在を理由に外部や多様な価値を危険視し、居直りという負の態度の由来を、そこにもってきてしまうのはおかしい。きはむさんだってこの「外部」の思考モデルに基づいて現行社会をラジカルに批判しているはずだ。ずいぶんと「外部」の世話になっているのに、それを警戒すべきだなんて言うのはあまりにも恩知らずではないか。
それに「外部」への志向や多様な価値の称揚が、現状の肯定や反動へつながるというもっともらしい理屈もよく考えると妙なのだ。
きはむさんの言ってることを整理すると、いくら「外部」を志向し、ラジカルな変革を唱えようとも、結局それを唱える本人も現行社会の内部に生きなければならない以上、当人の活動は現行社会内部での選択に還元されてしまう。つまりは現行内での自己決定や選択に自由を見るリベラルな自己責任論者の生き方と何が違うのか? それは結果的に格差社会を温存するわけで、身をもって現状肯定しているだけじゃないか、ということになるだろう。
私たちが、みなとりあえず現行の内部に生きざるを得ず、その秩序にしたがって生活してゆかなければならないのは当然のことだ。その意味ではオンリーワン主義者のみならず、すべての人がこの社会で選択し自己決定して生きざるを得ない。しかし内部に生きているという理由によって、現状の追認や肯定というレッテルを貼られしまうのであれば、すべての人は現状肯定者であろう。きはむさんのように変革のビジョンを準備し、社会の改良や修正という喫緊の課題に取り組むことすら、(改良だって外部に立脚して行えるわけではないから)現行内部での決定と選択に還元され、現状維持呼ばわりされかねない。
つまりこの言い方から結論できるのは、資本主義社会に生きる以上すべての人の活動は市場での自己決定や選択行動として解釈されうる、ということであって、とりたててオンリーワンだけを現状維持だと規定する論拠にはならないだろう。
この理屈は、内田樹の「学びから逃走する若者=居直り」が資本主義に踊らされ、収奪されることでシステムを下支えし、さらに資本主義がヒートアップしているというインチキなストーリーによって補強される。
居直る若者を諸悪の根源に仕立て上げる内田の言い草は本当にひどいものだ(まず収奪するものこそ問題にすべきなのに!)。実際には競争を勝ち抜いて大企業に就職出来た人だって搾取は受けるだろうし、受験競争を勝ち抜くために教育産業にずいぶん金をつぎ込んだかもしれない。就職してからでも同僚との激しい競争に巻き込まれているとすれば、それはやはり資本主義をヒートアップさせている、といいうるだろう。成功した実業家にでもなれば、搾取はされないといえるかもしれないが、資本の意志を体現するものとして積極的にシステムを支えることになるだろう。また成功者は可処分所得も多いだろうから、消費の面からも資本主義をヒートアップさせるかもしれない。なのに槍玉に挙げられるのは「学びから逃走する若者=居直り」だけなのである。
つまり先の自己決定や選択云々と同様、この理屈から引き出せるのは、私たちは資本主義社会の内部に生きている限り、この社会に加担し、最終的には利用されるだろう、ということに過ぎない(マルクスの書物も資本を潤す)。資本主義社会とはそういうものなのであり、それが廃棄されない限り、私たちはみなこの社会で踊らざるを得ないのだ。居直る若者(多様な価値を称揚するオンリーワン)だけが収奪されたり踊らされたりしているわけではない。収奪されることや社会への加担をを責められるとしたら、私たちはどうやって生きていくというのだろう。内田の説はこのように「資本主義のヒートアップ=現行社会の居心地の悪さ」をとりたてて「学びから逃走する若者(=居直り)」のせいにしているわけであるが、このような理屈は言いがかりの部類に属すると解するべきだろう。
さらに、きはむさんは「業績主義的価値観や生産主義的価値観における「負け」も別の価値観から見れば「勝ち」だと語ることは、意識の持ちようによって現実にある貧困や窮状を不可視化しようとする、一種の精神論/根性論である」と、オンリーワン主義の意識が、経済的・社会的格差を温存し、現状維持や反動にすらつながると結論する。
勘違いしないで欲しいのは、自分の手元の現実がよいものだと強弁することがオンリーワンの目的ではないということだ。現行社会に不満があり、それに対する異議を身をもって唱えることがオンリーワン戦略の一つの目的であるのだが、そのような生き方の結果、意識と現実の齟齬が(困窮というかたちで)広がったとするならば、それは異議申し立てを激しく先鋭にしこそすれ、不可視になどするはずがないのである。不満があり、憤りもある。しかし私たちは今とりあえずこの不満だらけの社会で生きて行かざるを得ないから意識の中でだけ「勝ち」を主張せざるをえないのだ。たとえ現実にはマイナーな存在であるからといって、そのことを隠蔽する理由などどこにもないのである。
