Tue.

というわけで、ご報告!

 「親がバカでも子は育つ」とはよく言ったもので(?)、こいつももう卒園です。

 はい、おめでとう。

 で、これが発表会での晴れ姿。

 君には半分ネイティヴの血が流れているんだ、他の子よりうまく踊れよ!

 そんでもって、こちらが2匹目です。僕も兄ちゃんと一緒に踊ってまーす!
20:52 | 日記・その他 | comments (6) | trackbacks (0) | page top↑
Sat.

卒園

 もう3月。先日ガキの幼稚園の卒園式がありました。、、、ということになれば、スナップ写真の一枚でも添えてご報告、といきたいところなのですが、ここ一年ほどそういうのができていません。金がなくてアパートにパソコンもインターネット回線も入ってないせいです(泣)。ありがたいことに、同じ幼稚園に通ってる子のお母さんのブログがあったので、ちょっと雰囲気だけでもお伝えしようかと、、、



 なんだか人の生活を覗き見するようでなんですが、私のガキもこの空間を共有しています。発表会でタイ舞踊を踊っている写真がありますが、写真の左端に切れて写っているのが(顔の形からしておそらく)私のガキです(笑)。
 卒園式ではきれいなお母さん(羨ましい)が報告なさっている通り、大きくなったら何になりたいか、ひとりずつマイクに向かってしゃべらされていました。名簿順なので私のガキが一番はじめにマイクにたったのですが、緊張のせいか小さい声で「電王」とだけ答えていました。大統領、お医者さん、サッカー選手、恐竜博士など他の子はまっとうな答えをしていましたが、「電王」ってさあ、、、ネタではよくあるけど。まあ、ご父兄方にもほとんど聞こえなかったようで、特に反応もなかったのですが。いやあ、確かに職業の選択やその実現を「夢」だのなんだのっていうのが、イデオロギッシュな感じがして好きじゃないので、ガキと将来何になりたいかなんて話はしたこともなかったのですが、、、それにしても「電王」ってのは。。。。そろそろ社会の現実というものを教えなければならないのかもしれません。
 卒業証書の授与のときは、名前を呼ばれると終始奇怪な笑みを浮かべながら、ロボットの兵隊のように高々と足を上げ、くるくるターンをして周囲の笑いを取りながら証書を受け取っていました。厳粛なる式でおどけものを演じるとは、、、言葉での自己表現が不自由な分、パフォーマンスでアピールしてるのでしょうか?

 とにかくこれで幼稚園は終わり、来月から小学校に上がることになるわけです。お疲れ様、俺。
21:28 | 日記・その他 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
Sat.

おばあちゃんが言っていた、、、その2

 20世紀を通じて左翼(共産主義)の運動も、党によって組織された力の政治によって変革を担ってきたわけだが、そのような流れの中にシュルレアリスムという異色の運動が存在した。シュルレアリストたちも共産主義にシンパシーを感じていて、自分たちの仕事を革命に奉仕するものだと位置づけようとしていた。実際シュルレアリスムの主要メンバーはある時期共産党員だった。もっとも党の側といえば、シュルレアリストたちを終始胡散臭い存在とみなしていたようだが。
 それもそのはずで、シュルレアリスムの運動が左翼として異彩を放っているのは、それが本質的に「無力」を意志するものであると思うからだ。彼らの活動はオートマティスムという概念を廻るものであり、理性の検閲を受けぬ、自動性、偶然性の価値を積極的に生の中へ溢れさせようとするものであった。しかしこれらが、理性的に効果を計算し、冷徹に結果を求める党の社会変革の方針(力の政治)と相容れないのは明らかだ。未開の文化や狂気の生み出した妄想チックなイメージに大喜びするシュルレアリストたちを、真剣に力の政治を追求している党の人たちが見たなら、きっと「こいつらは何を遊んでいるのだ」と思うに違いない。
 もちろん「無力」だといっても、シュルレアリストたちがまったく力を行使しなかったということを意味するわけではない。党の政治活動に参加するためにはもちろん、シュルレアリスティックな詩や絵を創り上げることにすらきわめて理性的な力の行使を要求される。それどころか力の行使がなければ日々の食い扶持を求めることさえできなくなってしまうだろう。つまりシュルレアリストは高度に理性的であり、力を行使する存在でありながら、同時に戦略的に「無力」を意志すべきだと考えていたに違いない。シュルレアリストが考える全的な人間のビジョンは、革命後の未来の社会で実現されるものであると同時に、現在の社会の内部においても(十全な形ではないとしても)実現されるべきだと、そのために力の行使である生を同時に可能な限り「無力」で満たすべきだ、と考えていたのではなかと思うのである。
 無力であるということは、力が現在を手段化し、享受の瞬間を繰り延べてしまうものであるのに対して、現在の瞬間そのものを目的とすることであり、瞬間の中で多様な価値に向かって開かれることである。党主導の力の政治が現在を手段化し、この繰り延べを行うことによって排除し、社会の周辺に追いやられ歴史の彼方に埋もれようとする周縁部の多様な諸価値を、「無力」を意志する精神(=シュルレアリスト)は現在の瞬間の中に更新することで発掘する。二つの世界大戦の狭間、帝国主義と全体主義が全盛の時代の空気の中にシュルレアリスムは奇蹟的な「無力」の美を妖しく花開かせ、無視され、顧みようとすらされない価値に、劇的な形で新たな血液を送り込んだのである。