決定的な誤りは、はじめに多様性(外部)が居直りとイコールで結び付けられてしまったことであろう。つまりきはむさんは、現行を批判する上で誰もが使っているはずの「外部」の思考の手続きを、その手続きを行使した上で出てきた(正当ならざる、それゆえ批判されるべき)ひとつの実践の態度に過ぎないもの=居直りと重ね合わせてしまった。こうなるともう、きはむさんによる批判は、多様な人間のあり方、すべてのラジカルな社会運動や(きはむさん自身も含めた)変革の試みをも全否定するところに行き着くしかなかったのである。
多様性を尊重すると言っておきながら、それを理論的に潰すやり口は内田樹とそっくりだ。まあ、たんなる保守おじさんに過ぎない内田と、明確に社会を変えることを主張しているきはむさんを同一視することは出来ないにしても、このようなカテゴリーミステイクを犯しながら平然と一本とったつもりになれるというのは、多様な価値を称揚するオンリーワン(おそらくは自律的な価値の創造を強調する社会運動なども)が、きはむさんの目にはひどく疎ましいものとして立ち現れているからだろうことは想像がつく。本当は、自分の気に食わないものに対して、悪い魔法使いのごとく、呪いをかけてしまいたいだけなんじゃないのか、とも思う。
だが、もうこれで呪いは解けただろう。多様な価値の追求が危険であるとか、現状肯定に直結するなどという物言いは、でっち上げである。そう結論しなければならない。
ただし、私はオンリーワン万々歳だと言いたいわけではない。多様な価値を称揚するオンリーワン主義者が批判される文脈はもちろん存在する。実際、オンリーワンが現行社会を結果的に支えるだけでなく、より積極的に現行を肯定する太鼓持ちの役割へと堕落する危険性は高い。それどころかネオコン的居直りのような凶悪なものに変質する可能性だってあるだろう。そうならないためにも私たちは現在身の回りで何が行われているのかをしっかり見抜けなければならない。自らの特異な欲望を肯定し、生命を燃焼させることは、ギリギリの厳しい認識を要求する。居直りなんていう安易な態度のもとには生命の燃焼もまたありえないのである。
きはむさんはもっと楽に生きていける社会を目指していると言っている、またそれはワガママの許される社会だとも。その主張には共感する。が、とりあえず今この現行社会の中でワガママに生きれば、おそらく楽は出来ないだろう。明日にでもこの社会がひっくり返らない限り、ワガママにはつけが回ってくる社会で生きるしかない。だが私はそのつけを払っても、今ワガママしたいのだ。そんな社会を変えるため、また何よりも、今この瞬間に生命を燃焼するために。
この通りすがりの人への返事でも書いたように「資本主義の支配的価値の外部を構想してみることで、資本主義への没入状態から一歩距離をとる」という思考のプロセスにおいて外部を語っているのであって、現実に外部が存在すると考えているわけではないのだ(外部は現実化すると同時に内部化する。したがって外部は到達することの出来ない「不可能なもの」である。しかし外部の力を借りずに現行社会の批判など出来るものだろうか)。まあ誤解されるのは、私の書き方が悪いせいでもあり、私自身の中に曖昧なところもあったのかもしれないと思うが。
で、こちらの人もそういう誤解を持ち続けていたようだ。いいコメントもついているので、すでに誤解は解けていると期待したいが、このきはむさんのエントリーに描かれたaraikenの姿があまりにマヌケ面なのを見るにつけ、もう一度言わずにいられなくなってきてしまった。
上でも述べたとおり、私は、非資本主義的な多様な価値を称揚することで、資本主義社会の「外部」が姿を現すと考えているわけではない。きはむさんの言葉を借りるなら「この世界の中(内部)でわれわれは何をすることができるのか」を考えるためにそういう思考の手続きをとっているにすぎない。まずは、私が外部へ到達することを考えている、との誤解を取払って欲しい。
また、きはむさんは「支配的な価値からの逸脱を推奨する言説が、逸脱後の具体的なビジョンを準備できていることは少ない」と書いている。実際そうなのかは知らないが、私自身は当然そのようなビジョンが必要だと思っているし、社会の改良や修正が喫緊の課題であるというのも理解できる。(しかし、具体的なビジョンを考える作業は専門的な知識や時間が必要で、誰にでも出来ることではない。少なくとも私にその能力や時間があるとは思えない。その点やはりエキスパートに頼らざるを得ないんだろうなと思う。しかし問題を提議することは私にも出来る。何度か書いたことなので繰り返さないが、現行社会の中でその制度が持っている非人間的な問題点を、身をもって告発することこそが、一元的な価値への抵抗と支配的なコードからの逸脱を目指し、多様な価値と欲望を解放する者の役割である。そのような告発や問題提議があってこそ変革の具体的なビジョンも浮かび上がってくるのである。私は私の持っている条件の中で可能な選択をする。それはそれなりの覚悟さえあれば、大部分の人に可能な選択でもあるだろう。)