 、、、と、言い切ってしまいたいところだが、実際のシュルレアリスムは、指導者ブルトンその人が組織の中で絶対的な権力を振るっていたらしいことや、その画期的な運動のヴィジョンを幻惑的な芸術作品の生産という「力」の方向へのみ振り向けるしか能がなかったらしいことで、そのポテンシャルを汲み尽くさないまま、戦争という荒れ狂う時代の暴力の中で四散してしまった。戦後に運動は再結成されたが、運動が抱えていたこうした矛盾や甘さゆえ、もはや「無力」の痙攣的な驚異で現在を満たすことが出来なくなっていた。結局シュルレアリスムは「無力」を意志する運動という意味では不徹底であり、(シュルレアリスムの乗り越えを図った)シチュアシオニストたちが言ったようにそれは「端緒」でしかなかった、というのが結論なのかもしれない。

 シチュアシオニストが「新しい美は状況の美としてしかありえない」と語って作品に価値を置くことを捨てた背景には、限りなく「力」へと転換してしまったシュルレアリスムの堕落に対して、より徹底して「無力」であろうとする意志があったに違いない。
 「作品」は現行体制によって、ひとつの商品として、また、ある個人(アーティスト)のタレント(能力)の発露へと、すなわち財や力へと容易に解釈されてしまう。そのような解釈の権力から逃れるためにシチュアシオニストはアンダーグランドな集団的、匿名的な「状況」の創造という無形の活動に取り組んだのだ。
 また、運動におけるシチュアシオニストのスタイルはマルクスの影響を受けた左翼の運動としては異色である。「どこにおいても彼らは大衆運動の組織者として振る舞いはしなかった。SI(シチュアシオニスト・インターナシオナル) は、運動のないところでは批判的介入という直接行動によって状況の構築をめざし、運動が拡大し、状況が構築されたところでは自分たちの理論を伝達することに徹し、それを指導することはしなかった」(「転用」としての闘争………シチュアシオニストと68年 by木下誠)というのだ。すなわち、彼らは力で上から大衆を動かそうとはせず、水平的な、横のコミュニケートに徹したということだ。このことから想像できるのだが、68年のパリにおいても彼らの果たした役割も、運動を仕切ったり、はたまた背後から操ったりするようなことではなく、虐げられた欲望を噴出させ、擾乱をさらに推し進め、いわば超現実的な痙攣を現行体制の力の政治が支配する日常生活の中に引き込むこと、また彼ら自身その擾乱の中に引き込まれることであっただろう。シチュアシオニストは、アーティストとしての成功に無関心であったと同様、力によって世の中を動かしたいという欲望とも無縁であったのだ。

 「疎外された現実によって押しつけられているあらゆる条件とあらゆる価値を根底的に批判し、それらを自由に再構築することは、その[=現代のプロレタリアートの]最大限の綱領である。そして、生のあらゆる瞬間とあらゆる出来事の構築において何からも自由になった創造性を発揮することが、それにとって認めうる唯一の詩である。その詩は、万人によって作られる詩であり、革命の祝祭の始まりである、プロレタリアートの革命は祝祭となろだろう、さもなくば存在しないだろう、なぜなら、それらの革命が告げ知らす生そのものが祝祭のしるしの下に創造されるからだ。遊びこそがこの祝祭の究極の理性である。死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむことが、この遊びが認めうる唯一の規則である。」(『学生生活の貧困』ムスタファ・ハヤティ)