では、私ときはむさんの考え方の大きな違いは何かといえば、私が、具体的な社会の変革と、オンリーワンの生き方=支配的な価値からの逸脱する行為を並行して行うべきものだとするのに対して、きはむさんは、逸脱や多様性の解放する行為を、(現行の内部においては)社会の変革のためにはむしろ邪魔なものだと見ているところにあると思われる。
それゆえ、私はきはむさんに対して、終始逸脱や多様性の現在における(現行の内部における)その意義を強調し、擁護してきた。
私にとってどうにも納得が行かず、意地悪に感じられるのは、きはむさんが価値の多様性や逸脱などを、邪魔で危険なものとして規定してゆくそのやり方だ。
「外部」や価値の多様性といった言葉は、まず「居直り」という負の態度との結び付きがクローズアップされることにより、不穏で警戒すべきものの色合いに染め上げられる。さらにそれは内田樹の「学びから降りた者の自己肯定(=居直り)」が結果的に資本に収奪され、踊らされるというからくりを述べた世迷言(内田によるとこの居直りする輩が資本主義をヒートアップさせるらしいのだ)に接続され、そうした自己肯定は、むしろ現実の貧困を隠蔽し変革を阻害する反動要因であると結論される。
たしかに居直りという言葉に値するネオコンやバカ左翼といった論者は存在するのだろう。だかそのような安易な態度は、多様な価値や外部を強調することから必然的に導き出されるわけではない。例えばきはむさんが例にあげる「人間であるだけで不可侵の自然権を持つなんてことは単なる決まりであって嘘なんだから、黒人に人権を認めないように決まりをつくりかえてもいいだろう」などという主張は、よほど稚拙な推論を駆使しなければ出来ない。批判されるべきはそのような稚拙な論者の論理であって、こういう論者の存在を理由に外部や多様な価値を危険視し、居直りという負の態度の由来を、そこにもってきてしまうのはおかしい。きはむさんだってこの「外部」の思考モデルに基づいて現行社会をラジカルに批判しているはずだ。ずいぶんと「外部」の世話になっているのに、それを警戒すべきだなんて言うのはあまりにも恩知らずではないか。
それに「外部」への志向や多様な価値の称揚が、現状の肯定や反動へつながるというもっともらしい理屈もよく考えると妙なのだ。
きはむさんの言ってることを整理すると、いくら「外部」を志向し、ラジカルな変革を唱えようとも、結局それを唱える本人も現行社会の内部に生きなければならない以上、当人の活動は現行社会内部での選択に還元されてしまう。つまりは現行内での自己決定や選択に自由を見るリベラルな自己責任論者の生き方と何が違うのか? それは結果的に格差社会を温存するわけで、身をもって現状肯定しているだけじゃないか、ということになるだろう。
私たちが、みなとりあえず現行の内部に生きざるを得ず、その秩序にしたがって生活してゆかなければならないのは当然のことだ。その意味ではオンリーワン主義者のみならず、すべての人がこの社会で選択し自己決定して生きざるを得ない。しかし内部に生きているという理由によって、現状の追認や肯定というレッテルを貼られしまうのであれば、すべての人は現状肯定者であろう。きはむさんのように変革のビジョンを準備し、社会の改良や修正という喫緊の課題に取り組むことすら、(改良だって外部に立脚して行えるわけではないから)現行内部での決定と選択に還元され、現状維持呼ばわりされかねない。
つまりこの言い方から結論できるのは、資本主義社会に生きる以上すべての人の活動は市場での自己決定や選択行動として解釈されうる、ということであって、とりたててオンリーワンだけを現状維持だと規定する論拠にはならないだろう。
この理屈は、内田樹の「学びから逃走する若者=居直り」が資本主義に踊らされ、収奪されることでシステムを下支えし、さらに資本主義がヒートアップしているというインチキなストーリーによって補強される。
居直る若者を諸悪の根源に仕立て上げる内田の言い草は本当にひどいものだ(まず収奪するものこそ問題にすべきなのに!)。実際には競争を勝ち抜いて大企業に就職出来た人だって搾取は受けるだろうし、受験競争を勝ち抜くために教育産業にずいぶん金をつぎ込んだかもしれない。就職してからでも同僚との激しい競争に巻き込まれているとすれば、それはやはり資本主義をヒートアップさせている、といいうるだろう。成功した実業家にでもなれば、搾取はされないといえるかもしれないが、資本の意志を体現するものとして積極的にシステムを支えることになるだろう。また成功者は可処分所得も多いだろうから、消費の面からも資本主義をヒートアップさせるかもしれない。なのに槍玉に挙げられるのは「学びから逃走する若者=居直り」だけなのである。
つまり先の自己決定や選択云々と同様、この理屈から引き出せるのは、私たちは資本主義社会の内部に生きている限り、この社会に加担し、最終的には利用されるだろう、ということに過ぎない(マルクスの書物も資本を潤す)。資本主義社会とはそういうものなのであり、それが廃棄されない限り、私たちはみなこの社会で踊らざるを得ないのだ。居直る若者(多様な価値を称揚するオンリーワン)だけが収奪されたり踊らされたりしているわけではない。収奪されることや社会への加担をを責められるとしたら、私たちはどうやって生きていくというのだろう。内田の説はこのように「資本主義のヒートアップ=現行社会の居心地の悪さ」をとりたてて「学びから逃走する若者(=居直り)」のせいにしているわけであるが、このような理屈は言いがかりの部類に属すると解するべきだろう。
さらに、きはむさんは「業績主義的価値観や生産主義的価値観における「負け」も別の価値観から見れば「勝ち」だと語ることは、意識の持ちようによって現実にある貧困や窮状を不可視化しようとする、一種の精神論/根性論である」と、オンリーワン主義の意識が、経済的・社会的格差を温存し、現状維持や反動にすらつながると結論する。
勘違いしないで欲しいのは、自分の手元の現実がよいものだと強弁することがオンリーワンの目的ではないということだ。現行社会に不満があり、それに対する異議を身をもって唱えることがオンリーワン戦略の一つの目的であるのだが、そのような生き方の結果、意識と現実の齟齬が(困窮というかたちで)広がったとするならば、それは異議申し立てを激しく先鋭にしこそすれ、不可視になどするはずがないのである。不満があり、憤りもある。しかし私たちは今とりあえずこの不満だらけの社会で生きて行かざるを得ないから意識の中でだけ「勝ち」を主張せざるをえないのだ。たとえ現実にはマイナーな存在であるからといって、そのことを隠蔽する理由などどこにもないのである。
決定的な誤りは、はじめに多様性(外部)が居直りとイコールで結び付けられてしまったことであろう。つまりきはむさんは、現行を批判する上で誰もが使っているはずの「外部」の思考の手続きを、その手続きを行使した上で出てきた(正当ならざる、それゆえ批判されるべき)ひとつの実践の態度に過ぎないもの=居直りと重ね合わせてしまった。こうなるともう、きはむさんによる批判は、多様な人間のあり方、すべてのラジカルな社会運動や(きはむさん自身も含めた)変革の試みをも全否定するところに行き着くしかなかったのである。
多様性を尊重すると言っておきながら、それを理論的に潰すやり口は内田樹とそっくりだ。まあ、たんなる保守おじさんに過ぎない内田と、明確に社会を変えることを主張しているきはむさんを同一視することは出来ないにしても、このようなカテゴリーミステイクを犯しながら平然と一本とったつもりになれるというのは、多様な価値を称揚するオンリーワン(おそらくは自律的な価値の創造を強調する社会運動なども)が、きはむさんの目にはひどく疎ましいものとして立ち現れているからだろうことは想像がつく。本当は、自分の気に食わないものに対して、悪い魔法使いのごとく、呪いをかけてしまいたいだけなんじゃないのか、とも思う。
だが、もうこれで呪いは解けただろう。多様な価値の追求が危険であるとか、現状肯定に直結するなどという物言いは、でっち上げである。そう結論しなければならない。
ただし、私はオンリーワン万々歳だと言いたいわけではない。多様な価値を称揚するオンリーワン主義者が批判される文脈はもちろん存在する。実際、オンリーワンが現行社会を結果的に支えるだけでなく、より積極的に現行を肯定する太鼓持ちの役割へと堕落する危険性は高い。それどころかネオコン的居直りのような凶悪なものに変質する可能性だってあるだろう。そうならないためにも私たちは現在身の回りで何が行われているのかをしっかり見抜けなければならない。自らの特異な欲望を肯定し、生命を燃焼させることは、ギリギリの厳しい認識を要求する。居直りなんていう安易な態度のもとには生命の燃焼もまたありえないのである。
きはむさんはもっと楽に生きていける社会を目指していると言っている、またそれはワガママの許される社会だとも。その主張には共感する。が、とりあえず今この現行社会の中でワガママに生きれば、おそらく楽は出来ないだろう。明日にでもこの社会がひっくり返らない限り、ワガママにはつけが回ってくる社会で生きるしかない。だが私はそのつけを払っても、今ワガママしたいのだ。そんな社会を変えるため、また何よりも、今この瞬間に生命を燃焼するために。
09.29.2007
呪われた部分
バタイユ「呪われた部分」を久しぶりに読む。やはり一番面白いのはキリスト教中世からブルジョワ世界が誕生してくるあたりの記述かなあ。。。宗教改革についてもうちょっと詳しく知りたいところだ。もう一度マックスウェーバーでも読むべきか。ところでバタイユはこんなふうに書いている。
いろいろな評価があるわけだろうが、禁欲的な中世の闇から奇跡のように出現した高度蕩尽機構ルネッサンスは、荒々しくとても魅力的な時代であり、それが宗教改革やら反宗教改革の味気ない僧服の改革によって壊れてゆく様を見るのは、なにかこう、いたたまれないものがある。しかしルネッサンスの土台であるカトリックの世界(経済)が欺瞞に満ちたものであったのもまた事実で、宗教改革のような急進的な運動がなければ、私たちの近代も存在しなかったに違いない。