 これを読めばもうシチュアシオニストの関心は明らかだろう。ここで表現されているのは、生が資本主義の維持、再生産の手段であることを強制してくる体制権力に抵抗すること、すなわち現在の瞬間を繰り延べることなく燃焼し享受すること=瞬間そのものを目的とし「無力」で満たそうとする意志以外のなんであろうか。と同時に現行体制によって虐げられ排除された多様な(傍流の)価値の再構築/更新でもあるという意味で、シチュアシオニストの運動の戦略はシュルレアリスムの延長線上にあるのだ。

 思うのだが、私たちは生き抜くため、また、より良い世界を作るためにも力を用いる。一人の個人にしても、運動のようなひとつの共同体であってもそうだ。仮に「運動」ということから離れて考えてみた場合でも、私たちが現在の瞬間そのものを目的として享受しようとするなら、力を用いるその分だけ、同時的に、あたかもその力を覆い尽くし、打ち消すかのように「無力」を意志せざるを得ないのではないだろうか。
 自ら力を求めなくても手に入ってしまうということがある。たとえば仕事場などで、年を食いキャリアが蓄積されるだけで、その人には権威という妙な力が備わってくる。たいして偉いわけじゃないのに先輩面して、いじわるや横暴な振る舞いをすることも容易にできるようになってくるものだ。親になれば私たちは子供に対する権力者である。
 仕事をし、子育てをする役割にある以上、私たちはその権力を当然使っているし、使わざるを得ない。生きるということはそもそもが権力的であり、排除する暴力なのだ。私たちはそのことを認めながら生き、世界を変えることしかできない。
 しかし、そうでありながら仕事場の同僚や自分の子供との間に、社会的な生産や再生産の都合で結ばれている上下の権力関係をはずれた結びつきを同時に求めることもできる。つまり私たちは生きてゆく必要上従わなければならない(現行社会から押し付けられている)役割とは違った形(上下ではなく水平的な交流関係)において他人と関係を取り結ぶことも出来るわけである。
 もし私たちが完全に権力関係に服し、力のパースペクティヴの中にのみ生きるとすれば、現在の瞬間は生き延びるためへの配慮や、役割関係=目的への従属へと解消し、人間的な交流、そこに息づく多様性、その奥深い可能性を汲み尽くすことなく、享受は未来へと繰り延べられてしまうだろう。だからこそ私たちは日常生活の中に、また変革の過程の中に、可能な限り多様なな横の関係=「無力」を同時的に挿入し、この瞬間を満たそうと思うのではないか。私たちの生が手段化してしまうことへの空しさから逃れ、現在の瞬間を固有の彩りで満たそうとするなら(運動家や実存主義者ならずとも)そうするのだ。そうでないと私たちの日常は味気なく痩せ細ってしまう。
 私たちは学校の先生との生徒の間に、教え教えられるという役割関係と同時に、人間的な交流を築けるし、コンビニの店員と客でしかなかった二人が恋に落ちることもできる。はっきり意識していないかもしれないが、そのとき私たちは明らかに日常を貫く(体制の権力が押し付けている)役割関係に抵抗し始めているのである。

 つまり、シュルレアリストやシチュアシオニストたちのラジカルな活動は、われわれ誰もが無意識のうちにやっていること(すなわち「無力」の追求を)を、意識的に極限まで加速させようとする試みだといえる。
 資本主義社会が本質的に繰り延べの社会であり、それを転覆すべき左翼の運動すら繰り延べを行うものであったという絶望的な事態、体制による力の専制に対するに反体制の運動も力のみをもってするという近代政治の痩せ衰えた不毛さを見据えていたからこそ、シュルレアリストは夢や狂気など、非合理的で力が見向きもしなき価値へと接近し、また、シチュアシオニストは現行体制の支配的な価値へと日常を囲い込み、交流関係へのアクセスをさえぎろうとする「消費」を徹底的に批判することで、「無力」を志向し、現在を彩り、瞬間を燃焼させたのである。「無力」であることが彼らの闘いであった。そしてそれが彼らの運動の貴重な(他には容易に見出しがたい)意義であり、わくわくするような面白さの理由なのである。(つづく)

   
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Thu.