さらにバタイユは宗教改革の性格はマルクス主義とよく似ているというのだ。
社会主義(人民服)の味気なさは、僧服の味気なさを髣髴とさせる。以前シュルレアリスムに関する本を読んでいて印象に残ったエピソードがあった。ブルトンとトロツキーがメキシコで懇意にしていたときのこと、(記憶違いでなければ)ブルトンがメキシコ先住民の土器に見惚れているのを、トロツキーが憤りを持って眺めていたというのだ。それ以上詳しいことは書いてなかったのだが、異端であれ革命家のトロツキーにとっては、美術品を眺めて悦に入るようなことはブルジョワ趣味でしかなかったということだろうか。搾取や貧困の克服への行動が第一の問題になっているときに、美や文化などにかかずらっているとは何事だ! ということかなと私は理解したのだが。。。
いずれにせよマルクス主義の革命家はルター的な憤りを持って、過去の社会の一切の虚飾を否定しようとしていたのだろう。しかしそうした急進的で僧服=人民服的な味気なさは、(革命直後のロシアアヴァンギャルドなどの例外はあるが)社会主義世界の文化的不毛を結果的にもたらした。ブルトンはあまり好きではないが、私はここでのトロツキーより、やはりブルトンの側に立っている。
でも自分の中にもルター的な急進主義があるなあ、と思う。現代にはルネッサンス以上にアートが溢れているように見える。だがそれらはルターが目にしたローマ以上に欺瞞に満ちた虚飾であるように私には見える。だから私はアートを否定するという急進的な方法でルターのごとき憤慨を表現する。が、それはルターが神に接近するためにそうしたように、私も文化を再生させたくてそうするのだ。
ルターの教義は資源の高度蕩尽機構の完璧な否定である。
いろいろな評価があるわけだろうが、禁欲的な中世の闇から奇跡のように出現した高度蕩尽機構ルネッサンスは、荒々しくとても魅力的な時代であり、それが宗教改革やら反宗教改革の味気ない僧服の改革によって壊れてゆく様を見るのは、なにかこう、いたたまれないものがある。しかしルネッサンスの土台であるカトリックの世界(経済)が欺瞞に満ちたものであったのもまた事実で、宗教改革のような急進的な運動がなければ、私たちの近代も存在しなかったに違いない。
さらにバタイユは宗教改革の性格はマルクス主義とよく似ているというのだ。
マルクス主義の根本命題は、ものの(経済の)外にある一切の要素から、ものの(経済の)世界を全的に開放することである。
社会主義(人民服)の味気なさは、僧服の味気なさを髣髴とさせる。以前シュルレアリスムに関する本を読んでいて印象に残ったエピソードがあった。ブルトンとトロツキーがメキシコで懇意にしていたときのこと、(記憶違いでなければ)ブルトンがメキシコ先住民の土器に見惚れているのを、トロツキーが憤りを持って眺めていたというのだ。それ以上詳しいことは書いてなかったのだが、異端であれ革命家のトロツキーにとっては、美術品を眺めて悦に入るようなことはブルジョワ趣味でしかなかったということだろうか。搾取や貧困の克服への行動が第一の問題になっているときに、美や文化などにかかずらっているとは何事だ! ということかなと私は理解したのだが。。。
いずれにせよマルクス主義の革命家はルター的な憤りを持って、過去の社会の一切の虚飾を否定しようとしていたのだろう。しかしそうした急進的で僧服=人民服的な味気なさは、(革命直後のロシアアヴァンギャルドなどの例外はあるが)社会主義世界の文化的不毛を結果的にもたらした。ブルトンはあまり好きではないが、私はここでのトロツキーより、やはりブルトンの側に立っている。
でも自分の中にもルター的な急進主義があるなあ、と思う。現代にはルネッサンス以上にアートが溢れているように見える。だがそれらはルターが目にしたローマ以上に欺瞞に満ちた虚飾であるように私には見える。だから私はアートを否定するという急進的な方法でルターのごとき憤慨を表現する。が、それはルターが神に接近するためにそうしたように、私も文化を再生させたくてそうするのだ。
09.12.2007
前衛の孤独
そうそう、私はこのような「前衛」という言葉の使い方に賛成する。
中南米というと私はまず、アステカやインカなどのミステリアスな古代文明を思い出してしまう。また、現代の中南米に関しては、サッカー選手の顔ぐらいしか思い出せないという、それこそ観客的な、お恥ずかしい限りのありさまだ。こういうサパティスタみたいな運動の詳細をこそ私などがもっと知っていなければならないのに。
ラテンアメリカにおけるそうした「生-闘争(bio-lucha)」が具体的にどのようなものなのか、私は知らないわけであるが、その「日常生活の前衛」とでも呼びうる闘争の形態は、もちろんいわゆる歴史上の「アヴァンギャルディズム」とはまったく違うものだということは想像できる。しかしそれは「前衛」と形容し得るものだろう。つまり私たちは現在の抵抗の中で「前衛」という概念を定義しなおしているのだ。例えば擦り切れるほど使い古されたはずの「自由」という言葉がそうであるように、「前衛」という言葉も現在の闘争によって命を与えなおされているのだ。
私はかねてからアヴァンギャルド(前衛)芸術という祭りはとっくに終わっているのだと主張してきた。それでも「前衛」という言葉にこだわりたいのは、現在的な抵抗の中にアヴァンギャルドの精神の誇りとと孤独は引き継がれるべきだと考えているからだ。わたしたちをオーディエンス=観客に押し込めようとする数多の力に抵抗し、自ら「生きるもの」としてあろうとするとき、私たちは常に前衛=前線に立ち続けるものプライドと孤独を友とせねばならないと思う。
「生-闘争(bio-lucha)」だとか、「代表制政治システムの外で、自律的な生活空間を創造する」なんて勇ましい運動系の言葉使いは、本当言うとどうも苦手だ。なにか、強力な指導者によって空間がオルガナイズされるような印象すら与えてしまいかねない。実際には前衛=前線というのは人の数ほどあるはずで、てんでバラバラなそれぞれの孤独な活動だけが基礎にあるというのが正しい。きなくさい言葉を使ってはいるが、私自身は「闘争」という言葉に、例えば、近所の人にバカにされながらサントヴィクトワール山をシコシコと描き続けた老セザンヌの孤独で誇り高い姿が重なってしまったりするのである。
中南米というと私はまず、アステカやインカなどのミステリアスな古代文明を思い出してしまう。また、現代の中南米に関しては、サッカー選手の顔ぐらいしか思い出せないという、それこそ観客的な、お恥ずかしい限りのありさまだ。こういうサパティスタみたいな運動の詳細をこそ私などがもっと知っていなければならないのに。
ラテンアメリカにおけるそうした「生-闘争(bio-lucha)」が具体的にどのようなものなのか、私は知らないわけであるが、その「日常生活の前衛」とでも呼びうる闘争の形態は、もちろんいわゆる歴史上の「アヴァンギャルディズム」とはまったく違うものだということは想像できる。しかしそれは「前衛」と形容し得るものだろう。つまり私たちは現在の抵抗の中で「前衛」という概念を定義しなおしているのだ。例えば擦り切れるほど使い古されたはずの「自由」という言葉がそうであるように、「前衛」という言葉も現在の闘争によって命を与えなおされているのだ。
私はかねてからアヴァンギャルド(前衛)芸術という祭りはとっくに終わっているのだと主張してきた。それでも「前衛」という言葉にこだわりたいのは、現在的な抵抗の中にアヴァンギャルドの精神の誇りとと孤独は引き継がれるべきだと考えているからだ。わたしたちをオーディエンス=観客に押し込めようとする数多の力に抵抗し、自ら「生きるもの」としてあろうとするとき、私たちは常に前衛=前線に立ち続けるものプライドと孤独を友とせねばならないと思う。
「生-闘争(bio-lucha)」だとか、「代表制政治システムの外で、自律的な生活空間を創造する」なんて勇ましい運動系の言葉使いは、本当言うとどうも苦手だ。なにか、強力な指導者によって空間がオルガナイズされるような印象すら与えてしまいかねない。実際には前衛=前線というのは人の数ほどあるはずで、てんでバラバラなそれぞれの孤独な活動だけが基礎にあるというのが正しい。きなくさい言葉を使ってはいるが、私自身は「闘争」という言葉に、例えば、近所の人にバカにされながらサントヴィクトワール山をシコシコと描き続けた老セザンヌの孤独で誇り高い姿が重なってしまったりするのである。
08.27.2007
ヘーゲル講義
私が初めて読んだ哲学書はショーペンハウアーだった。ご存知の通り彼はヘーゲルを終生敵視していた。その影響か、私も読みもせずにヘーゲル嫌いになってしまった。「理性的なものは、現実的である」とか言って、現状肯定し、どっかりと大学教授の座に腰を落ち着けているなんて哲学者とはいえない。本物はいつもショーペンハウアーのように世間に理解されず孤独な生を送っているものだ、、、というイメージが私の中に出来上がって、重厚な知の体系であり難解そうなヘーゲルの哲学には一生興味など持たないだろうと思っていた。
しかしマルクスなんか読むようになると、弁証法という言葉とともにヘーゲルが否応なしに視界に入ってくる。で、何年か前「精神現象学」を手にしたのだが、もう序文だけで降参、、、さっぱりわからなかった。入門書なんかも読んでみたが、いまいちヘーゲルの面白さが伝わってこない。その哲学の重要さは誰もが強調しているにもかかわらず。
コジェーヴの「精神現象学講義」については、岡本太郎の自伝を読んだときから知っていた。だからある日、図書館でコジェーヴの本を見つけたときは、おお!と思った。早速借りてはじめの方を読んだのだが、読書に割く時間に恵まれず、瞬く間に2週間以上が過ぎて図書館に返却しなければならなかった。しかもリクエストが入っていたらしく、貸し出し期限を守ってくださいと、司書の人におこられてしまった。チクショウ! こんな本買う金ぐらいオレだって持ってるんだ! と無性に腹が立って大型書店に直行し、衝動的に分厚いコジェーヴの本を買ってしまった。。。。もっともそのままその分厚さに怯えてページを開く機会はなかったが(笑)。