おばあちゃんが言っていた、、、その1

 「人間もネイティブもあるものか・・・!この世界に生きとし生けるもの、すべての命は皆等しい。他者のために自分を変えることのできるのが人間だ。自分のために世界を変えるんじゃない。自分が変われば世界も変わる。それが天の道。」


 ネイティヴというワーム(異星人の侵略者)の一派を代表する根岸という男に向かって、仮面ライダーカブト、天道総司は言い放った。人間に擬態しているワームである根岸は、表向き人間との平和な共生を語りながら、裏では全人類をネイティヴ化する計画を実行していた。曰く、ネイティヴを拒絶するのみならず、自分たち同士が争うことすらやめることのできない野蛮な人間と共存することなどありえない。むしろすべての人間をネイティヴ化してしまうことこそが真の平和なのだ、と。
 それに対して天道は、所詮お前はその程度なのだ。人間は変わることができる。。。と切り返す。で、最初の台詞につながってゆくわけだ。

 スクムウィット通りソイ33に日本語レンタルビデオ屋があって、ガキの見るビデオを毎週日曜日に借りに行っているのだが、最近は「仮面ライダーカブト」がお気に入りである。いや、ガキがではなく私のことなのだが。
 ガキは変身した後のアクションシーンだけにしか興味がなくて、そのほかのシーンには退屈しているようだが、私のほうは熱心にストーリーを追って観ている。ストーリーも難解だが演出もなかなか凝っていて、どこまでがマジでどこまでが冗談なのかわからない食えない(上級者向けの)ドラマになっている。もうわれわれが昔なじんだ悪の軍団ショッカーと戦うわかりやすい仮面ライダーとはまったく違って、よほどませたガキでなければこのライダーにはついていけないだろう。

 ところで、このネイティヴの根岸という男、腰の低いお調子者タイプのキャラとして登場するのだが、徐々に抜け目のない、権力を持った侵略者の正体を明かしてゆく。人間もネイティヴも分け隔てなく共存してゆけるような世界を作りたいんだ、なんて言っていたのが、結局のところネイティヴだけが生きるに値する存在だという自らの同質的な思考を暴露する。
 一方、天道のほうは、せりふからもわかるとおり人間と共存している以上、ネイティヴも人間と同じ生命だという立場にある(実は最愛の妹がネイティヴなのだ)。倒さなければならないのは(人間に擬態し、擬態した人間を殺害してゆく)凶悪な侵略者であるワームのみなのだ。
 もちろんこの根岸は悪役として登場しているのだから(しかも俳優の演技にアクションヒーロー物らしからぬ洗練された嫌味さがある)、このようなグロテスクな不快さを醸し出しているのは当然なのだが、お芝居ではない現実の人間の中に、殊に世の中を変えたいと考えている知識人の中に、まるでドラマの中の悪役であるかのような理想と戦略の間のグロテスクなズレを見ることは少なくなかったりする。
 マルクスのような大物知識人の中にすらこのようなズレが顔を覗かせていた、というのはちょっと驚きだ。しかしこれはその知識人の欠陥というより、力で世界を変えようとするときに必然的に現れざるを得ない事態なのかもしれない。力(権力)がなければ現実に世界を動かすことはできないだろうことを考えると、このズレは避けて通れぬものだということになる。
 一方、仮面ライダーカブト、天道総司は「自分が変われば世界も変わる。」と言っている。いろいろな解釈が可能かと思うが、ドラマの中の彼の言動からして、天道がそのような力(権力)から常に距離をとろうとしている、と考えるべきではないかと思う。ドラマの中での天道自身は、マスクドライダーシステムという暴力装置によってワームを倒すだけの力を振るえる立場にあるのだが。