今回タイに来るとき日本からこの分厚いのを持ってきて、途切れ途切れではあったが何とか読みきることが出来た。読後の印象はといえば、同じぐらい分厚いネグり&ハートの「<帝国>」が華麗な絵巻物のような味わいだとすれば、こちらはきわめて骨太でシンプル、かつストレート、といったところか。
でもそこがいい。華麗なパスワークで相手を翻弄するサッカーチームに対して、コジェーヴのイメージは、どちらかといえば体力任せに、愚直なほどシンプルに効果的な攻撃を繰り返してゴールを陥れるチームのようだ。こういうチームのサッカーは一見面白くないんだけど、得点という攻撃の目的からのブレはない。
コジェーブの講義の特徴もこのブレのなさだ。このシンプルなブレのなさはいったいどこから来ているのだろう。ヘーゲルを徹底的に読み込んでいるという自信からだろうか? こう読む以外の解釈なんてありえないと言わんばかりの力技にも見える。もちろんヘーゲルを呼んだことのない私にこの「読み」が妥当なものなのか知る由もないが、コジェーヴによって描き出されたヘーゲルの思想はダイナミックで人を惹きつけるものがある。そうそう、私はこういうヘーゲルの魅力を余すところなく伝えてくれるヘーゲル入門が読みたかったんだ。
面白いのは「ヘーゲルの講義」と称しているにもかかわらず、コジェーヴ自ら抉り出したヘーゲル思想の骨格にそぐわないヘーゲル自身の言葉を批判すらしているところだ。この講義からはコジェーヴの並々ならぬヘーゲルへのリスペクトが感じられるが、それにもかかわらず率直に、一切ブレることなく自らの「読み」に殉じているあたりが爽快だ。当たり前のことかもしれないが」読む」とはこういうことでなければならないと改めて思った。ようするにたんなるヘーゲル講義というより、ヘーゲルをおかずにしたコジェーヴ思想の開陳ということになるのだろう。いずれにせよ私はこの講義によって、ヘーゲルへの興味を掻き立てられ、嫌いだったヘーゲルを読む勇気をも与えられたことは間違いないようだ。
繰り返すが私はヘーゲルを読んだことがないので、コジェーヴの「読み」について何かをいえる立場にはない。だから単純に感じだことだけをいくつか書き留めておくだけで終わりにする。
まず、メシを食うことを、「食物を否定する」と表現するのにはちょっとビックリ。メシを食いながらオレは今、否定しているのか、、、と考えるとなぜかメシが不味くなる。
私たちは自らの人間性というものを、私たちの抱いている欲望なり観念なりを現実{外界)を否定し作り変えて、現実の中に実現することなくしては証明できない。。。という意味の言葉が再三にわたって講義の中に出てきたと思うが、これを読むと、いてもたってもいられなくなるような感じで、ケツがムズムズしてくる。
宗教のイデオロギー性についても再三語られている。宗教が幻想であることは、民衆のアヘンであるなんて言われなくてもわかりきったことだが、ヘーゲルの世界史的パースペクティヴのなかで捉えなおすとまた新鮮だ。イデオロギー論の源泉を見たような気がした。
しかしマルクスなんか読むようになると、弁証法という言葉とともにヘーゲルが否応なしに視界に入ってくる。で、何年か前「精神現象学」を手にしたのだが、もう序文だけで降参、、、さっぱりわからなかった。入門書なんかも読んでみたが、いまいちヘーゲルの面白さが伝わってこない。その哲学の重要さは誰もが強調しているにもかかわらず。
コジェーヴの「精神現象学講義」については、岡本太郎の自伝を読んだときから知っていた。だからある日、図書館でコジェーヴの本を見つけたときは、おお!と思った。早速借りてはじめの方を読んだのだが、読書に割く時間に恵まれず、瞬く間に2週間以上が過ぎて図書館に返却しなければならなかった。しかもリクエストが入っていたらしく、貸し出し期限を守ってくださいと、司書の人におこられてしまった。チクショウ! こんな本買う金ぐらいオレだって持ってるんだ! と無性に腹が立って大型書店に直行し、衝動的に分厚いコジェーヴの本を買ってしまった。。。。もっともそのままその分厚さに怯えてページを開く機会はなかったが(笑)。
今回タイに来るとき日本からこの分厚いのを持ってきて、途切れ途切れではあったが何とか読みきることが出来た。読後の印象はといえば、同じぐらい分厚いネグり&ハートの「<帝国>」が華麗な絵巻物のような味わいだとすれば、こちらはきわめて骨太でシンプル、かつストレート、といったところか。
でもそこがいい。華麗なパスワークで相手を翻弄するサッカーチームに対して、コジェーヴのイメージは、どちらかといえば体力任せに、愚直なほどシンプルに効果的な攻撃を繰り返してゴールを陥れるチームのようだ。こういうチームのサッカーは一見面白くないんだけど、得点という攻撃の目的からのブレはない。
コジェーブの講義の特徴もこのブレのなさだ。このシンプルなブレのなさはいったいどこから来ているのだろう。ヘーゲルを徹底的に読み込んでいるという自信からだろうか? こう読む以外の解釈なんてありえないと言わんばかりの力技にも見える。もちろんヘーゲルを呼んだことのない私にこの「読み」が妥当なものなのか知る由もないが、コジェーヴによって描き出されたヘーゲルの思想はダイナミックで人を惹きつけるものがある。そうそう、私はこういうヘーゲルの魅力を余すところなく伝えてくれるヘーゲル入門が読みたかったんだ。
面白いのは「ヘーゲルの講義」と称しているにもかかわらず、コジェーヴ自ら抉り出したヘーゲル思想の骨格にそぐわないヘーゲル自身の言葉を批判すらしているところだ。この講義からはコジェーヴの並々ならぬヘーゲルへのリスペクトが感じられるが、それにもかかわらず率直に、一切ブレることなく自らの「読み」に殉じているあたりが爽快だ。当たり前のことかもしれないが」読む」とはこういうことでなければならないと改めて思った。ようするにたんなるヘーゲル講義というより、ヘーゲルをおかずにしたコジェーヴ思想の開陳ということになるのだろう。いずれにせよ私はこの講義によって、ヘーゲルへの興味を掻き立てられ、嫌いだったヘーゲルを読む勇気をも与えられたことは間違いないようだ。
繰り返すが私はヘーゲルを読んだことがないので、コジェーヴの「読み」について何かをいえる立場にはない。だから単純に感じだことだけをいくつか書き留めておくだけで終わりにする。
まず、メシを食うことを、「食物を否定する」と表現するのにはちょっとビックリ。メシを食いながらオレは今、否定しているのか、、、と考えるとなぜかメシが不味くなる。
私たちは自らの人間性というものを、私たちの抱いている欲望なり観念なりを現実{外界)を否定し作り変えて、現実の中に実現することなくしては証明できない。。。という意味の言葉が再三にわたって講義の中に出てきたと思うが、これを読むと、いてもたってもいられなくなるような感じで、ケツがムズムズしてくる。
宗教のイデオロギー性についても再三語られている。宗教が幻想であることは、民衆のアヘンであるなんて言われなくてもわかりきったことだが、ヘーゲルの世界史的パースペクティヴのなかで捉えなおすとまた新鮮だ。イデオロギー論の源泉を見たような気がした。
04.12.2007
カウンターが回るのは、、、
ブログの更新をしてないのに、アクセスカウンターが大きな伸びを示すことがあります。おそらく誰かが私の記事にリンクを貼ってくれたということだと思うのですが、ここ最近もそんなことがあったので、どこから人が来てるのかブログ検索で「祭りの戦士」というキーワードで調べてみました。
さようなら数学屋さん(瀬戸智子の枕草子)
懐かしい名前が飛び出してきました。、、、そうですよねえ。論理学のような知は、自分や自分たちを仮借なく追い詰めるための道具として使うべきだと思います。いつだったか数学屋さんが他の人に論の誤りを指摘されて、苦々しさを味わいながらも自分の誤りを認めていたことがありましたが、そんなふうに自分のプライドを犠牲にしてまで論理というものに殉じている数学屋さんの姿が、一番迫力があったように思います。私は論理学については何も知らないのですが、この瀬戸さんの書いたものを読んでも、基本的に数学屋さんは、自らを守るために論理学とう知(道具)を駆使しているのだろうという印象は拭えません。いつも数学屋さんがその太鼓持ちをやっている内田樹氏とやってることはよく似ているんですよね。
フェアトレード(茶飲み爺の日記)
もうまったく私のあずかり知らない話題に関連して、過去のエントリーが引用されていました。へー、他の人の言いたいことを代弁するようなことを言葉にしていたってことは、俺の書いたものもまんざら捨てたもんじゃないじゃん。ちょっと自慢。
さようなら数学屋さん(瀬戸智子の枕草子)
懐かしい名前が飛び出してきました。、、、そうですよねえ。論理学のような知は、自分や自分たちを仮借なく追い詰めるための道具として使うべきだと思います。いつだったか数学屋さんが他の人に論の誤りを指摘されて、苦々しさを味わいながらも自分の誤りを認めていたことがありましたが、そんなふうに自分のプライドを犠牲にしてまで論理というものに殉じている数学屋さんの姿が、一番迫力があったように思います。私は論理学については何も知らないのですが、この瀬戸さんの書いたものを読んでも、基本的に数学屋さんは、自らを守るために論理学とう知(道具)を駆使しているのだろうという印象は拭えません。いつも数学屋さんがその太鼓持ちをやっている内田樹氏とやってることはよく似ているんですよね。
フェアトレード(茶飲み爺の日記)
もうまったく私のあずかり知らない話題に関連して、過去のエントリーが引用されていました。へー、他の人の言いたいことを代弁するようなことを言葉にしていたってことは、俺の書いたものもまんざら捨てたもんじゃないじゃん。ちょっと自慢。