 「社会を変える」みたいな大それた事を私は常日頃書いているのだが、私自身の過去を振り返ってみても、「世の中を動かしたい」という欲望を自分の中に持った記憶がほとんどない。今現在でも、社会は変わらなくてはならないと考えているにもかかわらず、変えるために力をつけようと思ったり、人間を組織したり、はたまた変えるための設計図を描いてみたり、といったことをやろうと思ったことすらないのだ。世の中を動かすことを政治と呼ぶなら、私はまったくもって非政治的な人間に違いない。
 生まれ育った環境によって、政治家や社会運動家に、あるいは事業家や学者のような権力や権威を持つ存在に、なるべくしてなったという人もいるだろう。だが私の場合、まず子供のころから弱虫で、ジャイアンのような腕力もなく、スネオが活用できた親の財力も、さらにはのび太がいつも頼りにしているドラえもんのような超自然的な力とも無縁だった(あたりまえだろ!)。そもそもが、世界とはこういうものなのであって、現在ようなあり方をしていることに疑問すら抱かなかった。
 違うあり方をした世界も可能なのだと考えるようになったのは、二十歳も過ぎるころになってのことだった。その結果、現行社会には憤りさえ感じるようにもなったが、具体的に社会を動かす行動を志し、力を求める気には、どういうわけだかならなかった。私の場合、そうした現行社会への批判的視線は、このクソったれな社会の中でどのように生きていくべきなのか、どう生きれば現在の瞬間を面白いものに出来るのか、という発想にもっぱら結びついていた。つまり動かす事を前提に俯瞰的に社会を捉える発想とは結局のところ無縁だったのだ。むしろ私は無力であることを意志しているのかもしれない、とすら思う。
 世界を変えるどころか、生まれたばかりの赤ん坊のように無力では、私たちは生きてゆくことすら出来ない。成長するにつれ私たちはいろいろな能力(腕力、知力など)や、財力や人脈のような外的な力を身につけて生き延びてゆくのだ。個人の人生ですらそうなのだ、ましてや世界を変えるとなれば、、、力が必要だと考えるのは当然のことだろう。であるにもかかわらず、どうしたことか私は力から距離を取らなければならないと、ますます強く思ってしまうのである。

 私たちは、私たち自身や他者の中に、現行の社会が生きづらい、何か本当ではないという抑圧感や疎外感をを感じるからこそ、社会を変えたいと考えるのだ。ところが、そのような社会を変えるための運動や政治が、新たな抑圧や排除を孕んでしまうというのはどうにもやりきれない皮肉な事態である。
 権力を意志して上から人を動かそうとすること、またそのような権力の体系に組織され従属することは、とにもかくにもある目的のために私たちの目の前にある現在の瞬間を手段として供することを意味する。しかもその目的地にたどり着くまで長い時間を要するのであれば、私たちの時間は長期間にわたって手段として権力関係に服することを強いられるだろう。それはつまり現在のこの瞬間を味わい、燃焼し、そのまま享受する可能性を、(目的地である)未来のある瞬間まで繰り延べることだ。(もっとも権力に組織され手段として活動することに面白さを感ずる面も人間にはあるだろうし、100%現在を享受していないとは言い切れないと思うが、、、)と同時に(同じことだが)どうしても、手段に沿わない事態や存在を、目的実現のための障害物として見いだしてしまうことにもなる。
 偉大な革命の後に続いた労働者国家の文化的不毛や収容所化の最大の原因はここにあったのだろう。それは基本的に享受なき、遠い目的地への手段(プロセス)としての社会でしかなかったのだ(とうとう目的地にはたどり着けないままに、労働者国家は事実上消滅してしまったが)。目的地への最短コースを走ることを阻害しかねない存在や価値は社会の周辺(シベリア)へと追いやられ、収容所に閉じ込められる。文化というものが、むしろそのような逸脱的な価値をエネルギーとして成り立っているにもかかわらず。
 もっとも、資本主義国家にも大筋同じような分析が可能であり、これらは過ぎ去った過去の運動や政治の欠陥などではなく、いままさに私たちの日常を組織している権力も(はるかにグローバル化し、洗練された管理をしているにせよ)基本的には同じような形態を持ち、したがって同じような排除を社会内部に分泌しているわけなのだが。(つづく)

15:37 | 思想など | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
Fri.

日本男児

 えー! こりゃあんまりだあ。

 私もネオダダやハイレッドセンターの頃の赤瀬川のファンです。脱力した人柄ですが、作品には不思議な緊張感がきらりと輝いていました。梱包や複製みたいなモダンアートの造形言語はわりとポピュラーなものですが、例えば有名なクリストの梱包なんかより赤瀬川の梱包作品のがよっぽど生々しくて面白いと思います。
 しかし千円札裁判以降徐々に赤瀬川の活動から気が抜けて行くように感じていたのも事実で、老人力なんて言うに及んで脱力というより耄碌してしまったのかと思っていました。
 ですが猿虎さんの報告にはさすがに目を疑いました。おやおや一体どうしてしまったんでしょう? これでは前衛の恥知らずな堕落であり、前衛という言葉への裏切りです。読んでみないことにはコメントのしようがありませんが、何かの間違いであって欲しいと思います。
18:05 | アート・建築・デザイン | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